水魚之交
吐く息もすっかり白くなった十二月。
少女学区にも本格的に冬が訪れようとしていた。
この街に越してきて早八ヵ月。最初の頃こそ女性しかいないこの街に違和感こそ覚えていたものの、今ではすっかり慣れてしまい、男性という概念の存在すら忘れつつあるように思える。
街中を行く女性同士のカップルにもなれ、最近ではその姿に自分と思い人を重ねてさびしい気持ちになってしまうくらいだ。
特に十一月の大金星祭以来、驚くほど溜息の数が増えた。
結果的には綾の自立を促すいいきっかけになったのは間違いないのだが。
最近ようやく減り始めていた私の元へ届く手紙と寮への訪問者の数が全盛期いじょうに増え、正直な話をいえば只管に面倒なのだけれど、性格故、どうしても無下にはできない。自分を慕ってくれる相手にそう冷たくはなれないものだ。
悩みはそれだけではない、綾にもなぜか追っかけができるというよくわからない事態になり始めているのも頭が痛い。当人は気付いていないのが幸いだろうか。
そしてなにより、一番の悩みは、綾が私の手元を離れつつあるということ。
少女達の集まる明津女子寮の食堂にはいい匂いが漂っている。
最近料理に凝っている木津先輩の今晩の料理は鍋である。
寒い冬に鍋は日本人の大定番であるが、少女学区においてその定番はなんともバランスが悪い。鍋の前に座る大上さんの金髪と、真っ赤な中身を抱える土鍋のショットはなんとも言えない違和感を抱かせる。
「さ、どんどん食べて頂戴。味は保障するから」
「キムチ鍋の素に高級食材をふんだんに使って失敗するわけがないものね」
「最近木津ちゃんの調理当番が楽しみよね、高い材料で安全な料理を作ってくれるから」
相変わらず散々な言われ様であるが、それでもカップ麺やレトルトカレーオンリーだった頃に比べれば随分な進歩だ。最近では包丁捌きも随分板について来ている様だ。
皆何かしら変わっていく。
隣に座る綾の姿をみて本当に強くそう思う。
服装も髪型も随分と気を使うようになったし、食事の時もあまり食べ物を零さなくなった。
前までは他人が同じ食べ物をに箸をつけるような鍋なんて絶対に食べなかったのに今は着にした様子もなく美味しそうに白菜を食べている。
学院の方でも時折、本当にたまにだけれど他人と話すようになった。寮の中では笑顔を見せることもある。
それはともて嬉しい事で、いい事のはずなのに、素直に喜べない自分がいた。
そのことがまた、私自身を苛つかせる。
「園子、食べないの?」
「ちょっと冷めるのをまってたの」
綾に声をかけられて、随分と長い間思考していたことに気付く。最近はこういうことがよくある。私がしっかりしなければいけないのに。
心の中でもやもやとした何かが引っかかっている。
口に運んだ牡蠣の味もどこかぼんやりとしていてよくわからない。
その日、私の手元に置かれた布巾を使うことは一度もなかった。
夜の十一時を回ろうとした頃、部屋の扉がノックされた。
課題を片付ける手を止めてドアを開けると大上さんがティーセットを乗せたお盆を手に経っていた。
「少し、いいですか?」
わざわざそこまでの準備をしている相手を無下に帰す人間がいたら見てみたいものだ。
「どうぞ」
「失礼します」
机の上に広げていたノートや筆記用具を片付けて、クッションを出してテーブルの方へと移る。
「お邪魔でしたか?」
「大丈夫よ、気にしないで」
どうせ殆ど上の空で手がついていなかった状況だったし。
「それでどうしたの大上さん?」
「どうしたか聞きたいのはあたしの方ですよ」
彼女は言いながらお盆をテーブルの上に置いてお茶の用意をしながら続ける。
「最近、宮戸さん随分明るくなりましたね」
「そうね、まだ慣れないこともあるみたいだけど前に比べたら大分ね」
「結局あたし達はそれ程、何かできたわけじゃないですけれど」
「綾がよくなってくれるならそれでいいのよ」
そうだ、それでいい筈なんだ。
「そうですね、なのになんで瀬名さんは最近ずっと浮かない顔をしているんですか」
その問いの答えはわかっている。とても醜い答えだ。だから何も言わずただ私は黙っていた。
そんな私の様子を察したのか大上さんはため息を吐いて続けた。
「自覚はあるみたいですね」
「うん、やっぱり綾が離れていくの寂しいみたい。綾は一人でも歩いていけるのに、私はただそれをみていることしかできなくて。一人で置いてかれるみたい」
綾のためといいながら彼女が本当に一人立ちできるようになってしまったら、本当に困るのは私だ。古河先輩が言ったとおり依存していたのはずっと私の方。
「それを認めてきちんとあたしに言ってくれるようになったのは瀬名さんの進歩だと思いますよ。多分」
