第6話 0と1の距離
月曜日に僕と彼女の間で繰り広げられた、あの奇妙なサイレントゲームは、まるで一夜限りの蜃気楼のように、翌朝には跡形もなく消え去っていた。
火曜日も、水曜日も、教室の空気はいつも通りだった。桐谷美咲は、再び完璧なヒロインという名の、分厚く透明な壁の向こう側へと戻ってしまった。彼女が僕を見ることもなければ、僕が彼女の視線を感じることもない。先週までの、あのどうしようもなく遠い、恒星と惑星の距離感へとすべてがリセットされていた。
僕は、そのことに心の底から安堵していた。月曜日のような、心臓に悪く、思考を麻痺させるような緊張感はもうない。休み時間に本を読めば、その物語にきちんと集中できる。そうだ、これが本来あるべき姿なのだ。僕の世界は、静かで、平穏で、誰からも干渉されない、安全な場所でなければならない。僕は、失いかけていた日常の感触を、確かめるように自分に言い聞かせた。
しかし、人間の心というものは、どうやら僕が思っているよりもずっと、素直じゃないらしい。
休み時間、意味もなくポケットのスマートフォンに手が伸びてしまう。もちろん、通知など来ていない。一体、自分は何を期待しているのだろう。僕は、そんな自分自身を、心の中で静かに嘲笑した。平穏を愛している、というのは、僕が自分自身についた、最も巧妙な嘘だったのかもしれない。
水曜日の夜、僕は自室の机で、読みかけの文庫本を開いていた。外は静かで、時折、遠くを走る車の音が聞こえてくるだけ。これこそが、僕が求めていた時間のはずだった。
僕は、自分たちのあの奇妙な「偽の恋人契約」は、事実上、休眠状態に入ったのだと結論づけていた。あるいは、自然消滅したのかもしれない。彼女が「彼氏役」を必要とする、その「有事」の時だけ発動する、極めて限定的な時限式の契約。そして、今はその時ではない。ただ、それだけのことだ。
土曜日の出来事が、日に日に現実感を失っていく。フードコートの喧騒も、書店で交わした短い会話も、すべては遠い夢の残骸みたいだった。それでいいのだ、と僕は思う。僕はあくまで「舞台袖」の存在なのだから、出番がない時に、主役の動向を気にするのはお門違いというものだ。
僕は、平穏な「背景」としての自分を、完全に取り戻した。そう、確信した。
まさに、その瞬間だった。
机の上に伏せて置かれていた僕のスマートフォンが、「ブブッ」と、短く、しかし部屋の静寂を切り裂くには十分すぎるほどの鋭さで震えた。
その無機質な電子音は、静かな水面に投じられた石みたいに、僕の思考に波紋を広げた。心臓が、警告音のようにドクンと大きく鳴る。予期せぬその通知に、僕は一瞬、息を止めた。この時間に、僕に連絡してくる相手など、いるはずがない。
まるで、未知の生物に触れるみたいに、僕はそろそろと手を伸ばし、スマートフォンの冷たい感触を指先で確かめる。そして、ゆっくりと、画面を表に返した。
暗い画面に、一筋の光が灯る。
そこに表示されていたのは、僕がこの数日間、意識の底で待ち続けていたのかもしれない、五つの文字だった。
――『桐谷美咲』。
メッセージは、僕の予想の範疇を、あらゆる意味で超えていた。
『この前の本、読み始めたよ』
それは、業務連絡ではなかった。命令でも、召集令状でもない。ただの、報告。ただの、会話のきっかけ。僕の思考は、完全にフリーズした。この、0と1の羅列でしかない文字列に、どう反応するのが正解なのだろう。
僕の脳内で、緊急対策会議が招集された。
議題は、『桐谷美咲への返信について』。
『そうか』――冷たすぎる。興味がないと思われるかもしれない。
『面白い?』――馴れ馴れしい。一歩踏み込みすぎている。
『気に入ってくれると嬉しい』――何様のつもりだ。傲慢に過ぎる。
スタンプで返す? いや、駄目だ。僕のスタンプリストには、気の抜けた猫のスタンプしかない。学園のヒロインに送るには、あまりに不適切だ。
僕は、部屋の中をうろうろと歩き回り、メッセージを打っては消し、打っては消しを繰り返した。たった一行の返信に、まるで国家の未来を左右するような重大な決断を下すみたいに、僕は悩み続けていた。
一時間近くが経過しただろうか。僕は、もはや思考が一周して、すべてのことがどうでもよくなっていた。そして、結局、最初に思いついた、最も無難で、最も僕らしい返信を送ることにした。
――『そうか』
送信ボタンを押した瞬間、僕は何かとてつもなく大きな失敗をしてしまったような気分になり、ベッドの上にごろりと倒れ込んだ。もう終わりだ。僕の短い非日常は、このそっけない返信によって、完全に幕を閉じたのだ。
しかし、その直後だった。
僕が後悔の海に沈むよりも早く、枕元のスマホが、再び短く震えた。
恐る恐る画面を覗き込む。そこに表示されていたのは、僕の絶望的な予想を、軽やかに裏切る一文だった。
――『返事、それだけ?笑』
文末についていた、『笑』という一文字。
そのたった一つの文字が、僕が自分自身で雁字搦めにしていた思考の鎖を、いとも簡単にかち割った。それは、ただの文字ではなかった。からかうような、楽しそうな、彼女の声が聞こえるような気がした。
僕の指は、ほとんど無意識に、動いていた。僕の頭が、あれこれと余計な計算をするよりも早く、素直な疑問を打ち返していた。
――『面白いのか?』
すぐに、返信が来る。
『まだ序盤だけど、結構好きかも。黒木くんの言ってたこと、なんとなく分かる』
僕は、その返信に、また何か気の利いたことを返そうとして、やめた。そして、ただ、思ったままの言葉を打ち込んだ。
『そうか。ならよかった』
『うん』
そこで、会話は途切れた。
僕は、その短いやり取りの履歴を、静かに眺めていた。
交わした言葉は、ほんの少しだけ。何一つ、特別なことは話していない。
けれど、物理的には教室にいる時よりもずっと遠い、この0と1だけで繋がったデジタルの距離が、なぜか、ひどく温かく、そしてすぐそばにあるように感じられた。
途切れたはずの非日常は、終わってなどいなかった。
世界で一番静かな通知音が、その再開を、僕に告げていた。




