第1話 かくして僕は背景ではなくなった
最後の授業が終わるのを告げるチャイムは、いつだって解放というよりはむしろ、レースの開始を告げる号砲のように聞こえる。生徒たちはまるで檻の扉が開かれた動物みたいに、あるいは何か大きな力に突き動かされるみたいに一斉に立ち上がり、それぞれの放課後へと散っていく。部活へ向かうジャージ姿の集団。駅前のファストフード店での作戦会議に熱を上げるグループ。あるいは、恋人と連れ立って帰る、世界の主役みたいな顔をした二人組。そのどれにも、僕は属していない。
僕、黒木圭の日常は、誰かの記憶に留まることを目的としていない。それは僕が意識的に選んでいることであり、ある種の美学みたいなものだとさえ思っている。成績は常に平均点の少し上あたりを漂い、運動能力は体育の授業でチーム分けをする際に、最初でもなければ最後でもない、七番目か八番目あたりに名前を呼ばれる、という程度。クラスメイトとの会話は、天気の話か、次のテスト範囲の話でだいたい完結する。関係性のグラデーションで言えば、ごく薄いグレー。いるかいないか分からない、背景のような存在。それが僕の立ち位置だった。
僕たちの通う私立碧海学園高等学校は、多くの物事に対して奇妙なほど過剰だった。海を見下ろす高台というロマンティックな立地のせいなのか、あるいは創立以来の伝統なのか、この学校の生徒たちは青春を全力で謳歌すべきだと固く信じ込んでいるようだった。昨年の碧海祭では、三年生の先輩たちが教室を丸ごと一つ使って、信じられないくらい精巧なプラネタリウムを作り上げた。体育祭では、応援団がハリウッド映画さながらのマスゲームを披露する。まるで、誰もが物語の登場人物になりたがっているみたいに。
そんな校風だから、誰かが誰かに告白をするという、本来なら極めて個人的な行為でさえも、ここでは壮大なスペクタクルの一種として扱われる。僕はそういう熱量からは、できるだけ遠い場所にいたい。僕は観客席に座るのが好きなのだ。それも、一番後ろの、薄暗い席に。
ざわめきに導かれるように昇降口へ向かうと、案の定、そこは異様な熱気に包まれていた。下駄箱の前には、まるで有名な画家の展覧会初日みたいに、幾重もの人だかりができている。湿った空気が、ひそひそ話と好奇の視線で飽和している。九月の半ば、夏の残滓と秋の気配が混じり合うこの季節特有の、感傷的な光が西日の当たる窓から差し込んで、生徒たちの輪郭を曖昧に縁取っていた。
僕は人垣の一番外側から、そっと中を窺った。
人垣の中心にいるのは、やはり桐谷美咲だった。
そして、その彼女に向かい合って立っているのは、サッカー部のエースで、次のキャプテン候補だと噂されている高橋くんだった。彼の友人らしき数人が、少し離れた場所で固唾を飲んで成り行きを見守っている。典型的な、そして最も盛り上がる組み合わせだった。誰もが、この公開告白の結末を知りたがっていた。
桐谷美咲。
彼女について説明するのは、ひどく陳腐な作業のように思える。月が美しい理由を、わざわざ言葉で説明するみたいなものだ。艶のある長い黒髪は、照明監督が完璧な計算のもとに配置したライトを浴びているかのように、常に美しい光の輪を宿している。今日の彼女は、濃紺のブレザーを脱ぎ、青いチェックのスカートに白いブラウスという、涼しげな出で立ちだった。風が昇降口を吹き抜けるたび、彼女の髪とスカートが、まるでそれ自身の意思を持っているみたいに柔らかく揺れる。その光景はあまりに完璧で、僕はふと、彼女はこの世界の物理法則から、少しだけ自由なのではないかと考えてしまう。
成績は常にトップクラスで、運動神経も抜群。誰に対しても分け隔てなく、太陽みたいな笑顔を向ける。彼女は、この碧海学園という閉じた世界の絶対的な恒星だった。僕のような、名前もろくに覚えられていない惑星からすれば、その存在はあまりに遠い。光は届くけれど、その熱に触れることは決してない。僕はずっとそう信じていたし、その距離感にむしろ安堵していた。遠くで輝いているからこそ、美しいものもあるのだと。
高橋くんが、何かを言った。声までは聞こえない。けれど、その真剣な表情から、彼が自分の持てるすべての誠意を言葉に変換していることは分かった。周囲の野次馬たちは、まるでサイレント映画の観客みたいに、固唾を飲んでスクリーンを見つめている。
僕は、この結末を見届ける前にそっと立ち去るべきだと判断した。僕の役割は、こういうドラマの目撃者ではない。僕は、誰もいなくなった舞台の掃除をする係みたいなものだ。僕は小さく息を吐き、自分の下駄箱へ向かって、人垣を避けるように壁際を歩き始めた。僕のチャコールグレーのスラックスは、夕日の光の中ではほとんど黒に見えた。二年生を示す青いネクタイだけが、妙に色鮮やかに感じられた。
その瞬間、だった。
桐谷美咲の顔が、ほんのわずかにこちらへ傾いた。
目が合ったわけじゃない。群衆の中の誰かを見ているわけでもない。それはもっと、こう、レーダーが何かを捕捉するような、無機質で滑らかな動きだった。彼女の視線が、僕のいるあたりで一瞬だけ、ぴたりと停止した。ただ、それだけのことだったのに、僕の足は床に縫い付けられたみたいに動かなくなった。
「ごめんなさい」
