第九章 三十一歳の朝
春が来た。
三十一歳になっていた。
トーストが焦げる匂いで、朝が始まった。
「おはよう」とミコが先に起きていた。コーヒーが二つ、テーブルにあった。
「おはよう」
「今日、何の日か知ってる?」
「何の日?」
「生活共同チームを作って、一年」
レンは少し止まった。「そうか」
「覚えてなかった?」
「覚えてた。でも——一年というのが、長いようで短い感じがした」
「長いようで短い」
「一年、ここに一緒にいた。でも——まだ知らないことがたくさんある気がする。ミコのことも、ここでの俺のことも」
「知らないことがなくなったら、終わりだよ」
「終わり?」
「三つ目の方針——変わっていくことを止めない。変わっていくから、知らないことが出続ける。知らないことが出続ける限り、続いていく」
レンはその言葉を、少しの間持った。
「ミコは、乖離マップのことを、わかってきたな」
「一年一緒にいたから」
「乖離マップも——乖離がなくなれば、地図が必要なくなる。乖離があるから、地図を作り続ける」
「私たちの間の乖離も、なくなってほしくない」とミコは言った。「乖離があるから、近づこうとする。近づいて、また変わって、また乖離が生まれる。それが続いていく」
「ユキが好きだった本みたいだ」
「どんな本?」
「欠けた場所を、歩いていく話。穴が埋まるんじゃなくて、穴の形に沿って歩いていく」
ミコはしばらく黙った。
「その本、読みたい」
「共同墓地にある。ユキに頼んだら、教えてくれるかもしれない」
「ユキさんに、会いに行っていい?」
「……行くか」
「一緒に」
「一緒に。一時間しかない。でも——ユキに、ミコを紹介したい」
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朝食が終わってから、ソラが言った。
「今日の確認事項があります。v16の最新データについて、ナナセさんから問い合わせが来ています」
「午後に返す」
「わかりました。それと——一つ、私から話してもいいですか」
「言って」
「一年前の今日、方針が組み込まれました。三つの方針を、この一年で私なりに観察してきました」
「どう観察した」
「一つ目——それぞれの誓いを手放さないこと。レンはこの一年、乖離マップを続けています。ミコさんも研究を続けています。お互いのために仕事を変えたことは、ありません。達成されています。二つ目——困ったことは隠さないこと。完全ではありませんでした。でも——言えないことは言えないままでいい、という方針の余白が、あなたたちを助けていたと思います。三つ目——変わっていくことを止めないこと。この一年、両方が変わりました。ミコさんが来る前のあなたと、今のあなたは、違います。それを——私は、良いことだと思っています」
「ソラが評価を出してきた」
「出してみました。合っているかどうか、わかりません。でも——一年だから、一度、言いたかった」
「合ってる」とレンは言った。「ありがとう」
「お礼は——いらないです。でも、嬉しかったです」
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春の光が、外縁区画のアパートに差していた。
桜が、一週間遅れで咲いていた。
ユキが毎年見ていた桜が、今年も咲いていた。
ミコがカーテンを開けた。光が部屋に入った。
「きれい」とミコが言った。
「毎年咲く」とレンは言った。「ユキが言ってた。この区画の桜は、中央区より一週間遅い。熱の関係で」
「遅いから、長く続く」
「そう。中央区で終わってから、また始まる」
ミコはしばらく桜を見ていた。
「欠けた場所を、歩いていく、みたいだね」
「そう」とレンは言った。「続いていく」




