窮猿投林
明の星特別学区。通称、少女学区。数多の少女達が暮らす、少女の街。
三校の全寮制女子校が集まったこの街では大半の住人が少女という奇妙な現象が起こっている。
そんな奇妙な場所では、奇妙な、人、奇妙な現象が不思議と集まってくるもので。
心霊現象や超常現象といったものもそれ程珍しいわけではない。大半は住人の少女達の悪戯であるとはいえ、中には本当にそういったことが起こることもある。
八月も半ばに差し掛かりそうなその日、あたしにかかって来た電話はそういう用向きであった。
まだ朝の早い時間。空調を効かせたままの部屋で起きているのか眠っているのか、曖昧なまどろみを楽しんでいるところに、その電子音があたしの部屋に飛び込んできた。
夏休みに入ってからあまり出番のなかった携帯を手に取ると着信は木津澄香となっていた。
写真狂いと呼ばれる彼女も最近はすっかり恋愛にお熱でそれ程精力的な活動はしていないと聞いていたのに、まさか振られでもしたのだろうか。
ぼんやりとしながら通話ボタンを押すと寝起きには辛いテンションの声が襲い掛かる。
「もしもし、目黒ちゃん?」
「はいはい目黒ですよ。どうしました木津さん」
「急で悪いんだけど、ちょっと祓ってもらえない?」
「……今日ですか?」
「できれば、早いほうが。無理そう?」
切羽詰ったようなその声に電話の向こうで困った顔をする木津さんの姿が容易に想像できる。兎にも角にもあたしは頼まれ事には非常に弱い。特に相手が困っている風であればあるほどに。我ながら難儀な性格をしていると思う。
「分かりました、行きますよ。場所は?」
「助かるわ目黒ちゃん。私の住んでる明津寮はわかる?」
「ええ、大丈夫です」
「じゃあそこまで来て貰える? 詳しくはそっちで話すから」
「了解しました。一時間くらいで向かいます」
通話を終えて携帯を放り出して。ベッドにそのまま崩れ落ちる。
そうすると自然と深い、深い、それはもう本当に深い、溜息が漏れた。
「というわけでお仕事ですよ玲子さん……」
「どうした夕、そない暗い顔して。これから仕事っちゅーに元気ださな」
「主にあなたが原因なんですよ……」
耳元で陽気に似非関西弁を喋る玲子さんを手で払ってとりあえずベッドから起き上がる。
「まーまーそう言わんといてーな。ぱぱっと祓って夕の株上げたるさかいに」
「そんなこといって、またあたしにさせるつもりなんじゃ」
「それは、相手の規模次第やな」
ニッと歯を見せて笑う玲子さんは随分とご機嫌だ。夏休みに入ってからというもの殆ど部屋で過ごしていて事に大変不満があったようで、久々の外出に随分とはしゃいでいるようだ。
「できれば木津さんの勘違いだといいんだけどなぁ」
もう受けてしまった以上は行くしかないのだ、覚悟を決めて壁にかけてあったブレザーに手をかける。
「学校でもないに制服着てくんか?」
「一応同好会の校外活動になりますから。制服着用は義務です」
「そんなん律儀に守るやつ今時おらへんで」
「どうせ着ていく服もないですから」
「こないだワイが選んでやった服があるやろ」
「あんな短いスカート履ける訳ないじゃないですか」
「絶対似合うと思うんやけどなぁ」
あたしが着替えている間も玲子さんは部屋から出て行くこともなくその様子を眺めている。
出て言って欲しい所だが、彼女はあたしから離れられない。
といっても、たとえ出て行けるとして、非常に嬉しそうな顔であたしの着替えを眺めている彼女が素直に出て行くとは考え難いが。
「相変わらず透き通るような綺麗な白い肌しとるのぉ。羨ましいわ」
「なにかの冗談ですかそれ」
「いや、本音よほら、ウチの肌健康な小麦色やん?」
そういって目の前に差し出される腕はたしかに健康そうな小麦色なのだが、僅かに透けている。比喩でもなんでもなく、逆側が透けて見えるのだ。
