蜂は勝手に住みつく虫だと仰るなら、巣箱だけお返しします
トルネ伯爵領の収穫祭は、林檎の匂いから始まる。
広間の卓には、今年の初物を積んだ籠が並んでいた。皮の赤い王冠種、酸の強い霜待ち種、春まで置ける鉄硬種。どれも私が花の季節に巣箱を運び込んだ畑のものだ。
籠のひとつに手を伸ばしかけて、やめた。指先に蜜蝋の艶が残っている。林檎の皮を曇らせてしまう。
「アニカ」
婚約者のヴィクトル・トルネが杯を置いて、私を呼んだ。広間の話し声が、波が引くように引いていった。
「この場で言っておきたい。君との婚約は、白紙に戻す」
私は膝の上に手を戻した。
「理由を伺っても」
「理由は、その手だ」
ヴィクトルは私の手を指した。爪の際に蜜蝋が入り込んで、洗っても落ちない筋になっている。指の腹は針で刺されすぎて、もう膨れもしない。
「虫の世話で荒れた手の女を、伯爵夫人の席に座らせるわけにはいかない。君は五年、よく働いてくれた。だが働き手と妻は違う」
卓の向こうで、ヴィクトルの従妹のイレーネが扇を口元に当てた。笑うのを隠すためではなく、笑っていることを私に見せるための角度だった。
「イレーネとは来月に婚約する。あの子は歌える。客の前に出せる」
「わかりました」
私がそう言うと、ヴィクトルは少し驚いた顔をした。泣くか、すがるか、どちらかを待っていたのだろう。
「思ったより物分かりがいいな。安心した。君のことは大切に思っている。だから、これからも蜂の世話は続けてくれていい」
ここで初めて、私は顔を上げた。
「巣箱はトルネ伯爵家のものだ。君の家が置かせてもらっていただけだ。蜂は放っておいても果樹園に住みつくんだから、君が来なくても実は落ちん。ただ、続けたいなら止めはしない。君にはそれくらいしかないだろう」
広間の誰も、その言葉を訂正しなかった。トルネ伯爵も、私の父も、黙って杯を持っていた。
五年前、私が初めてこの果樹園に巣箱を入れた年、トルネの林檎は木一本で二十籠だった。去年は三十四籠。剪定も肥料も水も変えていない。変わったのは、花の二週間だけ丘を越えて運び込まれる十二の箱だけだ。
その数字は毎年、父を通して伯爵家の帳簿に届いている。誰も読まなかったのだろう。読まなくても林檎は落ちてくる、と思える立場の人たちだった。
それで私は、五年かけてもこの家の誰にも伝わらなかったことを、一度も伝えられていなかったのだと知った。
「では、巣箱はお返しします」
私は立ち上がって、林檎の籠に礼をした。
「蜂は連れて参ります」
ヴィクトルは、意味がわからないという顔で頷いた。
翌朝、私は日の出前に果樹園へ入った。
ベルゼン家の巣箱は、果樹園の南斜面に十二。トルネの林から切った樅で組み、蓋にはトルネの刻印が焼いてある。たしかに伯爵家のものだ。
私は荷車から、藁を編んだ胴と、樫の薄板で作った巣枠を下ろした。実家の納屋で去年から編んでおいたものだ。蜂は年々増える。増えれば入れる器が要る。だから蜂番の納屋には、いつでも空の器がある。
最初の巣箱の蓋を開け、燻煙器の煙を静かに送った。蜂たちの羽音が一段低くなる。
巣板を順に引き上げていく。蜜の詰まった板は重い。子の詰まった板はぬるい。私はぬるい板を選んで、藁の胴へ移した。
女王は三枚目にいた。背が長く、腹の節が薄い。三年前にこの群れが自分で育てた娘だ。私は指の腹で女王をすくい、真鍮の小籠に入れて藁の胴の入口に吊った。
あとは何もしなくていい。
蜂は箱に住むのではない。巣に住み、女王の匂いで一つの群れになる。木の箱は、その巣を雨から守るための屋根にすぎない。
群れは女王の匂いを追う。半刻もすれば、働き蜂は列を作って藁の胴へ移っていく。空になった樅の巣箱には、蜜の板だけが残った。
それを十二回、繰り返した。
日が高くなるころ、私は空の樅箱を荷車に積んで、屋敷の使用人口に運んだ。蓋の刻印を上に向けて、十二箱きれいに並べた。蜜の板は箱の中に残したままにした。あれはトルネの花から採れた蜜だ。私のものではない。
執事が数を確かめ、受領の紙に印を押した。
「蜜が入っておりますが」
「差し上げます。今年の分です」
執事は少し迷ってから、もうひとつ聞いた。
「……蜂は」
「連れて参ります」
