第9話 図書室の参考書
期末テストの一週間前になると、僕たちの通う碧海学園は、まるで魔法にでもかかったかのように、その様相を一変させる。
あれだけ賑やかだった休み時間の廊下は、単語帳を片手に歩く生徒たちの、静かな足音だけが響くようになる。昼休みのカフェテリアですら、いつもより会話の声量は抑えられ、テーブルのあちこちで小さな勉強会が開かれている。恋愛やゴシップといった、浮ついた話題は鳴りを潜め、誰もが試験範囲や苦手科目という、個人的で内向的な問題と向き合っている。
僕は、この時期の、少しだけ緊張感をはらんだ静寂が、実のところ嫌いではなかった。誰もが自分のことで手一杯で、他人の動向など気にしている余裕はない。この季節だけは、僕のような「背景」であることが、この学校における標準的な生き方になるのだ。
放課後を告げるチャイムが鳴ると、僕は逃げるようにして自分の聖域へと向かった。西棟の三階にある、図書室だ。
重い扉を開けると、ひんやりとした、埃と古い紙の匂いが混じった独特の空気が僕の体を包み込む。高い天井、床から天井まで続く巨大な本棚が作り出す静かな迷宮。窓から差し込む午後の光が、空気中を舞う無数の小さな塵を、キラキラと照らし出している。
僕は、この場所の、世界から切り離されたような絶対的な静けさを愛していた。ここは、教室で常に感じてしまう桐谷美咲との奇妙な緊張感からも、その他大勢の生徒たちが発する喧騒からも、僕を完璧に守ってくれる、難攻不落の要塞なのだ。
僕は、いつものお気に入りの席――窓から西日が見える、一番奥の隅の席――に鞄を置くと、深く息を吐きながら椅子に腰掛けた。そして、世界史の参考書を開き、インクの匂いがする活字の海へと意識を沈めていく。
どれくらいの時間が経っただろうか。集中力が途切れ、凝り固まった首を伸ばすために、僕はふと顔を上げた。そして、何気なく図書室全体を見渡した僕の視線は、ある一点で、まるで磁石に引き寄せられたみたいに、ぴたりと停止した。
本棚に半分隠れるようにした、対角線上の隅の席。
そこに、桐谷美咲がいた。
僕は、心臓が小さく跳ねるのを感じながら、息を潜めて彼女の様子を観察した。教室で見る、あの完璧な優等生の姿は、そこにはなかった。いつもは艶やかに下ろされている黒髪は、無造作に一本でまとめられ、数本の後れ毛がその白い首筋にかかっている。彼女の周りには、まるで城壁のように、数種類の参考書とノートが積み上げられていた。
彼女は、難しい数式とにらめっこしているのか、時折、眉間に小さなしわを寄せ、シャープペンシルの端を噛んでいる。そして、誰にも聞こえないような、本当に小さな溜め息を一つ、吐いた。
常に余裕綽綽で、どんな難問でも涼しい顔で解いてしまうように見える彼女が、僕たちの見えない場所で、こうして一人、必死に格闘している。その姿は、僕がこれまで抱いていた彼女のイメージを、少しだけ、しかし確実に、覆すものだった。
彼女も、僕と同じ、ただの高校生なのだ。その、当たり前すぎる事実に、僕は今更ながら気づかされていた。
僕は、彼女の邪魔をしないように、再び自分の勉強へと意識を戻した。しかし、一度認識してしまった彼女の存在は、図書室の静寂の中で、無視するにはあまりに大きすぎた。僕の意識の片隅で、彼女がページをめくる音や、椅子を軋ませる小さな音が、妙に大きく響いている。
再び、僕が顔を上げた時。窓の外は、すでに夕暮れのオレンジ色に染まり始めていた。そして、彼女の姿に、決定的な変化が起きていることに気づいた。
桐谷美咲は、開かれた数学の参考書の上に腕を枕にして、静かに、寝入ってしまっていたのだ。
すー、すー、という穏やかな寝息が聞こえてきそうだった。西日が、スポットライトみたいに彼女の席を照らし、その長い睫毛の影を、滑らかな頬の上に落としている。少しだけ開かれた唇は、いつも僕を翻弄する饒舌さを失い、ひどく無防備で、そして、僕が知らないくらい、幼く見えた。
いつも浮かべている、あの完璧な笑顔の仮面が、完全に外されている。
僕は、その姿から、目が離せなくなった。まるで、見てはいけない秘密を、一人で盗み見てしまっているような、罪悪感と、ほんの少しの優越感が、僕の心の中で混じり合う。
同時に、僕の頭の中では、緊急事態に対する、激しい葛藤が始まっていた。
どうする?
