第16話 知らない僕
夏休みが始まって、一週間が経過した。
僕の部屋のカレンダーには、来たるべき土曜日の日付に、赤いマジックで大きな、そして不吉なバツ印がつけられている。それは、僕の平穏な夏休みに終焉を告げる、処刑執行日までの、絶望的なカウントダウンだった。
桐谷美咲から突きつけられた、人生で最も難解な宿題――『浴衣を準備せよ』。
僕は、この一週間、そのあまりに高尚なミッションを前に、完全に手詰まり状態に陥っていた。まず、僕はインターネットという、広大な知識の海に救いを求めた。検索窓に、『浴衣 メンズ 初心者』と、か細い指で打ち込む。すると、画面には、僕のちっぽけな脳では処理しきれないほどの、膨大な情報が、洪水のように押し寄せてきた。
「粋な着こなしの三つのコツ」「初心者でも安心!帯の結び方講座(動画付き)」「浴衣に合わせたい小物セレクション」。
僕は、その一つ一つの記事を、まるで難解な学術論文でも読むかのように、眉間にしわを寄せながら読み進めた。しかし、「貝の口」だの、「神田結び」だの、僕の知らない日本語が、次から次へと出現するだけ。動画を見ても、そのあまりに複雑で、立体的な帯の動きは、僕の脳の理解の範疇を、軽々と超えていた。僕は、開始わずか三十分で、眩暈を起こして、そっとブラウザを閉じた。
次に、僕は、通販サイトという、現代の魔法に頼ることにした。
画面をスクロールすれば、様々な色や柄の浴衣が、次々と現れる。しかし、問題は、それを身にまとっている、モデルの男たちだった。彼らは皆、身長が高く、涼しげな顔立ちで、そして、無駄な肉が一切ついていない。彼らが着こなす浴衣の姿は、ひどく様になっていて、夏の風情というものを、完璧に体現していた。
僕は、机の横に置かれた、姿見に目をやる。そこに映っていたのは、少し猫背で、表情に覇気がなく、どこにでもいる、ごく平凡な、僕の姿だった。
僕は、画面の中の、あの完璧なモデルの姿と、鏡の中の、この冴えない自分の姿を、何度も、何度も、見比べた。そして、その間に横たわる、絶望的で、決して埋めることのできないギャップに、ただ打ちひしがれるだけだった。
部屋の窓からは、楽しそうな声が聞こえてくる。おそらく、部活帰りの友人たちが、コンビニかどこかで、アイスでも食べているのだろう。風鈴が、ちりん、と涼しげな音を立てる。
その、平和で、穏やかな夏の風景の全てが、この薄暗い部屋で、一人、パソコンの画面と睨めっこしている僕の惨めさを、より一層、際立たせているようだった。
僕にとって、夏休みは、もはや楽しい休暇ではなかった。それは、ただただ、プレッシャーだけが、雪だるま式に募っていく、苦行の期間へと、成り下がっていたのだ。
処刑執行日まで、あと三日。僕の精神は、もはや、限界に達していた。僕は、最終手段として、最も古典的で、そして、最も卑劣な作戦を実行に移すことを、決意した。
すなわち、『体調不良による、欠席』である。
そうだ、当日になって、急に、猛烈な腹痛に襲われた、ということにすればいい。いや、一週間前から、なんとなくお腹の調子が悪かった、という伏線を、今から張っておくべきか。僕は、どうすれば、最も自然に、そして、最も同情を引く形で、仮病を装うことができるか、その脚本作りに、没頭し始めていた。
我ながら、完璧な作戦だ。これならば、あの女王陛下の無理難題から、逃れることができるに違いない。僕が、その完璧な計画に、一人、悦に入っていた、まさにその時だった。
ピコン。
僕の机の上で、スマートフォンが、まるで僕の邪な心を見透かしたかのように、短い通知音を立てた。
送り主を見るまでもない。僕の心臓が、大きく、ドクンと跳ねる。僕は、冷や汗が、背中をツーっと伝うのを感じながら、恐る恐る、その画面を覗き込んだ。
表示されていたメッセージは、僕の、あの姑息な計画を、先回りして完全に叩き潰す、あまりに的確で、そして、無慈悲な一文だった。
『で、浴衣、どうなった?』
僕は、慌てた。狼狽した。必死で、言い訳の文章を、頭の中で組み立てる。嘘は、いけない。しかし、正直に、「何もしていません」と答えるわけには、いかない。
僕は、震える指で、なんとか、当たり障りのない、苦し紛れの返信を、打ち込んだ。
『今、色々調べてて。なかなか、良いのがなくて』
我ながら、ひどい返信だ。小学生の言い訳と、何も変わらない。そして、僕のその、歯切れの悪い、嘘と真実が混じり合った返信を見た、桐谷美咲からの返信は、もはや、質問ではなかった。
それは、有無を言わせぬ、女王陛下から、愚かな臣下へと下される、最後通牒だった。
『分かった。明日、午後一時。駅前のデパートの入り口。遅刻したら、殺す』
翌日、午後一時、駅前のデパートの入り口。僕は、まるで断頭台へと向かう罪人のような足取りで、指定された場所に立っていた。心なしか、道行く人々が皆、僕のこの場違いな存在を、指差して笑っているような気さえしてくる。
