いただきます
陽光を跳ね返すほど磨き上げられた白石の床。天井は高く、壁一面には銅鍋が整然と吊るされ、長い石の作業台が幾列にも並んでいた。
西園寺瑠璃は、箱の中に石灰石のような物体を見つめた。長方形の型にぴったり納まるそれは、この豪奢な厨房には、あまりにも似つかわしくない色合いをしていた。
「……失敗しましたわね」
瑠璃の周りには、白い服に白い帽子を被った、どこからどう見ても「シェフ」と呼ばれる格好の人々が数人集まっていた。彼らの胸元には、王家直属の紋章が金の糸で刺繍されている。その全員が瑠璃を囲むように立ち、大変居心地が悪い。
その一言に反応して、彼らは一斉に箱の中を覗き込み、興奮の声を上げる。
「なんという馥郁たる香り! まるで深淵の薔薇が咲き誇るような……!」
「ああ、ドラグミアの香りがこんなにも引き立つなんて……」
「こ、これが……サイオン=ジ・ルゥーリの編み出す最高のレシピ……!!」
一人が感動のあまり膝から崩れ落ち、一人は恍惚の表情でそれに顔を近づこうとして焦って転んだ。
勝手に盛り上がっている彼らの様子を、瑠璃は虚無の目で見つめながら小さく呟いた。
「――どうしてこうなってしまいましたの……?」
*****
「あら、ここはどこかしら……?」
瑠璃は川にいた。
おかしい。今日の講義が終わり、休憩スペースで迎えの車を待っていたはず。
決して屋外には出てないはず。ましてや無意識に川辺に移動する癖もない。
「え、ゆ、誘拐かしら? とにかく連絡を――」
送り迎えを務める運転手に知らせなければ。
「……わたくしの鞄はどこへ行きましたの?」
両手は、驚くほど空虚だった。
スマートフォン、エチケット用品、メイク直し用のポーチ、全てを失ってしまった。
「身代金だけでは飽き足らず、わたくしの日用品まで奪うなんて……」
瑠璃は川面を睨みつける。
「なんて卑しい誘拐犯なのかしら! しかも、わたくしを放置して逃げるなんて……。誘拐のいろはもご存知ないのかしら! せめて目隠しくらいなさいませんの?」
川は何も答えなかった。
しかし不思議なことに、誘拐犯どころか川という非常に開放的な場所にいる。本当に誘拐されたのか――などの細かいことは一切考えない瑠璃は、人を探すために川沿いを歩き出した。
「いいえ、こんなところでくよくよしていられませんわ。まずは人を探して、警察に事情を説明しなければ」
***
道なき道を進むうちに、瑠璃はようやく人を見つけた。
川に糸を垂らしている男女だ。がっしりとした体躯の中年男性となかなか恰幅のいい女性。
男性は竿を持ったまま動かず、女性は壺の前にしゃがみこんで、釣果を確認しているようだ。
「大変ですわ、誘拐ですのよ!」
瑠璃の意味の分からない声に、2人は一斉に瑠璃に視線を向ける。
「なんだこの娘は……服が妙に上等だな。どこの貴族の落とし子か?」
「おやまあ、可愛いお嬢ちゃん……って服がびしょ濡れじゃないの! 迷子かい?」
そういえば川の中が光ったので、スマホかと思って探しに入ったんだった。ちなみに光ったのは水面だった。そしてその事実に気づいたのは、全身がずぶ濡れになった後だった。
「わ、わたくしは西園寺瑠璃と申します! 今誘拐をされてまして――救出してくださいます? 報酬は後ほど父が――」
あまりに自由に動き回る瑠璃。
「あはは、冗談上手ねぇ。家族とはぐれたのかい? ほら、まずはうちの店で温まりなさいな」
「店……?」
瑠璃はきょろきょろと辺りを見回した。
川。
草。
木。
建物らしきものは見当たらない。
「ほら、あっちだよ」
女性が顎で示した先には、木立の向こうに煙が立ち上っているのが見えた。
「……あれが、誘拐組織のアジトですのね」
「違うよ」
即答だった。
「うちは酒場だよ。川魚が名物でね」
「酒場……?」
居酒屋のことだろうか? 馴染みのない言い方に、違和感を覚える。
首を傾げる瑠璃に、がっしりとした男性が口を開いた。
「親御さんは近くにいねぇのか?」
「父は財閥を率いておりますわ」
「ざい……?」
「とにかく今は誘拐されましたの。あなた方は通報を――」
「何をだ」
「……ええと」
瑠璃は、ようやく重大なことに気づいた。
通報先がわからない。そもそも今はスマホがない。
そしてなにより。
「ここ、どこですの?」
女性はきょとんとし、それからふっと笑った。
「川沿いの町だよ。グラナ川の下流さ」
聞いたことがない、人生で一度も。
瑠璃は、そこでようやくほんの少しだけ考えた。
……わたくし、本当に誘拐ではないのでは?