「健康もなにもないじゃないですか」
「まーそやけどね。それにしても夕、ちょっと太ったんちゃう?」
「夏休みに入ってから禄に運動もしてないからですね、多少は太りますよ」
「あかんでぇ女の子が自分の体にだらしないのは。でもあんまり無理なダイエットも体に悪いからなぁ。死んだら元も子もないで」
「笑えませんって……」
制服に着替え終えてそれ程長くない髪をヘアバンドで一まとめにして着替えは終わり。
「何か持ってくものあります?」
「とりあえず、塩と水もってこか」
言われたとおり、台所から塩とミネラルウォーターの入ったペッドボトルを鞄に入れてで駆る準備が完了する。
「外に出たら声ださないでくださいね」
「わかっとるよ。あんまり好きじゃないんやけど」
玄関で学校指定の靴を引っ掛け玄関から外へ、空調の効いていた室内から外に出ると、あまりの気温の差に直ぐにでも部屋に戻りたくなる。
ちくしょう夏の太陽め。
ガンの一つでも飛ばしてやりたいところだが低下気味の視力をこれ以上落としたくないので直接太陽を見つめるような愚かな行為はしない。
(夕、靴の踵踏んだらあかんて何度言えばわかるんや)
頭に響くキンキンとした玲子さんの声。相変わらずこれにはなれない。
(今履きますよ)
口を動かさずに頭の中で声を出すようにイメージすれば同じように玲子さんに声が届くはずだ。
とりあえずその場に屈んで靴を履きなおす。
屈んだ視界の中に玲子さんの足、正しく言うならばその膝から下はどこにも見当たらない。
玲子さんは変なところでステレオタイプな幽霊なのだ。
明津女子寮の食堂は沢山の少女達が集まっていた。
いや表現としては少し正しくないだろう。
食堂の中にいるのはあたしと木津さん、そして玲子さんだけだ。そうしてその食堂の入り口、ドアの隙間から幾人もの少女達がこちらを興味深そうに眺めているのだ。
「あの子達はまぁ気にしないで」
「はぁ……」
まぁ、あたしはそれ程気にしないのだけれど。
(この寮ちょっとレベル高すぎやないか? こっちの茶髪の子もええけど金髪の子もかわいいで。奥の長身の子も捨てがたいけどな)
(ちょっと黙っててくださいね玲子さん)
女の子大好きな玲子さんのはしゃぎっぷりにまだ何もしていないのにあたしは既にグロッキー気味だ。
「体調悪かった? 少し顔色が悪そうだけど」
「少し暑さにやられただけなので、直ぐになおりますから」
「そう? それじゃ早速話を始めたいんだけど」
「どうぞ」
「それじゃまずこれを見て欲しいんだけど」
そう言って木津さんが差し出してきたのは一枚の写真だ。とりあえず手にとってしげしげと眺めてみる。
なんの変哲もない廊下、その突き当たりに、白い靄のような、少女の人影がぼんやりと写っている。
経験則からいえばこういったいかにもな人の形をしたやつはヤバイ。同属の玲子さんもをそれをひしひしと感じているらしく、
(あかんでこれ。ヤバイんちゃうかな)
先程までのはしゃぎ用はどこへやら、同じ幽霊の癖に青い顔をしている。
「どう? やっぱり霊よねこれ」
「ええ、そうですね」
「わざわざ私の部屋の前に陣取ってくれてるわけなんだけど、まさか悪霊だったりととか……?」
酷く怯えている木津さんには悪いと思うけれど、事実はどうがんばってもまげられない。あたしは重々しく頷いた。見る見る内に木津さんの顔が青くなっていく。
「大丈夫よね? 祓えるのよね目黒ちゃん!」
必死ですがり付いてくる木津さんにどう返すべきか……そもそも、祓うのはあたしの仕事ではない。あたしにできるのは霊を見ることと、霊と話すことだけだ。実際に霊を払ったりするのは玲子さんの仕事であり、あたしはその仲介に過ぎない。
(玲子さん、どうなんです? いけそうですか?)