数分遅れて、桐谷美咲は現れた。彼女は、僕の存在を視界に捉えると、まるで道端の石ころでも見るかのような、何の感情も乗らない視線を一瞬だけ向け、「行くよ」と、それだけを告げた。僕に、反論や、挨拶をする時間すら与えられない。
僕が連れてこられたのは、デパートの七階、呉服売り場のレンタルコーナーだった。
その場所に足を踏み入れた瞬間、僕は、自分がこれまで生きてきた世界とは、全く違う生態系に迷い込んでしまったことを、悟った。
まず、視覚が、情報の洪水によって麻痺する。色とりどりの浴衣が、反物として巻かれた状態で、あるいは、優雅に広げられた状態で、所狭しと並べられている。それは、まるで、この世の全ての色彩を煮詰めてぶちまけたかのような、巨大で、圧倒的な花畑だった。その鮮やかすぎる光の奔流に、僕の目は、くらりと眩暈を起こしそうになる。
次に、聴覚が、僕の孤立感を際立たせる。
「いらっしゃいませぇ」という、店員たちの、どこか雅な響きを持つ声。他の客たちの、楽しそうで、弾むような会話。その全てが、この空間に調和している。僕だけが、この美しい生態系に紛れ込んでしまった、場違いな外来種のように感じられた。
そして、嗅覚が、この場所の非日常感を、決定的にする。
新しい布の、清潔な匂い。そして、どこからか漂ってくる、微かで、しかし、確かに存在する、お香のような、静かで、落ち着いた香り。その匂いは、僕が普段呼吸している、俗世の空気とは、全く違う成分で構成されているようだった。
僕が、その異世界のような雰囲気に、完全に気圧されているのを尻目に、桐谷美咲は、まるで自分の庭を散歩するかのように、堂々と、そして、迷いのない足取りで、その花畑の中を進んでいく。
「お客様、本日はどのようなものをお探しで?」
にこやかな店員の問いかけに、彼女は僕を顎でしゃくりながら、平然と言いのけた。
「この人に似合うやつを、いくつか。レンタルで」
僕は、もはや、自分で選ぶという、高等な行為を、完全に放棄した。僕は、意思を持たない、ただのマネキン人形だ。そう、思うことにした。
彼女は、僕という素材を、どう料理するか、数分間、腕を組んで考え込んだ後、やがて、一つの結論に達したようだった。
彼女が最終的に選んだのは、僕が最初に手に取った鼠色よりも、ずっと深く、そして、品の良い、濃紺の浴衣だった。柄らしい柄はなく、ただ、よく見ると、布地に、細かな凹凸のある織り模様が施されているだけ。それは、僕の個性のなさを殺すのではなく、むしろ、その背景のような存在感を、逆手にとって引き立てるような、計算され尽くした、選択だった。
僕は、ベテランの店員に言われるがままに、試着室へと連れていかれ、まるで人形のように、着付けを施された。
初めて肌に触れる、浴衣の、ぱりっとした、涼やかな感触。帯が、腹部をきゅっと締め付ける、心地よい圧迫感。僕は、その全てが、初めての体験だった。
そして、おそるおそる、試着室のカーテンを開ける。
腕を組んで、僕を待っていた桐谷美咲は、その姿を見ると、一瞬、ほんの一瞬だけ、いつも浮かべている、あの悪戯っぽい笑みを、すっと消した。そして、素直に感心したような、あるいは、少しだけ、見惚れたような、そんな、僕の知らない表情を、見せた。
「……へえ」
「……悪くないじゃん。っていうか、思ったより、ずっと似合う」
その、珍しく、何のひねりもない、ストレートな褒め言葉。
その言葉が、僕の鼓膜を震わせた瞬間、僕の心臓は、まるで、大きな和太鼓でも叩かれたかのように、ドンッ、と大きく、跳ねた。
僕は、恐る恐る、目の前に置かれた、巨大な姿見に、自分の姿を、映した。そこに立っていたのは、僕が、毎日、見慣れているはずの、あの地味で、冴えない「背景」の自分、ではなかった。
濃紺の生地が、僕の輪郭を、いつもより、少しだけ、はっきりとさせている。帯のせいか、猫背気味だった背筋が、しゃんと伸びているように見える。
そこにいたのは、少しだけ、ほんの少しだけ、物語の登場人物に、なれたような、僕の、知らない僕だった。
僕が、鏡の中の、その知らない自分に、見とれていると、彼女は、パン、と一つ、手を叩いた。その音で、僕の魔法は、解けた。
「はい、決定。これで予約お願い」
彼女は、もう、いつもの、絶対的な支配者の顔に戻っていた。店員にテキパキと指示を出すと、最後に、僕の方を振り返って、釘を刺すように言った。
「帯は自分で結ぶのが基本だから。祭り当日までに、その無様な手でちゃんと結べるようにしときなさいよ。当日、私が手伝うなんて甘えたこと、考えないでよね」
僕の手元に残されたのは、一枚のレンタル予約伝票。
そこには、僕の知らない僕の名前と、次なる、さらに厄介で、そして、途方もない宿題が、一緒に記されていた。