だが次の瞬間。
――ぐぅううううう。
非常に凛々しい音が、瑠璃の腹部から鳴り響いた。
「……」
「……」
「……」
男性が言う。
「まずは飯だな」
女性が言う。
「冷えた体にあったかいスープでも出してあげるよ」
瑠璃は凛と顔を上げた。
「お世話になりますわ」
木立の間を抜けると、確かにそこには小さな建物が並んでいる。その中にある大きな看板の建てられた家へと、瑠璃はついてきた。
煙突から立ち上る煙は、薪の香ばしい匂いを運んでくる。
看板には、魚の絵とジョッキのような絵が描かれ、中央には記号が書かれていた。
物語に出てくる居酒屋のようだと考えたところで、先ほど女性が「酒場」だと言っていたことを思い出す。
中に入ると、木の温もりが残る店内。
カウンターの向こうには大きな暖炉があり、数人の客が魚の干物をつまみに酒を飲んでいる。
冒険者風の革鎧の男、商人らしいフードを被った者、そして妙に耳の長いエルフっぽい女性まで。
女性はにこやかに言った。
「ほらほら、奥の部屋で着替えなさい。びしょ濡れのままだと風邪引くよ」
渡されたのは、麻のチュニックとスカート。
瑠璃にとっては部屋着にもしないレベルの粗末さだが、濡れた洋服よりはマシだった。
着替えて出てくると、女性に席まで案内され、温かいスープを差し出される。
「まずはこれ飲みな。川魚の出汁とハーブで煮込んだやつだよ」
瑠璃は、恐る恐るスープを口に運んだ。
「……!!」
一瞬、目を見開く。
おいしい……! 自宅の食事で出てくるスープと並べても引けを取らないおいしさだ。
顔には出さずに、ただ温かいスープを飲み続ける瑠璃に、女性は嬉しそうに笑った。
「ねえ、お嬢ちゃん。あんたきっと、何か訳ありなんだろう? それなら、うちでしばらく働いてみないかい?」
「働く……? わたくしが?」
「ねえあんた!」
いつの間にかいなくなっていた男性が、カウンターから顔を出す。
「…いいんじゃないか」
瑠璃はアルバイトをしたことがない。家のことなんて、専門家に任せっきりだ。
それなのに、働くなんてできるのだろうか。
一瞬だけ陰った瑠璃の表情を見た女性は、またしても朗らかに笑った。
「大丈夫! こういうのは慣れていくもんだよ」
「……わたくし、皿洗いなどという高度な専門技術は受けたことがございませんが」
「皿洗いは専門技術じゃないよ」
瑠璃は考えた。
スマホもないまま知らない場所に連れてこられ、親切であろう男女に保護された……んだと思うこの状況。
きっと、この優しさは受け取った方がいいものだ。
「ありがとうございます。では……改めて、お世話になりますわ」




