大人の気持ち④
ヒーロー視点です。
これはどうしたものだろうか。
フレッドは妻から半歩下がって立ち、ぼんやりと妻の横顔に視線をやった。
「私を祝うために来てくださって嬉しいわ。どうかこの会の中で皆さんにも楽しい時間が、良き出会いが、待ち受けていますように」
誕生会の主役として堂々と挨拶を述べる彼女は、ピンと背筋を伸ばしていた。その拍子に深緑色のドレスの襟ぐりから覗くうなじは眩しいほど白い。
宴の前に広間へと続く控えの間で顔を合わせたクレアは、フレッドが買い与えた若草色のドレスを身につけていなかった。
若草色のドレスは、レースや輝石によって華やかに飾られてはいたが、露出は極限まで抑えられたものだった。
それが、鎖骨どころか胸や背中まで晒した深緑のドレスに変わるなんて、予想外もいいところだ。
(文句を、つけられればよかったんだけどな)
『肌を見せすぎて下品だから着るな』とか『君にはその服は似合わないよ』とか言えたらよかった。
だが、深緑色のドレスはクレアによく似合っていて、それを着た彼女は美しかったのだ。
濃い色の生地は彼女の白い肌を引き立て、襟ぐりと袖口に添えられた繊細なレースと真珠の首飾りが上品さを加えている。
これを見せられておいて『見苦しい』と明らかな嘘をつける気はしない。
「最後に、今日は私が夫と出会った日でもあります。あれから五年が経ちますが、互いの愛情は変わりません。この誕生会の場を設けてくれた夫に心から感謝するわ。ありがとう、フレッド」
「……ああ。愛しい君のためなら、このくらいなんてことないよ」
物思いに気を取られていたフレッドがかろうじて返すと、クレアは輝くような笑みを浮かべて『嬉しい』と頰を染めた。
その途端に鋭い視線が幾つも突き刺さるのを感じる。客の中にいるクレアの信奉者たちの嫉妬の視線だ。
これは『ハウトシュミット夫妻は仲睦まじく、バルトールとスヘンデルの関係は良好だ』と見せかける茶番にすぎない。
だが『茶番』だと知らない彼らにとって、彼らの『女神』が他の男に愛を捧げることは面白くないのだろう。
(ああ、そうか)
不意にすとんと腑に落ちた。
クレアはもうとっくに、男に愛を奪い合われるような、彼らに『女神』と讃えられるような――魅力的な『女』なのだ、と。
「フレッド? どうかした?」
「何でもないよ。僕が馬鹿だっただけ」
「え?」
「いいんだ。クレア、踊ろうか」
「ええ」
右手を差し出すと、クレアはそっと手を乗せてきた。
広間の中央に進み出て、互いの手を組んで身体を近づける。楽団の奏でる曲の調べに合わせて、脚は滑らかにステップを踏んだ。
スヘンデルに来たばかりのクレアは下を気にして俯いた挙句よく相手の足を踏んでいたのに、今の彼女は危うさの気配も無く笑顔を保ったまま軽やかに踊っている。
当然だ。五年もあれば人は変わる。少女が女になるには十分すぎる時間だ。
当然のことなのに、その間の彼女の努力を誰よりも近くで見てきたくせに、彼女の成長は見えていなかった。……きっと、見たくなかったから。
これが他の『子ども』であれば、心置きなく成長を尊ぶことができたのに。クレアも、フレッドが『守るべき子ども』の一人だったはずなのに。
「……十八歳おめでとう、クレア。大きくなったね」
万感の思いを込めて言葉を贈ると、彼女はぱっと顔を上げた。
「ありがとう。……ねえ、私、もう大人なのよ?」
彼女の口調は『誇らしげ』というには頼りなかった。
彼女の潤んだ瞳は広間の灯りを反射してきらきらと輝いている。星屑を集めたような目で、彼女はフレッドを一心に見つめて言い募った。
「全部じゃないけど、あなたの出した宿題はだいたいできるようになったの。お酒も飲めるしっ……好きな人と結ばれて、子どもを産むこともできるの」
「分かってる。さっきまで分かってなかったけど、分かった。君は大人だ」
「じゃあっ!」
「少し考える時間をくれ。悪いようにはしないから」
「……本当に? 信じていいの?」
「ああ。僕の名にかけて誓うよ」
君は幸せにならねばならない子だ。
そう言うと、クレアはほっとしたように肩の力を抜いて、身体をフレッドにすり寄せてきた。
それを見ると、やはり思う。――彼女はなんて可哀想な子なんだろう、と。
身勝手な男に見初められたせいで、故国から遠く引き離され、頼る者もないまま努力を強いられ、他人の都合で人生を浪費されるなんて。