彼女の声は、冬の朝に張った薄氷を指で弾いたみたいに、凛として明瞭だった。その一言が、昇降口のノイズを真空パックみたいに閉じ込めて、世界からあらゆる音を消し去った。
「私、付き合っている人がいるから」
時が止まった、と本気で思った。高橋くんも、彼の友人たちも、周りの野次馬たちも、全員が蝋人形みたいに動かなくなった。その静寂を切り裂いて、桐谷美咲が、まっすぐ僕の方へ歩いてきた。その足取りには、ためらいという名のブレーキが1グラムも含まれていなかった。まるで最初からそこがゴールだとプログラムされていた、精密な機械みたいに。群衆が、モーゼの前の紅海みたいに割れて、彼女のための道を作った。
そして、驚きで呼吸さえ忘れている僕の目の前で、彼女は立ち止まった。そして、ごく自然な動作で、僕のブレザーの袖を掴んだ。
華奢な指が、制服の生地越しに確かな体温を伝えてくる。ふわりと漂ってきたのは、外国のホテルのリネンみたいな、清潔で甘い香りだった。僕の心臓は、優秀なドラマーが突然即興のドラムソロを始めたみたいに、不規則でけたたましいビートを刻み始めた。脳が、この異常事態の理解を完全に放棄したのが分かった。
「ね? そうだよね?」
彼女は僕の顔を下から覗き込むようにして、そう言った。その声は、先ほどとは打って変わって、ひどく甘やかで親密な響きを持っていた。無数の視線という名の、鋭利な矢が僕の全身に突き刺さる。名前すらろくに呼ばれたことのない、風景の一部でしかなかった僕が、たった数秒でこの物語の渦中に引きずり込まれていた。頭の中は、電源を切ったブラウン管テレビの砂嵐みたいに、白と黒のノイズがざらついているだけだった。
「え……あ、うん……」
僕は、自分のものとは思えない、ひどくかすれた声で頷いていた。すると彼女は、心から安堵したように、花が咲くみたいに微笑んだ。その完璧な笑顔の片隅に、ほんの一瞬だけ、長い旅を終えた旅人のような、底知れない疲労の色が滲んだのを、たぶん、僕だけが見ていた。しかしそれもすぐに、悪戯っぽい光の粒に塗り替えられてしまったけれど。
高橋くんは、しばらくの間、信じられないものを見るような目で僕と彼女を交互に見ていた。やがて、彼はすべてを理解したようだった。彼はどこか自嘲するように苦笑いを浮かべ、
「そっか。……悪い」
とだけ言い残し、仲間たちに促されるまま去っていった。その背中は、僕が今まで見たどんな敗者よりも、潔く見えた。
主役が退場すると、観客たちも興味を失ったように、あるいはこれ以上関わるのは得策ではないと判断したように、波が引くみたいに散り始めた。あれほど充満していた熱気が嘘のように消え去り、昇降口には僕と彼女、そして床に長い影を落とす夕日の赤い光だけが残された。
僕は、彼女に袖を掴まれたまま、石みたいに硬直していた。ようやく周囲に誰もいなくなったことを確認すると、彼女は小さな、しかしひどく深い溜め息を吐いた。
「ごめんね、急に。でも、すごく助かった」
その声には、先ほどの甘さはもう含まれていなかった。舞台を降りた女優の、素の響きがあった。
「……助かったって、僕は一体、何を」ようやく、僕の喉からまともな言葉が絞り出された。
「彼氏の役、よ。最近ちょっと、断るのが大変で困ってたんだ。だから、つい」
『だから、つい』。まるで自販機でジュースを買うみたいに、彼女は言う。そのあまりの気軽さに、僕の脳の回路はようやく正常に繋がり始めた。
「待ってくれ。意味が、全然わからない。どうして僕なんだ? 周りを見れば、もっとそれらしい人間が、いくらでもいただろ。それこそ、君の隣に立つにふさわしいような連中が」
僕の言葉に、彼女の黒い瞳がほんの少しだけ揺れた。何かを値踏みするように、あるいは何かを確かめるように僕の顔をじっと見て、それから、まるで世界で一番簡単な質問に答えるみたいに、ふっと口元を緩めた。
「君が、一番『嘘』っぽくなかったから」
「……は?」
「他の誰かで同じことをしたら、きっと本当のことだと思われちゃう。面倒なことになるのは嫌なの。でも、君なら大丈夫」
「大丈夫って、どういう……」
「黒木くんが相手なら、誰も本気にするわけないじゃない? 君は、そういう場所にいる人でしょ」
彼女は、残酷なくらい正確に僕のことを見ていた。僕が築き上げてきた、誰にも干渉されないための壁を、彼女はいとも簡単に見抜き、そしてそれを自分の都合のために利用したのだ。
僕は返す言葉を完全に見失っていた。
「じゃあ、そういうことで。しばらくの間、よろしくね、『彼氏』さん」
彼女は悪戯っぽく片目をつむぐと、僕の袖から手を離し、ひらひらと手を振って自分の下駄箱へと向かっていった。ローファーに履き替えるその後ろ姿は、まるで何事もなかったみたいに、いつも通りの完璧な桐谷美咲だった。
一人残された昇降口で、僕はしばらく動けなかった。彼女が触れていた袖の部分が、まだ微かな熱を持っている。
ただ一つだけ確かなことがある。
この日、僕の世界と彼女の世界の間に、奇妙で、一方的で、そしてひどく不格好な橋が一本、架けられてしまった。僕にはその橋を渡る意思もなければ、渡り方さえ知らない。
けれど、地味で平凡だった僕の日常は、もう二度と、元の場所へは戻れないのだという予感だけが、やけに確かな手触りをもって、僕の胸に突き刺さっていた。