(ここまでだと、あれをやるしかなやいやろな)
(……本気ですか?)
(別に解決しとうないなら、ウチはええけど)
ニヤニヤと楽しそうに笑う玲子さんは明らかに楽しんでいる。あたしとしてはあれだけはなんとも避けたい。しかし、玲子さんの手伝いなしにあれを退けるのはさすがに無理だ。
そしてなにより、震えてすがる様な目で見つめてくる木津さんを放っておくことはあたしには到底できそうもない。
「大丈夫ですよ。任せてください木津さん」
しっかりと目を見て答えると、木津さんはその顔を明るくして抱きついてくる。
「よかった。やっぱり持つべきものは友達ね」
とりあえず暑苦しい木津さんを引き離しながら、非常に不本意ながらも玲子さんに声をかける。
(……玲子さん、お願いします)
(任しとき)
キンキンと響いてくる彼女の声は呆れるくらいに弾んでいる。
(とりあえずどうすれば……)
(ほんなら、トイレでも借りてささっとすませよか)
(本当になんでこんなことに……)
決めた以上愚痴を言っていても仕方ない。
「木津さん、ちょっとお手洗い借り手もいいですか?」
「ええ、食堂でて真っ直ぐ階段の直ぐ横な。
「ありがとうございます」
食堂から出ると先程までそこにいた住人達は皆蜘蛛の子を散らすように自室へと入って行ったようだった。盗み聞きなんてしなくても普通に聞けばいいのに。なんともよく分からない。
トイレに入って鍵を閉め、もう一度玲子さんに確認を取る。
(本当にやらなきゃだめですか?)
(往生際悪いで、堪忍し。はよせんと誰かに見つかってもしらんで)
(わかりましたよ……)
泣きたくなるのをぐっと堪えてあたしは自分の指を下着の上からそこに当てた。
玲子さん曰く、幽霊というのは気力、気持ちの強さによってその位が上がるのだそうだ。それ故に悪霊と言われる類の霊は強い怨念を持つために現実に干渉するほどの力を持つ。
要は精神論である。霊を怖がる人間ほど被害にあいやすいというのはこのためだ。
そして、女好きで、ドSで、幽霊になってなお精力の強い玲子さんの気力、モチーベーションをあげるのに最適なのがあたしの恥ずかしい行為であるらしい。
俄かには信じがたいが、どっちみち殆どの場合はこれをやらないと彼女は臍を曲げて協力してくれないのだ、嘘だろうとなんだろうとあたしには従う以外の道はない。
(無駄なこと考えとっても終わらへんよ? もっと指にちからいれい)
言われるままに指に力を入れる、徐々に下着が濡れて来るのがわかる。他人の寮のトイレであたしはいったい何をしているんだろう。
(今日はぬれるのはやいのぉ。こういうシチュで興奮しとるん?)
(あたしはそんな変態じゃありません)
(そうかぁ。まぁ別にそれはええんやけど。やっぱり毎回こう見てるだけってのも残念よなぁ。折角好きな子がウチのために盛ってくれてるのに何もできんて悔しいわ)
あまり人から好意を向けられるという機会が少なかったせいか、ストレートな好きという言葉にあたしは滅法弱い。なにかのスイッチがはいる。
(ウチが夕に触れたら色んなことしたるのになぁ。手始めは耳あたりやろか、意外と耳がいいって子多いねんで? 夕はどないやろな?)