荷車の上では、藁の胴が十二、麻布をかけて静かにしていた。
ベルゼン男爵領は、トルネの果樹園から丘を二つ越えた先にある。石灰の多い痩せた土地で、麦は育たない。育つのは石南花だ。夏の終わりに丘が一面赤紫になって、そこから採れる黒い蜜が、うちの家の身代わりの畑だった。
父は私を叱らなかった。ただ、荷車の藁胴を数えて顔をしかめた。
「十二群か」
「はい」
「石南花は秋の三週だけだぞ」
それが問題だった。
蜂は蜜で冬を越す。冬を越した群れは春に子を増やし、増えた子を養うために春の花が必要になる。石南花は秋にしか咲かない。春の丘には、たんぽぽと野苺と、あとは石ばかりだ。
果樹園に置いていた五年、うちの蜂は春を林檎の花で越していた。返したのは巣箱だけではなかった。春の花も一緒に返したのだ。
「六群は潰すしかない」
父はそう言った。潰すというのは、蜜を全部搾って蜂を殺すことだ。昔の蜂番はそうしていた。
「潰しません」
私は地図を出した。ベルゼンの丘の西、川を挟んで隣がハルデン領だ。
「ハルデンに、休耕地が七十エーカーあります」
ハルデン領の領主代理エリク・ハルデンは、川べりの石垣の上で羊の足を洗っていた。領主の息子だが、父親が寝ついてから三年、自分で羊を洗っている。
「ベルゼンの蜂番か」
「アニカ・ベルゼンです。お願いに参りました」
「金は貸せんぞ。うちは君の家よりひどい」
「借りに来たのではありません。休耕地に白詰草を播いていただきたいのです」
エリクは羊の足から手を離した。
「雑草を植えろと」
「緑肥です。根に土を肥やす瘤がつきます。三年で麦の穫れる土になります。刈って干せば羊の冬の飼料になります」
「それで、君の得は」
「白詰草は五月から七月まで咲き続けます。うちの蜂の春の花にさせてください」
エリクは休耕地の方を見た。石ころだらけの、去年も何も播かなかった斜面だった。
「種代は」
「種はうちが出します。蜜の三割を、ハルデンにお納めします」
「蜜より、その羊の飼料の話の方が信じがたい」
「では、まず十エーカーで」
エリクは黙って考えた。そしてこう言った。
「二十でやる。十では、失敗したときに何が悪かったのかわからん」
二十エーカーは、ハルデンが冬に羊を食わせるために残していた草地だった。失敗すれば、この人は冬に羊を売ることになる。
「そちらの損が大きすぎます」
「君の損の方が大きいだろう。うちが断れば、君は六群潰すんだろう」
私は父にしか言っていないはずのことを、この人に言ってしまっていたらしい。
この人は帳簿を読める人だと、そのとき思った。
種を播いたのは霜が抜けた直後だった。
私は毎日川を渡った。播き方を教え、芽の出ない列を掘って理由を探した。石灰の強い土では白詰草の根に瘤がつきにくいと、祖母の手控えに書いてあった。だから焚いた後の炭と、羊小屋の敷き藁を鋤き込んだ。
五月の半ばに、二十エーカーの斜面が白くなった。
蜂の羽音が、川の音より大きくなった日を覚えている。巣門から出た働き蜂が、川の上をまっすぐ西へ渡っていく。蜂の道ができるのは、その花が当たりだという証拠だ。
六月に、十二群のうち八群が分蜂した。
分蜂は群れが二つに割れることだ。放っておけば半分が森へ逃げる。私は毎朝、巣箱の前で羽音を聞いた。分蜂前の群れは音が高くなる。高くなった群れの巣を開けて王台を探し、新しい女王の蛹を取り分けて、空の藁胴に子の板と一緒に入れた。
夏の終わりに、群れは二十一になった。
一群だけ、失敗した。新しい女王が交尾に出た日に雨が降り、戻ってこなかった。女王のいない群れは働かなくなり、巣板に雄の子ばかりを産みはじめる。
私はその群れを、隣の強い群れに合わせた。二つの巣の間に、匂いを混ぜるための薄紙を一枚挟んで重ねる。蜂は三日で紙を噛み破り、破ったときには互いを同じ群れの匂いだと思っている。
殺さずに済んだ。祖母の手控えの、いちばん端に書いてあった方法だった。
蜜は三度絞った。白詰草の蜜は水のように薄い色で、匂いが甘い。石南花の黒い蜜しか知らないベルゼンでは、誰も見たことのない蜜だった。
最初の一瓶を、私はハルデンの村の井戸端に置いた。誰でも指で舐めていいと言った。
