第十話 火の精霊が語るもの
フェルの声は、湿り気を含んだ空気を裂くように、淡々と響き続けていた。
泥に沈んだ畑の匂いも、濡れた木材の腐臭も、彼の言葉を邪魔することはできなかった。
「山が崩れるのは、不思議でもなんでもない。雨が続けば、土は水を飲み過ぎる。根がそれを支えきれなくなれば、斜面は落ちる。お前たちが畑を耕した土地も、山の一部だったはずだ」
ナージャの胸が痛んだ。
あの畑は、彼女の家族が代々守り抜いてきたもの。
種を蒔き、草を抜き、土に触れて生きてきた。
だがその土が、牙を剥いて村を飲み込んだのだ。
フェルは、そんな彼女の沈黙を見透かすように言葉を継いだ。
「……人が自然と共に生きるってのは、そういうことだ。森に守られる代わりに、森に呑まれる。川に潤される代わりに、川に流される。火に暖められる代わりに、火に焼かれる」
その声音には、嘲りはなく、むしろ真実を告げる冷ややかな静けさがあった。
ナージャは唇を震わせた。
「……そんなの、あんまりだよ……。だって、私たちは……」
彼女の言葉を遮るように、フェルの炎がぱちりと弾けた。
「お前の母親も、よく言っていただろう? 人は自然とともにあるべきだ、って」
ナージャは息を呑んだ。
その言葉は、あまりにも馴染み深いものだった。
母が畑を耕すとき、川辺で洗濯をするとき、よく口にしていた言葉だ。
「人は、自然に借りて生きてる。だから、自然を恨んじゃいけない」――。
けれども、それをフェルの口から聞かされるとは思ってもみなかった。
「……どうして……お母さんのこと、知ってるの……?」
ナージャの瞳が大きく見開かれ、炎を抱く小鳥を凝視した。
フェルは一拍置いて、低く笑った。
「俺はお前が生まれるずっと前から存在してる。お前の母親が生まれる前よりも、もっと前からな」
ナージャは言葉を失った。
「……そんな……じゃあ……」
「そうだ。俺はこの谷を、いや、この大陸をずっと見てきた。人が畑を拓く前も、羊を放つ前も、森と星としか会話がなかった頃からな」
炎の揺らめきが壁を照らし、岩肌の影を踊らせる。
その影はまるで、過去の記憶が蘇っているかのように、ゆらゆらと形を変えた。
「お前の母親は、この谷の血筋の一人だ。炉を守る家系に生まれ、自然と精霊に祈りを捧げて生きてきた。だからこそ、俺の声をほんの少しだけ聞けた。もっとも、契約に至ることはなかったがな」
フェルの声音には、わずかに懐かしむ響きが混じっていた。
「彼女はよく、夜空を見上げながら独りごとを言っていた。『この星の光は、すべて誰かの命の名残なんだろうか』ってな」
ナージャは胸の奥が熱くなるのを感じた。
母が夜、火を囲みながら語ってくれた言葉と同じだったからだ。
「……ほんとに、お母さんを……知ってるんだね」
「知っているとも。あの女の笑い声も、怒鳴り声も、涙も。全部な」
フェルは淡々と言ったが、その響きにはどこか温もりがあった。
それは、ナージャの知らなかった母の面影を垣間見せるものでもあった。
「俺は長い間、ここで眠り続けてきた。人の営みを見下ろし、星の脈動を聞き続けてきた。お前の母も、その前の者も……みんな炉を守りながら生きて、そして死んでいった」
炎が小さく瞬き、フェルの声がさらに低く落ちた。
「だが、お前は違う。お前は炉と血と、死の間際の熱で俺と繋がった。お前の母ができなかったことを……お前は果たしたんだ」
ナージャは両手を握りしめた。
泥に汚れた掌の感触が、現実の痛みと重なる。
母が果たせなかった何かを、自分が継いでいる――その事実に、戸惑いと誇りが入り混じる。
「……ねぇ、フェル」
か細い声で、ナージャは問うた。
「お母さんは……幸せだったの?」
フェルはすぐには答えなかった。
炎が静かに揺れ、やがて淡い言葉を吐き出す。
「それを決めるのは本人だ。だが、あの女はいつも自然に笑っていた。生きていることを恨んではいなかった」
その答えに、ナージャの頬を新たな涙が伝った。
フェルの声は、炎の揺らぎとともに遠い記憶を紡ぐ。
それは古代セレスティアから続く、炉を守る血筋の物語。
ナージャはまだその全てを理解できない。
だが、母の言葉とフェルの語りが、一本の糸のように繋がっていくのを感じていた。
「……私も、自然とともに生きる……お母さんがそう言ってたみたいに」
震える声でそう呟くナージャに、フェルは小さく羽を震わせて応じた。
「いいだろう。だが覚えておけ、自然と共にあるということは……自然に呑まれることでもある。お前はもう、それを知ったはずだ」
ナージャは涙を拭き、深く息を吐いた。
心の奥で何かが、少しだけ強くなった気がした。