「ありがとう。うん、私も、もっとちゃんと前に進まないと。そう思うんだけど」
綾はもう一人で大丈夫。それは間違いない。世話係の私はもういらない。
私も変らなければいけない。
綾と対等に、そうして彼女の隣に立ちたい。
でも、私が抱える秘密。それが邪魔をする。隣に立つ資格なんてないと胸を苛む。
だけどそれを今更綾に打ち明ける必要はあるのだろうか。立ち直りかけている彼女を無駄に傷つけるだけじゃないのだろうか。私が罪悪感から逃げ出すためのエゴではないのだろうか。
そこでいつも考えは止まる。
「私これからどう綾に接していいかわからない。綾の人生をむちゃくちゃにした事、謝りたい。だけどそれを今更話して、綾はただ傷つくだけで、私はまた私のエゴで綾を傷つけようとしてるだけなんじゃないかって、どうすればいいのか正直わからない」
知らないほうが言い事もある。それは私に都合のいい言葉だ。自分を正当化する魔法の言葉。
でも、胸が痛い。ずきずきとずきずきと。
日に日に綺麗に、明るくなっていく綾を見ていると罪悪感に押しつぶされそうになる。楽になりたい。全てを話して、許してもらいたい。許してもらえるとは限らないけれど、この重荷を下ろしてしまいたい。
私は結局どうしたいのだろうか。全てを喋って、楽になりたいのか。全てを隠して、いい人になりたいのか。
私は、どうすべきなのだろう。
悪い事をしたらあやまらななければならない。子供でも知っている当然の事。でもそれが、相手を傷つけるとしたら。しかしそれも言い訳に過ぎないのではないだろうか。
わからない。
わからない。
綾のために、ずっとそう言って生きてきた。
でもそれは本当は全部自分の為。綾の側にいるため。今悩んでいるのも結局自分のた為のことでしかない。私は、最低の女だ。
悲劇のヒロインを気取ってもしょうがない、私は結局どこまでいってもそうなのだろう。
そんな私の思考を打ち切ったのは大上さんがカップをソーサーに置く音。
彼女は、一度息を大きく吸って、吐いて。そうしてゆっくりと口を開いた。
「エゴでもなんでも、話すべきだと思います。彼女のため黙っている、それって今までと何が違うんでしょう? 彼女のためになっていたなかった今までと。
傷つけて、それでも立ってくれると信じるのはやっぱりエゴかもしれないですけど……信じてあげるのが変るということなんじゃないですか? 正しい答えなんてどうせ出ないんです。だったら変る事を選びましょう」
大上さんのその真っ直ぐな姿勢をいつも羨ましく思う。私に足りないそのはっきりとした決断力。こんな人が私に好意を寄せてくれている事を本当に嬉しく思う、同時に罪悪感を覚える。私だったら綾が好きな人がいるなんて話し始めたら、きっとまともに聞く事もできずに逃げ出してしまうだろうから。
彼女にはいくら感謝しても足りない、いつかきちんとお礼をしなければならない、だけど今は、もう少しだけ頼らせてほしい。
「ありがとう大上さん。話すよ、全部。今までの事、謝って、綾に告白する」
私は本当に自分勝手だ。綾を傷つけて、大上さんも傷つけて、自分のほしい物を追いかけている。
「いい結果が出るの、待ってますよ」
大上さんはそう言って笑う。その青い瞳に陰りはなく、彼女の強さに私は頭が上がらない。全部終わったら、大上さんに夏に約束したご褒美をあげよう。それもやっぱり私の身勝手な想いだけど。
もうすっかりと見慣れた彼女の部屋の扉をノックする。
「綾、いる?」
手も、声も、少し震えていた。
大上さんと言葉を交わした翌日の夕方。
明津女子寮はしんと静まり返っていた。いつもなら聞こえてくる少女達の声は今は聞こえない。大上さんが寮生たちを誘って街に出ているからだ。本当に頭が上がらない。
万が一人に聞かれて愉快な話しでもないから、またとない好機だ。
「あいてる」
そっけない綾のいつもの声に、意識が引き戻される。深呼吸を一回。
ゆっくりと扉を開ける。
「お邪魔します」
「何、あらたまってそんな」
怪訝な顔でそう返してくる綾は部屋着姿でベッドに背を預けて座り込んでいた。
部屋着といっても、以前のよなジャージ姿ではない。足首ほどまであるロングなワンピース姿で、今までならおき抜けでぼさぼさのまま放置されていた髪の毛もきちんと梳いて少し高い位置で括っている。
私の知っている綾だったら出かける予定のない日はもっとだらしなく、身だしなみなんかにはまったく無頓着に過ごしていたのに。
変りつつある彼女の姿をまざまざと見せ付けられ、少しだけ怯む。
「何してたの?」
「別に何も」
