第5話 サイレントゲーム
土曜日の、あの奇妙な罰ゲームが終わった後、僕の日常は奇妙な静寂に包まれた。日曜日は、まるで世界のすべてが眠ってしまったかのように、何事もなく過ぎていった。スマホが鳴ることもなければ、机の上に謎のメモが出現することもない。僕が過ごしたのは、かつて自分が心から愛していたはずの、完璧に退屈で、完璧に平穏な休日だった。
あまりに静かすぎて、僕はふと、土曜日の出来事すべてが、僕の脳が作り出した精巧な夢だったのではないかと疑い始めた。私服姿の桐谷美咲。書店のインクの匂い。フードコートで食べたラーメンの味。それらすべてが、現実感を失い、古い映画のワンシーンみたいに、記憶の中で少しずつ色褪せていくような気さえした。
そうであってほしい、と僕の理性の半分は願っていた。しかし、残りの半分は、どういうわけか、その記憶が色褪せてしまうことをひどく恐れていた。
そんな矛盾を抱えたまま、月曜日の朝はやってきた。
制服に着替え、鞄を持ち、玄関のドアを開ける。いつもと同じ、何の変哲もない朝のルーティン。けれど、学校へ向かう足取りは、先週とはまた違う種類の重さをまとっていた。以前のそれは、これから始まる面倒事への「憂鬱」だった。しかし、今のこれは、何が起こるか、あるいは何も起こらないのかが予測できないことへの「戸惑い」に近かった。
教室で、彼女とどう顔を合わせればいいのだろう。どんな顔をして、どんな言葉を交わせばいい? いや、そもそも会話など発生しないのかもしれない。土曜日の出来事は、二人だけの特別な例外で、学校という日常に戻れば、僕たちはまた「背景」と「ヒロイン」という、決して交わることのない元の関係に戻るのだろうか。
そうだとしたら、それはそれで、正しいことのように思えた。
教室のドアを開けると、そこにはいつも通りの、月曜日の朝の光景が広がっていた。週末の出来事を報告し合う声。眠そうに欠伸をする生徒。慌てて宿題の答えを写す集団。
そして、その中心には、やはり桐谷美咲がいた。
彼女は友人たちに囲まれ、週末に行ったらしいカフェの話をしていた。その笑顔は完璧で、声のトーンは明るく、僕が土曜日に見た、ラーメンを前にして子供のようにはしゃぐ姿や、少し照れたようにはにかむ横顔の面影は、どこにも見当たらなかった。彼女はまた、完璧な「主演女優」の仮面を身につけていた。
僕が教室に入ってきたことに、彼女は気づいたはずだ。しかし、彼女の視線は僕の上を滑り、まるで僕という人間が存在しないかのように、友人たちとの会話を続けている。
僕は、そのことに、ほんのわずかな胸の痛みと、それを上回る大きな安堵を感じながら、自分の席へと向かった。そうだ、これでいいのだ。あれは非日常の出来事。僕たちの日常は、この決して交わらない距離感こそが、正しいのだから。
しかし、その日の僕と彼女の間には、目には見えない、奇妙なゲームが始まっていた。最初の合図は、一限目の現代文の授業中だった。先生が黒板に文字を書く音だけが響く静かな教室で、僕はふと、視線を感じた。気のせいだと思おうとした。けれど、その視線はあまりに強く、僕は耐えきれずに、その発信源である教室の対角線上へと、顔を向けてしまった。
目が、合った。
ほんの一瞬。コンマ数秒にも満たない時間。彼女は、僕を見ていた。そして、僕が彼女を見た瞬間に、まるで何も見ていなかったかのように、すっと視線を黒板へと戻した。僕もまた、心臓が大きく跳ねるのを感じながら、慌てて手元の教科書へと目を落とす。
それは、ただの偶然だったのかもしれない。けれど、僕にはそうは思えなかった。
ゲームは、休み時間にも続いた。
僕は、自分の席で本を読んでいるふりをしながら、意識の大半を彼女の動向に割いていた。彼女は友人たちと楽しそうに話している。その輪に、僕は決して入ることはできない。けれど、彼女が不意に髪をかきあげた時、その指の隙間から、一瞬だけ、僕の方を見たような気がした。僕が顔を上げると、彼女はもう別の方向を向いて笑っている。
三限目の数学の時間。僕が、どうしても解けない問題に頭を悩ませ、窓の外を眺めていた時。ガラスに映る教室の風景の中で、彼女が、頬杖をつきながら、ぼんやりと僕のいる方角を眺めているのが見えた。僕が振り返る前に、彼女はまた、シャーペンを手に取って数式と向き合い始めていた。
それは、ひどく静かで、誰にも気づかれることのない、二人だけのサイレントゲームだった。視線が触れ合っては、火花が散るみたいに離れる。お互いが、お互いを意識の片隅に捉えながら、決して言葉を交わすことはない。その奇妙な緊張感は、僕の心を少しずつ、しかし確実に疲弊させていった。
同時に、僕は気づいていた。このゲームに、ほんの少しだけ、胸が高鳴っている自分自身にも。
結局、その日一日、僕と彼女が言葉を交わすことは一度もなかった。
放課後を告げるチャイムが鳴り、生徒たちがそれぞれの日常へと散っていく。美咲も、すぐに友人たちに囲まれて、賑やかに教室を出ていった。彼女は最後まで、一度も僕に話しかけることはなかった。
一人、自分の席に残された僕は、まるで長い映画を見終わった後のような、不思議な疲労感に包まれていた。
僕は、元の「背景」に戻ったのだ。誰にも話しかけられず、誰からも注目されない、快適で平穏な場所へ。
それなのに、どうしてだろう。胸の中にぽっかりと空いたような、この物足りなさは。
僕は、ほとんど無意識に、ポケットからスマートフォンを取り出した。そして、連絡先のリストを開く。そこには、『桐谷美咲』という、僕の日常にはあまりに不釣り合いな名前が、静かに存在している。
トーク画面は、真っ白なままだ。
僕は、その画面をしばらく見つめた後、何もせずにスマホをポケットに戻した。
今日のサイレントゲームの勝敗は、分からない。そもそも、これは僕だけが勝手にそう感じていただけの、滑稽な一人芝居だったのかもしれない。
ただ一つ確かなのは、僕が愛していたはずの、完璧に退屈で平穏な日常は、もう二度と、同じ味には感じられないだろうということだった。




