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第4話 罰ゲーム

 土曜日の昼下がり、駅前の時計台の下で、僕は人混みを眺めながら深く溜め息を吐いた。行き交う人々は誰もが楽しそうで、これから始まる休日のイベントに胸を躍らせているように見える。僕だけが、まるでこれから歯医者に行くみたいな、あるいは気の進まない親戚の集まりに顔を出すみたいな、そんな憂鬱な気分で空を見上げていた。


 デート、という言葉の響きは、チョコレートパフェみたいに甘ったるくて、僕の日常にはあまりに不釣り合いだ。ましてや、その実態が「罰ゲーム」であるのなら、なおさらのこと。これから始まるであろう数時間の面倒を思うと、今すぐに踵を返して、自室の静寂の中へ逃げ込みたかった。


「お待たせ」


 不意に、背後から声をかけられた。振り返った僕の目に飛び込んできた光景に、僕の脳は、思考を数秒間、完全に放棄した。

 そこに立っていたのは、桐谷美咲だった。もちろん、そうであるはずなのだが、僕の知っている桐谷美咲ではなかった。

 いつも見ている、かっちりとした碧海学園の制服ではない。ふわりとした白いブラウスに、風に揺れる淡いブルーのロングスカート。髪は緩くまとめられ、いくつかの後れ毛が彼女の首筋で柔らかく揺れている。まるで、ファッション雑誌から抜け出してきたみたいに、彼女は完璧に「休日仕様」だった。

 世界の解像度が、急に4Kになったみたいだった。これまで霞んで見えていた彼女の輪郭が、くっきりと、そして暴力的なまでのリアリティをもって僕の網膜に焼き付く。僕の心臓が、持ち主の許可も得ずに、不規則なビートを刻み始めたのが分かった。

「なによ、その顔」

 僕が硬直しているのに気づいた彼女は、面白そうに目を細めた。

「人がせっかくオシャレしてきたのに、失礼じゃない?」

「……いや、別に」

「ふーん」

 彼女は、僕の動揺を完全に見透かした上で、楽しんでいるようだった。僕は、これがやはり、過酷で理不尽な罰ゲームの始まりに過ぎないのだと、自分に無理やり言い聞かせた。


 僕たちが向かったのは、駅に直結している、巨大なショッピングモールだった。吹き抜けの天井から明るい光が差し込み、様々な店の音楽と人々の話し声が、巨大な生き物の呼吸のように響いている。

 美咲は、特に目的があるわけでもないようだった。ただ、僕の一歩先を歩きながら、きょろきょろとショーウィンドウを眺めている。

「で、どこ行く?」

 罰ゲームの主催者であるはずの彼女は、振り返って、なぜか僕にそう尋ねた。

「……僕に聞くのか」

「そうよ。だって私、こういう場所、誰かとただブラブラするなんて、あんまりしたことないから」

 そう言う彼女の横顔は、少しだけ、僕の知らない表情をしていた。僕はしばらくの間、言葉に詰まった。自分のテリトリーに、この学園のヒロインを招き入れることへの、漠然とした抵抗があったからだ。しかし、沈黙を続けるわけにもいかない。僕は、頭に浮かんだ、最も自分らしい場所を、おそるおそる口にした。

「……本屋、とか」

 もっと気の利いた答えがあったはずだ。カフェとか、映画とか。しかし、僕の口から出たのは、インクと紙の匂いがする、静かで、薄暗い場所の名前だった。彼女はきっと、呆れるに違いない。そう思った。

 けれど、彼女の返事は、僕の予想を軽々と裏切った。

「いいよ、行こう」

 彼女は、少しも馬鹿にするような素振りを見せず、あっさりとそう言った。


 モールの一番奥にある大型書店は、外の喧騒が嘘のような静けさに包まれていた。僕たちは、ぎこちない距離を保ちながら、高い本棚の間をゆっくりと歩く。

 僕は、自然と足が向いた文芸書のコーナーで、好きな作家の新刊を手に取った。それは、決してベストセラーになるようなタイプの作家ではない。けれど、その乾いた文体と、世界の真理を不意に抉り出すような鋭さが、僕は好きだった。

「それ、面白いの?」

 隣に、いつの間にか美咲が立っていた。僕は驚いて、少しだけ肩を揺らしてしまう。

「あ、ああ……。まあ、人を選ぶとは思うけど」

「どんな話?」

 僕は、しどろもどろになりながら、その小説の魅力を、自分の持てる限りの語彙を尽くして説明した。彼女は、退屈そうな顔一つせず、僕の言葉に真剣に耳を傾けていた。

「へえ……。今度、読んでみようかな」

 彼女はそう呟くと、今度はミステリーの棚へ向かった。そして、僕も名前を知っている、かなり骨太な海外ミステリーのシリーズを指差した。

「私、こういうのが好きなんだ。犯人が最後まで全然分からなくて、最後に全部ひっくり返されるやつ」

 それは、僕が彼女に対して抱いていたイメージとは、少しだけ違うジャンルだった。僕たちは、好きな作家や、最近読んで面白かった本について、途切れ途切れに、しかし確かに、言葉を交わした。それは、ただのクラスメイトとしてでもなく、「偽の恋人」としてでもない、初めての、ごく自然な会話だった。