三日後、村の女たちが空き瓶を持って丘に来た。石南花の黒い蜜は薬くさくて子どもが嫌がる、こちらの薄い方を売ってくれ、と言われた。値を聞かれて、私は石南花と同じ値を言った。女たちは高いと言い、それでも買っていった。
うちの蜜に値をつけたのは、そのときが初めてだった。それまでは、父が樽ごと商人に渡していた。
残った巣板の蝋を煮て、晒して、蜜蝋の塊にした。
蜜蝋は蝋燭になる。獣脂の蝋燭は煤が出るので、聖堂の内陣では使えない。ハルデン領の修道院は、毎年よその商人から蜜蝋を高く買っていた。
「今年からうちで買う」
修道院長はそう言って、私の蜜蝋の塊を指で押した。
「川向こうの丘のものを、川向こうから買うのは愚かだった。来年は倍にできるか」
「二十一群が二十五になれば、倍にできます」
「増やしなさい」
修道院長は帳面を開いて、去年よその商人に払った額を指で押さえた。私の付けた値は、その七割だった。それでも石南花の黒い蜜を樽で売るより、蜜蝋の方が利が大きい。
蝋は腐らない。蜜のように春を待たずに売り急ぐ必要がない。それが、蜂番が飢えないための唯一の仕組みだと祖母は書いていた。
秋に、ハルデンの休耕地に播く白詰草は、七十エーカーぶんに増えた。
トルネ伯爵領に花が咲いたのは、四月の第三週だった。
あとから聞いた話だが、その年の林檎の花は、トルネの古老が誰も見たことのないほど見事だったそうだ。剪定は例年より丁寧だった。ヴィクトルは婚約したイレーネに見せるため、園丁を増やして枝を整えさせていた。丘の上から見ると、果樹園が雪をかぶったようだったという。
花は二週間咲いて、散った。
五月の終わりに、小指の先ほどの実が、枝からほとんど落ちた。
六月、トルネは園丁を呼び集めて原因を探した。霜だと言う者がいた。土だと言う者がいた。井戸の水を調べさせ、隣領から肥料商を呼んだ。
果樹園の南斜面には、去年返した樅の巣箱が十二、蓋の刻印を上にして並んでいた。ヴィクトルはそれを果樹園に戻して、蓋を開けて待たせていた。
箱には何も入らなかった。
一年放っておいた樅の箱は、内側が乾いて匂いが抜ける。野の群れが宿を選ぶときに嗅ぐのは、木の匂いではなく、前に住んだ蜂が残した蝋と繭の匂いだ。蜜の板は、あの秋に置いていったまま黴びて、蟻に運ばれて、とうに空だった。
箱は返した。蜜も置いていった。蜂は、連れて出た。
六月の末に、ヴィクトルは近隣の養蜂家に人を回した。群れを買うつもりだったらしい。
この地方の蜂番は、もとを辿れば全員が祖母か父から群れを分けてもらった家だ。だが義理の話ではなかった。断った理由はもっと単純で、林檎が咲く二週間は、どの家の蜂も自分の畑か自分の客の畑に入っている。同じ時期に同じ花が咲くのだから、貸せる群れはどこにも余っていない。
蜂は、金を出した日に届くものではない。群れがひとつ増えるには、女王が育つ一季と、冬を越す一季が要る。
ヴィクトルが川を渡ってきたのは、七月だった。
私は白詰草の斜面で、二十五群目の藁胴に巣枠を入れているところだった。ヴィクトルは斜面の下で馬を止め、蜂を避けるように遠回りに歩いてきた。
「アニカ。話がある」
私は蓋を戻して、煙を止めた。
「どうぞ」
「うちの果樹園が、今年は実を結ばなかった」
「伺いました」
「原因がわかった」
ヴィクトルは、自分で言うのが不本意だという顔をしていた。
「蜂だ。君の蜂がいないと、花が実にならないらしい。園丁がそう言っている」
「はい」
「知っていたのか」
「五年、そのために巣箱を運んでいました」
ヴィクトルは口を閉じた。それから、私が予想していたことを言った。
「戻ってきてほしい」
謝罪ではなかった。
「イレーネとの婚約は続ける。あれはもう発表してしまった。だが君には、今までどおり果樹園の蜂を見てもらいたい。給金は出す。うちの領の蜂番として、正式に雇う。悪い話ではないだろう」
斜面の下で、羊が鳴いた。
「お貸しすることはできます」
私はそう答えた。ヴィクトルの顔が、ほっとして緩んだ。
「条件があります」
「言ってみろ」
「トルネの果樹園を、ベルゼンの蜂の放牧地として借り受けます。花の二週間だけ、私が巣箱を運びます。蜜はすべてこちらのものです。地代はお納めします。受粉は、そのついでに起こります」
