第14話 答案用紙の向こうの、夏
教室には、奇妙な静寂が満ちていた。聞こえるのは、誰かが焦燥に駆られて走らせる、シャープペンシルの最後の抵抗を示す音と、壁掛け時計が、まるで拷問のように、一秒、また一秒と、時を刻む無機質な音だけ。窓の外では、もうすっかり真夏の様相を呈した太陽が、地面のアスファルトをじりじりと焼いている。
僕の答案用紙は、すでに全ての欄が埋まっていた。見直しも、もう三回はしただろうか。僕にできることは、もはや何もない。僕は、ペンを置くと、傍観者としてのいつもの役割に戻り、この静かな戦場の様子を、ただぼんやりと眺めていた。
僕は、ちらり、と教室の対角線上へと視線を送る。桐谷さんは、まだ、問題を解いていた。試験終了の数分前だというのに、その姿には一切の焦りが見えない。真剣な眼差しで答案用紙を見つめ、時折、その長い黒髪を、指で静かに耳にかける。その一連の動作は、まるで精密な機械のようで、僕のような凡人が、試験という名の巨大な怪物にただ翻弄されているのとは、根本的な次元が違うように見えた。
頼む、と僕は心の中で、誰に言うでもなく祈った。僕が教えた場所が、一つでも多く、出てくれ。彼女の努力が、報われてくれ。他人の成功を、これほどまでに強く願うのは、僕の人生で、おそらく初めてのことだった。
そして、その時は、訪れた。
キーンコーンカーンコーン。
全てを終わらせる、無慈悲で、そして、最高に慈悲深いチャイムの音が、教室に、そして僕たちの頭の中に、鳴り響いた。
「――はい、そこまで。ペンを置いてください」
監督の教師が、感情の乗らない声でそう告げる。一瞬の、本当に、ほんの一瞬だけの静寂。それは、まるで、巨大なダムが決壊する直前の、不気味な静けさだった。
次の瞬間、教室は、爆発した。
「うおおおお、終わったあああああ!」
誰かの、魂の叫びのような雄叫び。それを皮切りに、椅子が床を擦る激しい音、机の上に突っ伏して呻く声、解放感のあまり、奇声を発して立ち上がる者。これまで抑圧されてきた全てのエネルギーが、一斉に解放され、教室は、混沌とした熱狂の渦に飲み込まれた。長かった、本当に長かった僕たちの戦いは、今、確かに、終わりを告げたのだ。
あれだけ過酷だった期末テストも、終わってしまえば、遠い過去の出来事のようだった。
答案が返却されるまでの数日間、碧海学園は、夏休みを目前にした、どこか気の抜けた、穏やかな空気に包まれていた。授業は、ほとんど自習か、あるいは映画鑑賞。生徒たちの話題は、もはやテストの結果ではなく、夏休みの計画一色に染まっていた。
そして、僕と桐谷美咲の関係もまた、元の場所へと戻っていた。僕たちの、あの奇妙で、秘密めいた放課後の補習は、もうない。チャイムが鳴れば、彼女は友人たちの輪の中心へと吸い込まれていき、僕は僕で、一人、静かに席を立つ。僕たちは、また、決して交わることのない、遠いクラスメイトに戻ったのだ。
僕は、自分の聖域だったはずの図書室へ、再び足を運ぶようになった。しかし、その場所は、もう僕にとって、完全な安息の地ではなくなっていた。
僕がいつも座っていた、あの窓際の席。その対角線上にある、彼女がいつも座っていた席。今は、誰も座っていないその空席が、やけに、僕の意識を刺激する。僕は、そこで繰り広げられた、数々の出来事を思い出してしまう。彼女の、無防備な寝顔。僕が、わざとらしく落とした、あの分厚い参考書。
僕は、自分の平穏を取り戻したはずだった。誰にも邪魔されず、誰のことも気にしなくていい、快適な放課後。
それなのに、どうしてだろう。
図書室の、あの完璧な静寂が、今は、ただの「空虚」なものに感じられてしまうのは。まるで、物語の最も重要な登場人物が、一人、欠けているみたいに。僕は、自分が感じているこの感情が、「寂しさ」という、ひどくありふれた名前を持つものであることを、認めたくはなかった。
時は過ぎ、運命の答案返却日がやってきた。ホームルームの時間。担任の教師が、無表情で、答案用紙の束を、一人、また一人と配っていく。教室には、再び、テスト期間中とはまた違う種類の、湿った緊張感が満ちていた。あちこちで、「よっしゃあ!」という小さなガッツポーズや、「終わった……」という、この世の終わりのような呻き声が、交互に聞こえてくる。
僕の手元に返ってきた答案用紙は、いつも通りの、可もなく不可もない、平均点より少しだけ上を漂う、実に僕らしい点数が並んでいた。僕は、その数字に、何の感慨も抱くことなく、ただ、視線だけを、教室の対角線上へと送った。
桐谷さんは、すでに自分の答案を受け取っていた。しかし、彼女の席はあまりに遠く、その表情から、結果を窺い知ることは、到底、不可能だった。彼女は、ただ、静かに、手元の紙の束を、見つめている。
駄目だったのだろうか。それとも……。
僕が、最悪のシナリオを想像して、心臓をきりきりと締め付けられていた、まさにその時だった。
ポケットの中のスマートフォンが、マナーモードに設定していたはずなのに、僕の体全体を揺さぶるかのように、力強く、震えた。
僕は、教師に見つからないよう、机の下で、そっとスマホの画面を点灯させる。送り主は、やはり、桐谷さんだった。
メッセージは、二通、連続で届いていた。一通目は、写真だった。彼女の、古典の答案用紙を、真正面から撮影したものだ。そして、その右上には、担任の、特徴的な筆跡で書かれた、赤いインクの数字が、まるで王冠のように、誇らしげに輝いていた。
――『92』。
僕が、その見事な数字に、息をのんでいると、すぐに、二通目のメッセージが表示された。
『先生のおかげです。本当に、ありがとう』
その、あまりに素直な感謝の言葉。そして、そのメッセージには、あの、僕たちの秘密のきっかけになった、ノートの端に描かれていた、間の抜けたウサギのキャラクターが、深々と、何度も、お辞儀を繰り返している、手書き風のアニメーションスタンプが、添えられていた。
僕は、そのスマートフォンの画面を、しばらくの間、ただ、呆然と見つめていた。
胸の奥から、これまで感じたことのない、熱い何かが、こみ上げてくるのを感じた。それは、安堵であり、喜びであり、そして、自分のこと以上に誇らしいような、巨大な、巨大な達成感だった。
柄にもなく、僕の口元が、緩んでいく。やばい、このままでは、教室の中で、一人だけ、不気味にニヤついている、変なやつになってしまう。僕は、必死に表情筋を引き締めると、この込み上げてくる感情を、どうにかして彼女に伝えようと、メッセージアプリの返信欄に、指を置いた。
『おめでとう』。いや、違う。もっと、何か、気の利いた言葉を。『よく頑張ったな』。駄目だ、何様だ、僕は。
僕が、人生で最も難しい国語の問題に、頭を悩ませていた、その時だった。
ピコン、と軽い通知音と共に、彼女から、三通目のメッセージが、画面の上部に、ポップアップした。
それは、これまでの文脈とは、全く、何の関係もない、唐突で、そして、僕の思考を、再び、完全に停止させる一文だった。
『――で、先生。夏休み、暇してる?』




