食虫植物
明の星特別学区。通称、少女学区は世にも珍しい少女の街だ。
天津星学園、明星女子学院、そして夕星女学校。三校の全寮制女子校が一箇所に固まってできたがために町中に少女が溢れかえり、気付けば特別学区などという待遇を受けて住民の大半を女子学生が占めるという奇妙な街が誕生した。
そんな一風変わった街には、変わった人間が多く住んでいるものだ。
小学生時代からこの街に住んでいる筋金入りのお嬢様ともなれば大学卒業まで男を一度も目にしたことがない、などというのはざらである。
そういう私もその一人で、目にしたことのある異性は父だけだ。
故にその日、私が経験したことは、この街では割とありふれた、ごく普通のことだった。
天津星学園の新聞部の部活動のひとつに隠し撮りがある。部の設立当初から続く由緒正しい活動である。
活動内容は至極単純で生徒から依頼を受け、ターゲットに気付かれないように写真を取り、報酬を貰う。
冷静に考えればただの盗撮だが、何しろ昔からあるしきたりのようなもので、教師の大半がこの学校の卒業生である天津星学園では、教師公認の部活動といっても過言ではない。というか稀に教師から依頼が来ることすらある。
その日私が受けた依頼は陸上部部員の一人の撮影だった。これは比較的楽な部類である。屋上まで出てしまえば校庭は丸裸。ばれることなく取り放題である。
軽い足取りでいつもの様に顔を出した屋上には、しかし先客がいた。
屋上の端っこ、フェンスに背を預け本を片手に眠りこける生徒の姿が目に入る。
私はその姿に一瞬で釘付けとなった。
余りにも彼女が綺麗だったからだ。
見覚えの無いその顔に軽く首を捻る。
これ程までの生徒を私が知らないはずが無いのだ、暫くの間私はうんうんと唸りながら彼女の寝顔を眺めていた。
透き通るほどに白い肌、黒い胸元程まである長い髪、赤く色づいた唇は精巧な人形を思わせる。その美しい寝顔に知らず鼓動は早くなっていた。
そうして傍らに転がる、野暮ったいレンズの厚いメガネを見つけて、ようやく私は彼女が誰であるかを思い出した。
文芸部部長の針谷由布子さんだ。最近なにかの新人賞をとったとかで少し前校内では軽く噂になったのを思い出す。
思い出してみれば確かに彼女なのだが、普段のメガネのイメージとの余りのギャップに気付かなかった。眼鏡一つでこれほど変わると、誰が思うだろうか。
無意識に、吸い寄せられるように彼女の顔へと手が伸びていた。柔らかそうなその頬に指が触れる。自分の肌とは違う、暖かさと柔らかさに触れ、体の中の奥のほうがカッと熱くなるのを感じる。
もっと触れてみたい。
指先は自然と彼女の頬をつたい、唇へと向かう。たった数センチ指を動かすだけのことに異様に胸の鼓動が早くなる。体の熱さは増すばかりで頭もなんだかくらくらしている。そうしてたっぷりの時間をかけて私の指先が、彼女の唇に触れた。
その瞬間、彼女が寝返りをうち、私はとっさに手を引いて、そして屋上から駆け出していた。先ほどまでの熱は嘘の用に体から引いていき私は一体何をやっていたのだろうという思いが頭の中をまわり始める。一息に一階まで階段を駆け下りて荒い息が整ってもに千々乱れた心は一向に整うことは無かった。
頭を振って立ち上がり今日はもう帰ろうと私は部室を目指して歩き始めた。
指先にはまだ彼女の柔らかい唇に触れた熱が残っていた。
午後七時三十分。明津女子寮の食堂には見知った寮生が集まっていた。この寮では夕飯は寮生が交代で作っているため、自ずとこの時間には寮生の殆どが顔を見せることになる。誰だって冷めたご飯よりは温かいご飯が食べたい。
八人掛けのテーブルには色とりどりの少女達が腰かけ、賑やかにご飯を食べている。
その中に特に目をひく二人組がいる。
通う学校は違えど一つ下、高等部一年の後輩、宮戸綾と瀬名園子の二人組である。身長差の激しいその二人の組み合わせは遠目からでもよく目立つ。
身長の低い方、宮戸はパンくずをポロポロと零しながら食事をしているのに対し、身長の高い方、瀬名ちゃんは礼儀正しくご飯を食べながらも隙を見ては宮戸の零したパンくずや口についたお弁当を片付けてやっている。まるで歳の近い親子のやり取りを見ているようだ。
その光景に私はため息を吐きながら、お盆を片手に彼女たちのの正面へと腰掛けた。
「人を見るなりため息を吐くなんて失礼じゃないですか木津先輩」
「私だってそんな気分の時があるのだよ瀬名ちゃん」
「木津さんがため息なんて明日は雪か槍か」
相変わらず行儀の悪く食べ物が口に入っていても口を開く宮戸だが、注意したところで効果が無いのはわかっているのでそのことには触れず言葉を返す。
「まーね、明るいくらいが私の取り得なのわ認めるわ」
「それで、どうかしたんですか先輩?」
「いやさね、好きな人ができちゃったのよ」
軽く呟いた一言に食堂が一斉にざわついた。
