第12話 ノートの切れ端
人間という生き物は、恐ろしいほど順応性が高いらしい。
あれだけ僕の平穏を脅かす、天変地異のような存在だったはずの、放課後の桐谷美咲との秘密の補習。それが始まってから数日が経過した今、その一連の動作は、僕の日常に、驚くほど自然に組み込まれてしまっていた。
最後のチャイムが鳴り、教室が少しずつ空っぽになっていく。その喧騒の終わりを見計らって、僕は静かに席を立ち、自分の机の脚を持ち上げる。そして、床を引きずる音を極力立てないように注意しながら、彼女の机の横へと運ぶ。その動作には、もう最初の頃のような、これから死地に赴く兵士みたいな、悲壮な覚悟は含まれていない。まるで、長年連れ添った老夫婦が、食卓の椅子を引くみたいに、それはごく自然で、当たり前の儀式になっていた。
僕はこの状況に、自分自身が一番驚いていた。そして、少しだけ呆れていた。僕が何よりも愛していたはずの、誰にも邪魔されない、完璧な静寂に満ちた放課後。それは、彼女という名の、美しくも厄介な侵略者によって、完全に占領されてしまったのだ。僕は、この状況を、心の底から憎むべきはずだった。
しかし、僕の心は、僕の理屈通りには、動いてくれなかった。
窓の外から聞こえてくる、野球部の金属バットの快音や、陸上部のホイッスルの甲高い響き。それらの音が、逆に、この夕暮れの教室の静けさを際立たせ、僕と彼女だけの特別な空間を、まるで防音壁のように守ってくれているような気さえした。面倒だ、と口では思いながらも、僕の体は、もうこの時間を拒絶してはいなかった。
その日の補習は、特に難解だとされる、敬語の単元に入っていた。
「尊敬、謙譲、丁寧……。もう、何が何だか」
彼女は、参考書を睨みつけながら、うんざりしたように溜め息を吐いた。その姿には、学園のヒロインの威厳など、どこにもない。ただの、苦手科目に苦しむ、一人の高校生がそこにいるだけだった。
「まあ、主語が誰で、動作が誰に向かっているかを整理すれば、そこまで複雑じゃない」
僕は、まるでベテランの家庭教師みたいな口調で、そう言った。自分でも、少しだけおかしい。
「ちょっとノート、見せてくれ。例文を使って説明する」
「ん、はい」
彼女は、ごく自然にそう言って、自分が使っているノートを、机の上で僕の方へと滑らせた。僕は、そのノートを覗き込んで、思わず息をのんだ。
それは、ノートというよりは、もはや一つの芸術作品だった。おそらく、寸分の狂いもなく定規で引かれたであろう罫線。重要度に応じて、三色のボールペンで完璧に色分けされた注釈。そして、まるで高級なパソコンフォントをそのまま印刷したかのような、美しく、整然と並んだ文字の羅列。それは、彼女のパブリックイメージそのものを、紙の上に再現したような、一点の曇りもない、「完璧なノート」だった。そのあまりの完璧さは、人を感心させるのを通り越して、少しだけ、威圧感さえ与えてくる。
僕は、その完璧な世界に敬意を払いながら、説明に必要な例文を探して、ページを指でなぞっていった。しかし、その時だった。
僕の鋭すぎる観察眼が、その完璧な世界に、ぽつんと混入していた、一つの「異物」を、見逃さなかった。
ページの右下。ほとんど余白として処理されるべき、その聖域に。彼女が、僕の説明を聞きながら、おそらくは、無意識のうちに、描いてしまったのであろう、小さな、小さな落書きがあったのだ。
それは、すべての文字が効率性と機能性を追求しているこのノートの中で、唯一、何の生産性も持たない、ぐにゃりとした、気の抜けた線で描かれていた。
ひどく間の抜けた顔をした、ウサギのキャラクターだった。僕の脳は、そのあまりにシュールな絵と、「桐谷美咲」という存在を、一本の線で結びつけるのに、約三秒間の時間を要した。
そして、理解が追いついた瞬間、僕の指は、僕の意思とは関係なく、ほとんど反射的に、そのウサギを、とん、と指し示していた。
「……これ、何?」
僕の、純粋な、そして、致命的に配慮のない一言。
その言葉を合図に、美咲は、自分のノートの、僕が指差す一点へと視線を落とした。そして、自分が、そこに何を描いてしまったのかを、正確に認識した。
次の瞬間、彼女の顔が、まるで沸騰したヤカンのように、耳まで、一気に真っ赤に染まった。
「わっ!」
という、素っ頓狂な声。彼女は、漫画みたいな、本当に、漫画みたいなスピードで、バッと両手を伸ばすと、ノートを勢いよく閉じた。その衝撃で、机の上の筆箱が、ガタン、と大きな音を立てて床に落ちた。
「見ないでよ、バカ!」
それは、僕がこれまで一度も聞いたことのない、完璧なヒロインである彼女が、誰にも見せたことのない、完全に素の状態の、子供っぽい、紛れもない絶叫だった。
僕は、そのあまりのギャップと、彼女の必死すぎる姿に、こらえきれなかった。
「くっ……」と、喉の奥で、何かが漏れる。そして、次の瞬間には、僕は、腹を抱えて、声を上げて、笑ってしまっていた。
「ふ、ははははっ!」
それは、おそらく彼女が、いや、このクラスの誰もが、初めて聞く、僕の、心からの笑い声だった。
「な、なによ! 人が真面目に聞いてるのに、笑うことないじゃない!」
唇を尖らせて、涙目で僕を睨みつけてくる彼女。しかし、その剣幕も、今の僕には、ひどく微笑ましいものにしか見えなかった。
やがて、彼女も、自分の置かれた状況が、なんだか馬鹿らしくなってきたのだろう。最初は僕を睨みつけていたその表情が、少しずつ、崩れていく。そして、最後には、恥ずかしそうに、そして、楽しそうに、僕につられて、くすくすと笑い出した。
その一件を境に、僕たちの秘密の補習の空気は、決定的に、変わった。これまで、どこか張り詰めていた緊張の糸が、完全に、ぷつりと切れてしまったのだ。
彼女は、僕のことを、時々、からかうような響きで、「先生」と呼ぶようになった。
そして、僕もまた、彼女の質問に答える時、心の中だけでなく、時々、本当に、ごく時々だが、「ちゃんと聞いてくださいよ、生徒さん」と、不器用な軽口で、返すようになった。
僕たちの間に、「からかう者」と、「からかわれる者」という、新しい、そして、ひどくコミカルな言語が、追加された瞬間だった。
彼女は、まだ少しだけ顔を赤らめたまま、僕をじろりと睨んだ。
「あのウサギのこと、誰かに言ったら、殺すから」
「言わないよ」
僕は、まだ込み上げてくる笑いを、必死にこらえながら、答えた。
「俺たちだけの秘密だろ」