そういう彼女のベッドの傍にはお菓子のレシピ本が置いてある。最近お菓子を作ることなんてめっきりなかったのに。これも変化の一つだろうか。部屋の中に視線を走らせてから、ローテーブルを挟んで彼女の向かいのクッションの上に腰を下ろした。
「それで、どうかしたの園子?」
聞かれて息を呑む。
心臓が早鐘を打つ。
いつか来るこの時がずっと怖かった。できれば一生こないで欲しいと願っていた。
でも同時に、いつか謝らなければならないと、ずっと思っていた。
覚悟はもう済ませた。
たとえ許されることがなくても。
「綾、話があるの」
声は震えることなく、真っ直ぐと彼女の耳に届いた。
「どうしたの、改まって話があるなんて」
私の声から察するところがあったのか、綾は背筋を伸ばして、私に向き合う。
「どうしても綾に話しておきたい事があるの」
もう後戻りはできない。
真剣な顔つきになった綾の目を見て、不意に今まで過ごしてきた時間を思い出す。幸せだった、けど、罪悪感に苛まれた、空虚な時間。もう二度と手に入らないであろう彼女との時間。
未練はない。躊躇いもない。
私は口を開いた。
「中学生の頃のこと、覚えてる……?」
「うん……」
覚えていない訳がない。あの頃は本当に毎日綾の顔色はひどくて、今にも消えていなくなってしまうんじゃないかってくらい、儚くて。私はそんな彼女に必要とされることを、頼られる事ばかりを考えて、綾の事はなにも考えていなかった。
今思い出しても、自分で自分のした事に怖気が走る。
そんな日々を思い出す綾はの顔は青い。
確信にも至らない表面に触れただけでそうなってしまうのも、無理はない。
それでも私は踏み込む。
「毎日、綾がいじめられて、私がそれを助けて……」
彼女は黙って頷いた。顔色はますます悪くなっていく。私は残酷な事をしている。そしてこれから、もっと彼女を傷つける。胸が痛い。それでも私は全てを話す。
「あれね、全部、私が仕組んでたの。綾がいじめられるように、私が」
そう告げた瞬間綾の顔から表情が消え去った。
「え……なんで、そんなこと……園子に何の得もないのに……」
震えた声で、涙を瞳にためて。青を通り越して。白くなった顔で綾は必死に、途切れ途切れに消え入りそうな声を紡いだ。
「私、綾に頼られたかった。綾がいじめられれば、私を頼って、私に依存して、私だけを見てくれると思っていたから」
「何、それ……わけわかんない……」
私だっていきなりそんなこと言われたら同じように返すだろう。だから、全ての発端になった私の気持ちを告げる。
「園頃から、私、ずっと綾の事好きだった。だから綾のこと傍に置きたかった。気持ち悪いって思われても何も言い返せないし、綾が私を殺したいって思うなら、私は貴方に殺されてもいい。それでも貴方のことが好き。図々しいけど、この気持ちだけはどうしても変えられない。最低だって自分でもわかってるけど、どうしようもないの」
長年秘めてきた気持ちを全て吐き出した。
それは最高に気持ち悪くて、嘔吐して胃の中身を全て吐き出してもおさまらない吐き気によく似ていた。
綾は項垂れて、表情は私からは見えない。
どんな罰でも受けるつもりだった。罵詈雑言でも、暴力でも、許してもらえるなんて思っていない。死ねといわれれば死ぬだろう、出て行けといわれればこの街からだって出て行く。彼女に私をどうしてもいい権利がある。
綾が何かを喋ろうと、息を呑むのがわかる。
私は怯えながらその言葉を待った。
「なんで、今更話そうと思ったの……?」
綾は小さな声で問いを投げかけた。
「もう、綾の為っていう大義名分は使いたくないし、使えないから。綾は私の顔なんか見たくないかもしれないけど、私はこれからも綾と一緒にいたい。自分勝手で身勝手ないい分だけど綾と向き合って、綾に決めてほしいと思ったから」
綾はしばらく黙って、それからポツリと呟いた。
「色々、考えさせて欲しい」
「うん、わかった」
私はそう告げて立ち上がって綾の部屋を出る。ドアを閉める直前見えた彼女の姿は、いじめられていた頃の彼女の姿よりももっと小さく見えた。
自室に戻って私はベッドの上に身を投げた。
お腹の奥を何かがぐるぐると回っている気がする。
綾はどんな答えを出すのか、怖い。
だけど、どんな答えでも私はそれを受け取るしかない。
目を瞑って綾の事を考える。笑っている彼女の顔。ずっと昔、まだ綾がいじめられて居なかった頃の笑顔。そうして最近また笑うようになった彼女の顔。私が好きな綾の顔。
また見る事は許されるだろうか。
目を瞑って、眠りに落ちる。
私がそれから数時間して目覚めると、綾は明津女子寮から姿を消しその夜彼女が戻ってくることはなかった。
一年以上間があいてしまいましたが少女学区二十話目となります。
また間を見て更新していけたらと思います。