「え、木津ちゃんが恋?」
「あの写真狂いが?」
「相手はどんな四角い顔なのかしら」
散々な黄色い言葉が飛んでいるがいつものことなので気にしてもしょうがない。ていうかなんだ四角い顔って、カメラみたいな顔とでも言いたいのか。
「いいじゃないですか、応援しますよ私は。それでどんな人なんですか?」
「木津さんが惚れる様な人って、想像できないわ」
宮戸の言葉に私は放課後に見た彼女の姿を思い出す。自然と体が火照るのが分かる。
「なんだろう、どういえばいいのかな、凄い綺麗で、可愛くて、眠り姫みたいな……?」
「割と普通の好みなのね。それとも性格が変わってるのかしら」
「綾、あんまり先輩に失礼なこと言わない」
瀬名ちゃんに諌められてぶーたれる宮戸の姿はなかなかに可愛らしく微笑ましい。手元にカメラがあれば自然とシャッターを切るようなほのぼのとした光景だ。
「それでどんな人なんです、容姿以外は」
「それがよく知らないのよね」
「なにそれ、どういうこと?」
「唐突な一目惚れだったものでさ、名前とかしか知らないのよ。それでどうしたらいいのかなーって悩んでたわけ」
「木津さんらしくない。インタビューの時とか見たいに強引に押せ押せでいいんじゃない?」
「いやいや無理だから、絶対無理だから。なんか全然声が出る気しないのよ。気圧されるっていうか」
起きている時の彼女と対面なんてしたら私はきっとカチコチに固まって漫画みたいに天気の話でお茶を濁すことくらいしかできないだろう。
「ああ、でも綾の言う通りインタビューって言う手はいいかもしれませんね。その人部活とかで何かいい成績残したりとかしてないんですか?」
「あー、確かこないだ何かの新人賞とったって聞いたなぁ」
「じゃあちょうどいいじゃないですか、インタビュー取り付けてついでにその後お礼とでも言って帰りに喫茶店でも寄ってくればすぐに仲良くなれますよ。インタビューなら質問もじっくり考えれるでしょうし」
「なるほど、さすが瀬名ちゃん頼りになるわー。ハグしてあげよう」
「や、ハグは遠慮しておきます」
しかし、なるほど、インタビューか。確かにそれはいい手かもしれない。ちょうど今月の新聞のネタも探していたところだったのだ。新聞となれば写真も必要になってくるだろうから隠し撮りというやましいことをしなくても写真が手に入るし。なるほどこれは妙案だ。
「写真撮ったら見せてくださいね木津さん」
「あ、それはできれば私もみたいです」
「任せなさい。でも二人とも惚れないでよ」
「ないない」
「それはないです」
「そんなこといってられるのも今のうちだから」
些細な冗談を飛ばしてから私はようやく晩御飯に手をつけ始める。その日の夕飯はいつもより随分と美味しく感じられた。
準備は驚くほど簡単に進んだ。
昼休みにはインタビューのアポを取り付け、放課後に文芸部の部室で彼女にインタビューをすることが決まった。
思った以上に事が上手く進行しすぎて逆に不安になるほどだ。
放課後、約束の時間より少し前に文芸部の部室へと向かうと、針谷さんは既にそこにいた。
私が来るより随分前から待っていたのか、彼女は先日の様に文庫本を手に椅子の上で静かに目を閉じている。
机の上には眼鏡と携帯が並べて置いてある。恐らく時間より前に起きられるようにアラームでもセットしてあるのだろう。
昨日見たのと同じ彼女の姿がそこにはあった。
無意識に彼女の携帯へと手が伸びる。フリップ式の携帯を開いてアラーム機能を解除する。
一体私は何をしているんだろう。
携帯を元の位置に戻して、彼女の無防備な寝顔をじっくりと観察する。
時折彼女に触れたくなる強烈な衝動をこらえ、様々な角度からその姿を観察した。
どんなアングルから彼女を写真に収めればいいのか必死に考える。これ程まで撮りたいと、形に残したいと心動かされる被写体は今まで出会ったことがなかった。
たっぷりと時間をかけ、アングルを吟味し、私はゆっくりとシャッターへと指をかけた。レンズ越しに見る針谷さんは普段の何倍も綺麗に見えた。
この一枚を撮ってしまえば、私はきっと他のどんな写真を撮ったとしても満足できなくなってしまう。そんな確信めいた予感が、私の心の中にはあった。
それでも、構わないと思った。
私のカメラで、私の指で、この瞬間を、この光景を、切り取って手元にずっと置いておきたいと思ったのだ。
体を渦巻く熱に全身が熱くなっている。きっと鏡を見れば全身を紅潮させた私の姿を見ることができるだろう。お腹の奥でジンジンと狂おしいほどの熱が暴れている。
震える指先に力をこめようとした、その瞬間。
レンズ越しに、針谷さんの力強い黒い瞳と目があった。
「人の寝顔を隠し撮りなんて、あまりいい趣味とは言えないと思いますよ、木津さん」
「え、ええ、なななな」
さっきまでぐっすり寝てたと思ったのに、なんで、よりによってこんなタイミングで!