(僕の勝手な都合のためだけに一生を縛られるなんて、あまりにも可哀想だ。クレアが年頃になるまでには解放しようと思ってた。それならまだ間に合う、まだ可哀想な人生に取り返しがつくって。……『年頃』になっちゃったなあ)
だから、彼女の成長には気づきたくなかったのだ。
フレッドは『大人になったクレア』を手放さねばならない。
ずっと前から決めていたことなのに、今のフレッドは彼女を離しがたいと思ってしまうから。
(大切に思うなら、クレアの幸せを願えるはずだ。それで彼女が幸せになるなら、喜んで彼女を解放するはずだ。それなのに……僕は、こんなにも身勝手で汚い。そんな人間は彼女の害にしかならないのに)
彼女のことを利用して搾取してきた男など、この世で最も彼女から遠ざけるべき人間なのに。
クレアの隣に並ぶべきは、もっと――美しく愛らしい彼女にふさわしい若く容姿の優れた男で。賢い彼女にふさわしく頭の回転の良い男がいい。
彼女を束縛して損なうことなく、ありのままの彼女の美点を受け入れて賛美する男。だからといって優れた妻を自身の『箔』としか思わない男は論外だ。
(色々あるけど、一番大事なのは、)
彼女のことを一途に愛し、彼女に愛されて、彼女とともに家族を築くような――フレッドとは正反対の、真っ当な男。
それさえ満たすなら他の条件は多少大目に見てもいい。そういう男に彼女を託せば、潔く諦められると思った。
ところが、護国卿の人脈をもってしても、適切な夫候補はなかなか見つからなかった。
どうにか数人候補を見繕ってそれとなくクレアと引き合わせても、フレッドが席を外した途端に彼女を口説き始める輩が多くてうんざりする。真剣に彼女を愛するなら、仮にも今は既婚者である立場や風聞も慮れるはずだろう。
それほど難しい条件ではないはずなのにと人材不足を憂いつつも、どこかで安心している自分がいた。
(僕はきちんとクレアを手放そうと動いている。相手が見つからないんだから仕方ない。仕方ないから、もう少しくらい傍にいてもいいだろう?)
あと少し、ほんの少しだけなら。
未練がましく言い訳しながら、フレッドは気の進まない『顔合わせ』を設定しつづけた。目当ての相手はそうそう見つからないだろうと高を括りつつ。
「申し訳ございません。私はレディ・クラウディアのことを愛してしまいました。だからもう、邸へは伺えません」
(……ああ、もう。『聡明で真面目で一途な好青年』なんて本当に現れなくていいのにさ)
だから、いざその青年を見つけた時、自分で探し当てたくせに理不尽な悪態を吐きたくなった。
スヘンデル王国南部の穀倉地帯を治めていた伯爵家は、時勢を読んだ当主がいち早く革命派に与したことで、没落を免れた。
最近代替わりした嫡男もまた優秀で、今は外務の事務官を務めている。周囲に愛されて真っ直ぐに育った上に、本人の将来性もある名家のお坊ちゃんだ。
婿がねとしておよそ非の打ち所のない青年は、緊張に青ざめながらも真っ直ぐにフレッドを見つめ返してきた。
――ああ、この目には敵わない。
「……欲しいなら、あげようか」
フレッドには、そんな熱のこもった目はできない。
クレアのことを彼ほどには愛せない。だから、譲らなくてはならない。
結論を悟って、フレッドは笑みを浮かべた。
「は……?」
「僕は幼い子どもが好きなんだ。育ちすぎた彼女は全然好みじゃないんだよ。だから手もつけてない」
意図的に明るい声を作りわざとらしく軽薄な口調で、最低なことを言った。
もしもクレアが人づてに聞いたら傷ついて泣くかもしれない。でも、きっとその時には彼が傍にいて彼女を慰めるだろう。
「下げ渡しに気を悪くして実家に告げ口されたら面倒だから、口説く努力はしてくれよ? 君が彼女を靡かせた暁には、喜んで譲ってあげる――痛っ!」
頬に衝撃を感じて、体を床に叩きつけられた。
殴られたのか、我ながら最低なことを言ったもんな、と他人事のように思う。
目の前の青年は肩を怒らせて、上気した顔で言い放った。
「彼女はあなたの持ち物じゃない!」
「……はは、」
「何がおかしい!」
(僕の物じゃないことくらい知ってるよ。だから手放すんじゃないか)
言い訳はしなかった。悪い魔法使いに囚われたお姫様を助け出す王子様に『悪役の可哀想な過去』や『悪役が守りたいもの』は関係無い。