選択肢A:無視する。これが最も「黒木圭」らしい、正しい選択だ。僕は傍観者だ。他人の領域に、決して踏み込んではならない。
選択肢B:直接起こす。しかし、それはあまりに危険な賭けだ。どんな顔で? 何と言えばいい?『おい、桐谷、起きろ』? ありえない。『桐谷さん、もうすぐ閉館だよ』? まるで親しい友人みたいじゃないか。彼女はきっと、ひどく恥ずかしがるだろうし、僕に対して怒りを覚えるかもしれない。
選択肢C:何かをする。例えば、自分のブレザーを、そっと彼女の肩にかけてあげる?……馬鹿か、僕は。それは、僕のような「背景モブ」ではなく、物語の「主人公」がやるべき行動だ。僕がそんなことをすれば、それは親切ではなく、ただの気味の悪い行為として処理されるに違いない。
僕は、三つの選択肢の間で思考を巡らせながら、結局、何もできずに、ただ時間だけが過ぎていくのを、呆然と見つめていた。
壁掛け時計の長針が、閉館時刻の五分前を指した。もうすぐ、司書の先生が、見回りにやってくるだろう。ここで彼女が、こんな無防備な姿で寝ているのを見つかれば、完璧なヒロインである彼女のプライドは、きっと少し、傷ついてしまう。
そう、思った瞬間だった。僕の体は、僕の臆病な思考が結論を出すよりも先に、動いていた。
僕は、自分の荷物を音も立てずにまとめると、静かに席を立つ。そして、出口へ向かうふりをして、彼女の机のすぐそばを、ごく自然に、通り過ぎようとした。
彼女の真横を通過する、まさにその瞬間。僕は、持っていた中で一番分厚く、そして重い世界史の参考書を、わざとらしく、しかし、あくまで「うっかり手が滑った」という体で、床へと落とした。
ドンッ!!
静寂を支配していた図書室に、場違いなほど大きな打音が響き渡った。
その音に、美咲の肩が、ビクッと大きく跳ねる。彼女は、はっと弾かれたように顔を上げると、何が起きたのか分からない、という顔で、夢と現実の狭間を彷徨うように、きょろきょろと辺りを見回した。
やがて、彼女の眠たげな視線が、床に落ちた僕の参考書と、それを拾おうとしている僕の姿を、同時に捉えた。
僕たちの目が、合った。
僕は、何も言わなかった。ただ、「うるさくしてすみません」という最大限の謝罪の意を込めて、彼女に向かって、小さく、ほとんど分からないくらいに、会釈だけした。
そして、彼女が何かを言う前に、僕は踵を返し、足早に、しかしあくまで平静を装って、図書室を去った。
出口の扉を閉めた後、僕は自分の心臓が、まるで警鐘のように、とんでもなく速いリズムで鼓動していることに気づいた。
直接声をかけるわけでもなく、かといって、無視するわけでもない。実に僕らしい、姑息で、卑怯で、そして遠回しなやり方だ。
彼女が、僕のその不自然な行動の意図に、気づいたかどうかは分からない。
けれど、それでよかった。
ただ、彼女のあの無防備な姿を、ほんの少しだけ、守りたかった。
その、僕たちの間の奇妙な契約にも、僕に与えられた役割にも関係ない、純粋で、名前のつけようがない感情が、確かに自分の中に芽生え始めているという事実に、僕はもう、気づかないふりをすることは、できそうになかった。