「何をそんなに慌ててるんですか?」
「い、いきなり目があって、びっくりしただけなの、別にやましい気持ちがあったわけじゃなくて」
「へぇ、じゃあ私の寝顔の写真なんてなんに使うつもりだったんですか?」
言いながら席を立った針谷さんに気圧され思わず後ずさると窓に軽く頭をぶつけてしまう。そんな私の醜態などお構いなしにこちらに近づいてきた針谷さんは私の両手首をつかむとそのまま窓へと私を押し付ける。
息がかかるほど近くに、彼女の顔があった。心臓は早鐘を打ち、握られた手首から彼女の熱を感じ、お腹の奥の渦巻く熱はさらに温度を上げ、痺れる様な間隔を体中へとばら撒いていく。
「それは、単に、針谷さんが綺麗だったから……」
「ありがとう、でも綺麗だから何? その撮った写真はどうするつもりだったの?」
「それは、その……」
使い道なんて考えてもいなかった。単に撮りたかったから、撮ろうとした。でももし。気付かれずに撮れていたとしたら。この収まることのない熱が夜まで続いていたとしたら。
「言えないようなこと? 昨日も私の唇に触れてたけど、貴方そういう趣味の人?」
「お、起きてたの!?」
恥ずかしさと、驚愕にどんどん思考がぐちゃぐちゃになっていく。
彼女の熱い吐息が前髪を撫でる。近すぎる彼女の顔に視線を奪われ思考が定まらない。私は言い訳すらできず、ただ彼女の顔を見つめることしかできなかった。
私が黙りこくって何も言えずにいると、針谷さんは私の手を離して手近な机の上に腰掛けた。支えを失った私はずるずると窓に寄りかかりそのまま腰砕けになって床の上に座り込んでしまう。足には碌に力が入らなくて、暫くは立ち上がれそうにない。
顔を上げると、寝ているときとは違う、妖艶な美しさの針谷さんが私のことを睨みつけるように見下ろしていた。
「ねぇ、木津さん。私がどんな小説を書いて新人賞をもらったか知ってる?」
「タイトルだけなら……」
何せ昨日の今日のことで内容にまで目を通す時間がなかった。
タイトルはたしか『イシモチソウ』。
「そう、じゃあ教えてあげる。私が書いてるのはね、女の子が他の女の子を捕まえて愛し合うお話」
言いながら彼女は微笑を浮かべて、するりとセーラー服のリボンを抜き取った。
「もっといい写真、撮ってみたくない?」
私はそんな彼女に見蕩れて、小さく頷くことしかできなかった。
夕飯時、明津女子寮の食堂はいつもの様に賑わっていた。
私はその喧騒の中に瀬名ちゃんと宮戸の姿を見つけるとその正面へと腰掛けた。
「瀬名ちゃん、宮戸、昨日はありがとね、おかげで上手くいったわ」
「どういたしまして、よかったですね先輩」
「まぁ木津先輩見た目だけは悪くないですしね」
「綾!」
瀬名ちゃんに叱られるのも涼しい顔で受け流しながら宮戸はもくもくとご飯を食べている。私も何れ針谷さんとこんな気楽な関係になれるのだろうか。
「そう言えば、写真撮ったんですよね? 見せてもらえませんか」
「あ、私も見たい」
「ん、ああちょっと」
カメラを取り出そうとして、気付く。このカメラの中にはインタビューのためにとった写真よりも圧倒的に多い、彼女と私の痴態が……。
そんな写真が入ったカメラなんて渡せるわけがなかった。
「っと、ごめんSD学校に忘れたみたい、明日でいい?」
「先輩がカメラ関係でミスなんて珍しいですね」
「それだけお相手に夢中なんでしょ」
「ま、否定はしないわ」
実際私は針谷さんにもう完全に骨抜きだ。つい先ほどまでの放課後のことを思い出すとすぐに体が熱くなってしまう。なんだか一足飛びどころか二足、三足を楽々と飛ばして関係を持ってしまったけれど、私の気持ちに変わりはない。むしろもっと惚れこんでしまった。
カメラに収められた彼女の写真は、どれも今まで撮ってきたどんな写真よりも圧倒的な魅力を持っていた。
無意識にお腹とカメラを撫でる。
暫くは寝不足な夜が続きそうだ。