第九話 星と火の始まり
泥に沈んだ村のただ中で、ナージャはまだ探し続けていた。
折れた梁を引き起こし、濡れた瓦礫を退け、手の爪が割れても、泥が指先を黒く染めても止まることはなかった。
フェルメリアは羽毛のように見える紅の火を揺らしながら、首を傾げてナージャを見つめていた。
「……なあ、ナージャ」
澄んだ声が降りてきた。
これまで鳴き声でしかなかったフェルの声は、今は確かに人の言葉として響いていた。
「どうして泣いてるんだ?」
ナージャの背筋が震えた。
問いはあまりに無垢で、あまりに残酷だった。
答えられるはずもなく、彼女は泥を掻き分ける手を止めなかった。
泥は冷たく、ぬめり、爪の隙間に食い込んで痛んだ。
だが、その痛みすら現実を繋ぎ止める唯一の感覚のように思えた。
「……だって……」
かすれた声が漏れる。
しかし続く言葉は、泥と嗚咽に飲み込まれて消えていった。
精霊には理解できなかった。
人がなぜ涙を流すのか。
なぜ死を前にして絶望するのか。
彼らにとって死とは断絶ではない。
循環の一部であり、火が燃え尽きれば灰になり、灰が大地を肥やし、そこから新たな芽が芽吹く。
終わりは常に始まりと結びつき、消えることなどない。
だからこそフェルは、ナージャの姿を見ても、同じように胸を痛めることはなかった。
ただ、首を傾げ、彼女の感情を測りかねているだけだった。
「……ナージャ」
炎の声が再び降る。
「いくら探したって、無駄だぞ」
ナージャは動きを止めた。
その言葉は胸の奥に突き刺さり、心臓を握り潰されるような痛みに変わった。
「……なんで、そんなこと言うの……!」
怒りに燃える瞳でフェルを睨みつける。
涙で濡れた頬に泥が張りつき、声は震えていた。
「まだ……まだどこかにいるかもしれないじゃない! 助けられるかもしれないのに……!」
フェルは小さく羽を震わせた。
火の粉がぱらぱらと落ち、泥に触れては消える。
そして、どこか呆れたように、しかし揺るがぬ口調で告げた。
「人はいつか死ぬんだ」
その声音は冷たく、けれども炎のように真っ直ぐだった。
「それが遅いか早いかだけの話だ」
ナージャの心臓が強く打った。
その言葉は、あまりに残酷で、あまりに理不尽で、だからこそ覆しようもなかった。
泥に膝をついたまま、彼女は声を失った。
ただ胸の奥で燃える熱だけが、強く強く軋んでいた。
大地の匂いに満ちた沈黙の中で、フェルの炎は揺れていた。
その光は冷たく濁った泥を照らしながら、遥か昔の記憶を呼び覚ますようにきらめいた。
「……ずっと昔のことを、話してやろうか」
その声は、焔のはぜる音に似ていた。
ナージャは涙に濡れた顔を上げ、息を荒げながらも、耳を傾けてしまっていた。
かつて、精霊と人は違う道を歩んでいた。
精霊は大地の奥深く、海の底、風の高みに在り、星そのものを守護する柱であった。
人は未だ名も持たず、荒野にさまようただの生命にすぎなかった。
互いの道は交わることなく、寄り添うこともなく、ただ平行に存在していた。
しかし、ある時、人は気づいた。
闇の冷たさを前にして、凍える身体を抱きしめ合いながら、星の心臓から漏れる「炎」を見つけたのだ。
それは光であり、熱であり、命を繋ぐ希望であった。
人はその火を求めた。
ただ暖を取るためではなく、星を巡る自然の力を糧にして、新たな可能性を生み出す礎を築こうとしたのだ。
古代の詩はこう語る。
「人は火を手にした日より、夜を恐れず、
大地に種を蒔き、未来を描いた」
だが、その炎は精霊の領域に属するものだった。
火を、風を、水を、土を――自然を束ねるのは精霊の役割。
人がそれに触れることは、星の律動を乱す冒涜にもなり得た。
それでも、古代セレスティアの人々はその「火」を利用するのではなく、"火と共に歩むこと"を選んだ。
精霊を畏れ、崇め、そして問いかけた。
「共に在ってよいのか」と。
精霊は答えた。
声ではなく、揺らぎや流れとして。
大地の轟き、水の囁き、風の歌、炎の揺らめき――それらを聞き取ろうとした者たちこそ、最初のセレスティア人だった。
彼らは星に耳を澄ませることで、やがて精霊との「対話」を成し遂げた。
対話とは、力を奪うのではなく、寄り添うこと。
支配するのではなく、受け入れること。
そうして築かれたのが、精霊と人との「共治の時代」であった。
フェルの声が、炎とともに低く響いた。
「……人は欲深い。だがあの時代の者たちは、まだ自分の小ささを知っていた。
だからこそ、星と語り合うことを選んだ。
火を奪わず、火に問いかけ、火に導かれるようにして歩いたんだ」
ナージャは言葉もなく耳を傾けていた。
泥にまみれた両手を見下ろしながら、彼女は初めて、炎の精霊が語る星の記憶を聞いているのだと理解していた。
古代セレスティア人は、火に未来を見た。
精霊は、その問いに応えた。
だからこそ、彼らの文明は一度は「自然と調和する黄金期」に至ったのだ。
それは遠い昔の物語であり、同時にナージャの胸に宿る熱の起源でもあった。
「……人が対話を選んだから、俺たちは言葉を持った。
お前が今俺の声を聞いているのも……その延長にすぎない」
フェルの炎は小さくはぜた。
ナージャは涙を拭いきれないまま、しかしその言葉の重みを確かに受け止めていた。
それは絶望の只中にあってなお、星が人に与えたひとつの証――「寄り添うための声」だった。