 書店を出た後、僕たちの間の気まずい空気は、ほんの少しだけ和らいでいた。

 帰り道、ゲームセンターの前を通りかかった時、美咲の足がぴたりと止まった。

「ねえ、あれやりたい」

 彼女が、子供みたいに目を輝かせて指差したのは、大きな犬のぬいぐるみが景品として置かれている、クレーンゲームだった。

 完璧超人である彼女のことだ。きっと、こういうゲームも難なくこなしてしまうのだろう。そう思っていた僕の予想は、またしても裏切られた。彼女は、驚くほどクレーンゲームが下手だったのだ。アームはあらぬ方向へ動き、ぬいぐるみを掴むどころか、かすりもしない。

「あー! もう、なんでよ!」

 本気で悔しがる彼女の姿は、普段のクールな彼女からは想像もつかないほど無防備で、人間味にあふれていた。僕は、その姿がおかしくて、思わず声を出して笑ってしまった。

「なによ、笑うことないじゃない」

 唇を尖らせる彼女は、学園のヒロインではなく、ただの負けず嫌いな女の子だった。


 ひとしきり遊んで小腹が空いた僕たちは、フードコートへ向かった。様々な店が並ぶ中で、彼女がある店の前で足を止め、メニューを食い入るように見つめている。それは、第三話で彼女が「好きだ」と答えた、こってり系のラーメン屋だった。

 彼女は、本当に嬉しそうに、どれにしようかと悩んでいた。しかし、ふと顔を上げた彼女の視線が、近くのテーブルに座っていた、見覚えのある制服を着た集団――碧海学園の生徒たち――を捉えた。その瞬間、彼女の表情が、すっと曇った。

「……やっぱり、私、あっちのパスタにする」

 彼女は、少しだけ寂しそうな、諦めたような声でそう言った。その横顔は、まるで透明な壁の向こう側にあるみたいに、ひどく遠く見えた。

 それを見た瞬間、僕は、ほとんど無意識に、言葉を口にしていた。

「……別に、いいんじゃないか」

「え?」

「誰も、桐谷がラーメン食べたからって、どうこう言わないだろ。たぶん」

 僕の、ひどくぶっきらぼうで、何の慰めにもならないような言葉。けれど、それを聞いた彼女は、驚いたように大きく目を見開いた。そして、次の瞬間、まるで厚い雲の隙間から太陽が顔を出すみたいに、ぱあっと明るい笑顔を見せた。それは、僕がこれまで見た彼女のどの笑顔よりも、ずっと自然で、本当に嬉しそうに見えた。

「……うん、そうだよね」

 僕たちは、カウンターに並んで、豚骨ラーメンの食券を買った。


 夕日に染まる駅のホームで、僕たちは並んで電車を待っていた。ラーメンを食べた後、特に目的もなくモールを少しだけ歩いた。不思議と、沈黙はもう苦痛ではなかった。

 今日の出来事を思い返しながら、僕は、この「罰ゲーム」が、思ったよりもずっと、悪くない時間だったことに気づき、少しだけ戸惑っていた。

 電車がホームに滑り込んでくる直前、彼女がぽつりと呟いた。

「……今日、ありがとね」

 僕は、何も言えずに彼女の方を見る。

「罰ゲームのくせに、なんか、普通に楽しんじゃった」

 そう言って、彼女は少し照れくさそうにはにかんだ。その表情に、僕の心臓がまた、小さく跳ねる。

「……まあ、悪くはなかった」

 それが、僕が返せる、精一杯の素直な言葉だった。

「じゃあ、また月曜日にね」

 彼女は、僕が何かを言う前に、来た電車にひらりと乗り込んだ。ドアが閉まる。去り際に見た彼女の横顔は、学園のヒロインではなく、僕が今日初めて知った、ただの普通の女の子の顔をしていた。


 一人、ホームに残された僕は、遠ざかっていく電車のテールランプを、ぼんやりと見送っていた。

 罰ゲームは、今日で終わりなのだろうか。次の約束は、何もない。

 そのことに、ほんの少しだけ、寂しさを感じている自分自身に気づいて、僕は途方に暮れた。彼女と過ごす時間が、もはや苦痛ではなくなっているという事実を、夕焼け空を見上げながら、静かに受け入れるしかなかった。

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