ヴィクトルは、しばらく黙っていた。
「……逆ではないか」
「逆ではありません。五年前からずっとこの形でした。ただ、どちらが借りているのかを、書いていなかっただけです」
「うちが、君の家に園を貸す側になるということか」
「はい」
「トルネ伯爵家が、男爵家の蜂の下働きをすると」
「蜂の花を貸す、というだけです」
ヴィクトルは首を振った。強く、二度。
「できるわけがない。明日には領中が知る。イレーネの家にも知れる。伯爵家の体面というものがある」
のちに聞いた話では、トルネ伯爵はその条件を受けるつもりだったという。地代が入り、実がなり、蜜を手放すだけで済む。帳簿の上ではどう見ても得だった。
断ったのはヴィクトルだった。父を説き伏せてまで断ったそうだ。
「ではお貸しできません」
「君は、五年の情も」
「五年分の情で、去年の蜜を全部置いてきました」
ヴィクトルは何か言おうとして、やめた。彼が本当に惜しんでいるのは林檎ではなく、林檎を失ったと領中に知られることなのだと、私はそこで気づいた。それなら私が渡せるものは何もない。
彼は馬に戻り、川を渡って帰った。
トルネの果樹園は、その年一粒も売る実を持たなかった。貯蔵用の鉄硬種が穫れなければ、冬の間に売る林檎がない。伯爵家は春の小麦の取引を担保に金を借りたと聞いた。
秋に、イレーネの家がヴィクトルとの婚約を解消した。
理由は、実りのない伯爵家に娘を出せないというものだった。
私はその知らせを、蜜蝋を晒す釜のそばで聞いた。ヴィクトルが私を量ったのと同じ物差しで、イレーネは彼を量ったのだ。誰も間違ったことをしていない。ただ、その物差しで測ると、蜂番の手は最後まで価値のないものとして残る。
私は釜の火を落として、手を見た。爪の際に蜜蝋が入り込んで、洗っても落ちない筋になっている。
十月、修道院に蜜蝋を納めた帰りに、エリクが石垣の上で私を待っていた。
二十五群になった藁胴が、丘の斜面に段々に並んでいる。その下に、刈り取ったあとの白詰草の畑が、七十エーカー広がっていた。羊の冬の飼料は足りている。来年、この斜面には麦が播ける。
「聞いた。トルネの話」
「はい」
「うちにも、春になったら花を貸してくれと言ってくる領が出てくるだろうな」
「たぶん、三つか四つは」
「どう答える」
「花の二週間をお貸しいただく形でお願いします。蜜はこちらのものにします。地代はお納めします」
「トルネに出した条件と同じだな」
「同じです。トルネにだけ厳しくしたわけではありません」
エリクは笑った。この一年で、私はこの人が笑うところを二度しか見ていない。
「それは君が決めることだ」
エリクはそう言って、少し黙った。
「アニカ。ひとつ、わからないことがある」
「何でしょう」
「君は蜂を連れて歩ける。女王を籠に入れれば、群れはどこへでもついていく。そうだな」
「はい」
「だったら君は、いつでもここを出ていける」
私は答えなかった。たしかにそうだった。
「だから、来てくれとは言わない。言っても意味がない。君は連れて出られる人だ」
エリクは石垣を降りて、私の前に立った。羊の毛の匂いがした。
「そのかわり、ここを君の蜜源にしてほしい。七十エーカーは播いた。来年は百にする。石南花の丘から川までの道を、うちの負担で広げる。君の蜂が一年のどの月にも食う花を、この谷に揃える」
「それは、領の話ですか」
「半分は領の話だ」
エリクは、少し困った顔をした。
「もう半分は、僕が君に出ていってほしくないという話だ。うまく分けて話せない。すまない」
私は自分の手を見た。それから、その手を差し出した。
「分けなくて結構です。私も、蜂と自分を分けて話したことがありません」
エリクは私の手を取った。荒れた指の腹を、少し確かめるように押した。痛くはなかった。あの手はもう、何をされても痛まない。
「来年の春、この谷はどうなる」
「白詰草が咲きます。花だけではありません」
私は川の向こうの斜面を指した。去年播いた二十エーカーには、この春、麦が立った。石灰の痩せた土に、初めて穂が立ったのだ。
「実がなります」
トルネの果樹園には、今年も花が咲くだろう。
私はもう、蜂を連れて出ていかなくていい。