そんなものを打ち明けられたところで、後味が悪くなるだけだろう。
「名目なんてどうでもよくない? ありがたくもらっておけば?」
「まだそんなことを……っ! その言葉、私にレディ・クラウディアを口説く許可をくださったと受け取ってよろしいですか」
「最初からそう言ってるけど? 夫公認の間男になれて良かったねえ」
「ええ、良かったです。想いを伝えることへの躊躇いは無くなりましたから」
睨み合いは、扉の開く音で中断された。
部屋に入ってきたヴィルベルトは、床にしゃがみ込んだフレッドと握った右手の甲を赤くした青年を見て、眉根を寄せた。
勘のいい男だから、大まかな顛末を見てとったのだろう。
気まずそうに拳を下ろした青年は、軽く頭を下げて足早に部屋を後にした。
「……何をしているんだ、お前は」
途端に問いかけてくるヴィルベルトに笑ってしまう。
心配よりも先に『フレッドが何かした』前提の尋問が先に来るとは、相変わらず信用が無いらしい。
「彼に『クレアをあげる』って言ったら殴られた。恋する青年を応援したつもりだったんだけど」
「は!?」
「だってさぁ、もう五年だよ? もういいや、そろそろ離婚しようかなって。政略結婚の旨みは十分味わった」
『以前君にも話しただろう』と言うと、絶句していたヴィルベルトは絞り出すような声で言った。
「……クレアの気持ちはどうなるんだ」
「もちろん彼女が嫌だと言えば、さっきの彼との話は破談にする」
「クレアが『いい』と言うわけないだろう。さっきの彼がどうだとかじゃない、彼女に好きな相手がいるからには――」
「どうかな。万人から好感を持たれる青年に一途な恋心を向けられてぐらつかない方がおかしい。彼、正義感が強そうだし、クレアを『不幸な結婚』から助け出そうと一生懸命になるんじゃないかな」
「人妻を寝取る間男が正義漢か?」
「それは言い方ひとつの問題だ。先に僕から婚姻無効を申し立てようか。『白い結婚』だから彼女の不名誉にもならないでしょ」
『白い結婚』――夫婦生活の実態を伴わない結婚、幼いクレアはスヘンデルに捧げられた『人質』にすぎなかったと証明すれば、両者の婚姻は無効になる。
そうすれば、クレアは晴れて『赤の他人』だ。
今後の手続きを淡々と説明すれば、ヴィルベルトは目を見開いた。
「お前……クレアの気持ちが本当に分からないのか!?」
「分からないな。僕は何も聞いてないし」
「本気でそれを言っているなら、心底軽蔑する。どうせお前が彼女に言わせなかっただけだろう」
「何のことだか。ひどいなあ、親友を何だと思ってるの」
「人間が好きで、頭でっかちで臆病で自分のことが嫌いな男」
「……っ、知ったような口をきくなよ」
うそぶいた軽口に容赦なく突きつけられた言葉は、真実から遠くない。
正体を看破されて怯んだ自分をごまかすように発した声は、思いのほか低かった。
「『親友』だからな。それなりには知っているつもりだが? ああ、『家族』であるクレアよりは詳しくないか」
「もういい、黙ってくれ! ヴィル!」
「そうやって感情的に声を荒らげる。いつもの余裕はどこにやった? そんなに耳に痛い話だったか?」
「無駄話に興じられるほど暇なのか? 仕事に戻れ、リーフェフット卿!」
「これは失礼した、護国卿」
怒鳴りつけられた親友は怒るそぶりもなく口を閉じた。
決意を固めたフレッドに言っても無駄だとようやく理解したのかと思って――すぐにそれが間違いだと気づいた。
「フレッド、きちんとクレアと話をした方がいい。手遅れになる前にな」
部屋を出る直前に、ヴィルベルトは気遣いを投げかけていった。フレッドに『考えろ』と促すように。
「……手遅れになる前に、か」
手遅れとは、いったいどの時点のことだろう。
素直に考えれば『フレッドとクレアが真っ当な夫婦になれるうちに』ということだろうが、聞いた話では『真っ当な夫婦』とは愛し愛される二人を言うらしい。
――じゃあ、最初から無理じゃないか。
フレッドが恋をしないと決めたのはクレアに出会うより遥か昔のことだし、真っ当な夫は自分の都合で幼い妻を買わない。
フレッドが『真っ当な男』ならそもそもクレアとは夫婦にならなかった。
この関係は最初から間違っていた。
「……馬鹿馬鹿しい。もうとっくに手遅れなのに」