玲子さんの言葉を頭の中で反芻する。そしてその通りのシチュエーションを想像するだけで、体にゾクリと電流が走る。 息が酷く荒い、頭の中の冷静だった部分はとっくにとけきって、頭の中は真っ白だ。
(次はどこがええかな? 鎖骨をゆっくりなぞって、胸は敏感な所は避けてじっくりと、背中に回って、お尻、そんで最後は……)
ドアをノックする音で、あたしの意識が急速に戻される。
「随分長いけど大丈夫目黒ちゃん? 顔色悪かったし薬もってこようか?」
(ああ残念時間切れやな)
木津さんの声になんとか平静を装って答えを返す。
「もう出るから、大丈夫、食堂でまってて」
「そう? 一応薬だしとくから」
「うん、ありがとう」
木津さんの足音が遠ざかって行き、あたしはほっとする。
(んじゃ戻ろか。気力の方は十分やしな)
そう言って背を向ける玲子さんにあたしはなんと声をかけるべきか迷う。意識の方はしっかりと戻っても、体に灯った熱は当分引きそうもない。
(はよせな、心配してまたあの子が来てまうで?)
振り返った、玲子さんはまた、楽しそうにニヤニヤと笑っている。分かっていてあたしを煽っているのだ。どうあってもあたしはこの人には勝てないのだろう。
顔を恥ずかしさや、それ以外の何かで真っ赤にしながらあたしはその一言を告げる。
(最後まで、つきあってください……)
(やっぱり、かわええなぁ夕は)
今日一番の笑みを見せる玲子さんは本当に嬉しそうで。死んでいるのにあたしより随分と生き生きとしていた。
事が終われば仕事の時間だ。早く終わらせて部屋に帰って今日の事はすぐさま記憶の彼方へ放り出したい。
幸い玲子さんは非常に満足したようでやる気は漲っている。木津さんを階下に残しあたし達は件の廊下の行き止まりまでやってきていた。写真に写っていたあの悪霊は相変わらずその場にいて、木津さんの部屋の扉をきつく凝視している。
(どうしましょうか、あれ。とりあえず塩とか盛ったほうがいいですかね?)
(とりあえず話して見るわ)
(話通じるんですか?)
(人型やし、なんとかなるやろ)
(気をつけてくださいね)
(心配せんでもええで、力はありあまっとるから。もしものときはちゃんと守ったるさかい)
頼もしい台詞を残して玲子さんは悪霊へと近づいていく。と言ってもあたしからそれ程距離は離れられないので距離にして五メートルもないのだが。
どうやら話は通じているらしく、此方を向いた悪霊と手振りつきでなにやら話しているようだ。悪霊の方はあたしに会話を聞かせる気がないらしく此方にその会話が漏れて来ることはない。
しばらくすると、玲子さんが戻ってくる。悪霊はすっとその場から消え去ってしまう。
(あれ、解決したんですか?)
(ああ、何か拍子抜けやけど、別に呪うとかそういうつもりで来てたわけじゃないみたいや)
(どういうことですか?)
(何でも毎晩毎晩自分のテリトリーで彼女との写真を見て情事に耽っているのが煩いだの、恨めしいだので脅したら静かになるかと出てきたらしいで)
(なんですかそれ……木津さんの自業自得じゃないですか)
というか毎晩そんな事をしてるなんて、これから木津さんの顔を見るのが非常に気まずい。
(せやな……とりあえずウチらからあの子に辞めるように言ったらもう出て来んって)
(知っただけでもあれなのに、言わなきゃならないんですか)
(しゃーないやろ。呪う気がなくてもあのまま居座られたら多少なりとも悪影響でるで)
(ですよね……いったいなんでこんなことに)
(とりあえず食堂いこか)
(はい)
肩を落として食堂へ向かう。木津さんもとんだ災難だ。そうして結局あんな恥ずかしい思いをしたのになんの意味もなかったあたしも、いったい何のためにがんばったのか。
深い深い、とても深い溜息を吐きながら、あたしはとてつもなく気まずい空気が訪れるであろう食堂へと向かうのだった。




