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第八話 崩れ落ちた谷



湿った岩壁に指を這わせながら、ナージャは慎重に歩を進めていた。

洞窟の奥は幾筋にも分かれ、どこを選べば地上へ至るのかはわからない。

足元は水に削られた石が滑りやすく、ひとつ間違えば深淵に落ちてしまいそうだった。

彼女の肩の上で揺れるフェルメリアの羽は、小さな炎となって暗闇を照らし、道を探す灯火となっていた。


「……本当に、この先に出られるの?」

声はかすかに震えていた。


「大地は塞いでも、火と風は抜け道を作る。諦めんな」

気さくな口調で告げるフェルメリアの声は、不思議と胸の奥に届いた。



通路の先から風が流れ込んでくるのを感じた。

湿気を孕んだ冷たい空気の中に、土と草の匂いが混じっている。

ナージャは顔を上げ、その先に微かに滲む光を見つけた。


「……外だ……」


希望が滲むその瞬間、胸の奥の熱がまた疼いた。

岩壁の亀裂をくぐり、膝を擦りながら這い進む。

石の尖端に布が裂け、土にまみれた。

それでも前に進むほど、光は確かに強くなり、最後には眼を焼くほどの白さとなった。


体を押し出すようにして地表へ這い上がると、冷たい風が頬を打った。

濃密な土の匂いが押し寄せ、耳の奥に遠雷のような轟きが残響している。



見慣れた谷は、そこにはなかった。


目の前に広がっていたのは、荒れ果てた大地だった。

畑は泥流に呑まれ、土の波に押し潰された。

家々は形を失い、梁と柱が泥に突き刺さるようにして無残に転がっていた。

石造りの水路は引き裂かれ、村を貫いていた川は濁流となり、見境なく残骸を運び去っている。


煙がそこかしこから立ち上り、風に流されては空へ消えていく。

焦げた木の匂いと、濡れた土の冷たい臭気が鼻を刺した。


「……う、そ……」


ナージャの声は震え、膝が崩れた。

谷を包んでいたはずの山並みは崩れ落ち、鋭利な岩の牙がむき出しになっている。

その隙間からは土砂が絶え間なく流れ落ち、轟音を立てて谷底へ降り注いでいた。


村人たちの声は、どこにもなかった。

さっきまで耳に残っていたはずの笑い声も、牛の鳴き声も、子どもたちの呼び合う声も。

すべてが土に呑まれた。


ただ、流れに押し潰された柵の影で、羊の毛が泥に埋もれているのが見えた。

折れた車輪が、泥の中から覗いている。

そして、見覚えのある布切れが、木の枝に引っかかっていた。


「……お母さん……」


その布は、母がいつも腰に巻いていた前掛けだった。

風に煽られて翻るそれを見た瞬間、胸の奥で熱が爆ぜ、視界が霞んだ。

足が勝手に前へと踏み出し、泥に沈みかける。


フェルメリアが小さな体で彼女の頬に嘴を寄せた。

「行くな。今はまだ……呑まれる」


その声は、気さくさを隠して低く鋭かった。

ナージャは肩を震わせながら、その場に崩れ落ちた。


谷全体が、まるで世界から切り取られたように変わり果てていた。

崩壊の跡に立ち尽くす少女の心を、大地の沈黙が突き刺した。

叫びも涙も、轟きにかき消されて空へ溶ける。


それでも胸の奥の熱だけは消えなかった。

焼けるような痛みが、「まだ終わっていない」と訴えかけていた。


ナージャは土に手を突き、震える身体を必死に支えた。

泥にまみれた指先から、爪の間まで、冷たい土が入り込んでいく。


「……誰か……」


その声は、風に攫われ、空へ消えた。


しかし――その傍らで、紅蓮の小鳥の瞳が静かに燃えていた。



足を取られるほどの泥濘の中を、ナージャは必死に歩き続けていた。

水を吸った大地は重たく、足を一歩進めるたびに靴が吸い込まれるように沈んでいく。

それでも彼女は止まらなかった。

視界に入る瓦礫の影ごとに、そこに誰かが埋もれているのではないかと胸を締めつけられ、手で泥を掻き分けた。


「……お母さん……! みんな……どこにいるの……!」


声は掠れて雨上がりの空気に溶けていく。

答えは返ってこない。

泥を掻き分けた先に現れるのは、折れた梁、砕けた陶器、濁流に削られた農具ばかりだった。


谷を取り巻いていた山々は、いまや見る影もなかった。

斜面は削ぎ落とされたように滑らかで、剥き出しの土と岩が巨大な傷痕を残している。

崩れた土砂は濁流となり、村全体を呑み込み、あらゆるものを引き裂いた。


原因は、わかっていた。

ここ数日、雨が降り続いていたのだ。

畑の畝は崩れ、川は濁って水位を増し、地面はいつもよりも柔らかく沈んでいた。

谷を抱く山の土は水を吸いすぎ、限界を超えていたのだ。

その重みに耐えきれず、山は自らの体を崩し、谷を押し潰した。


自然が牙を剥いたのではない。

ただ、耐えきれなかったのだ。

長雨に溺れ、力を失った大地が、重みに潰れて倒れただけだった。


しかし、その「ただそれだけ」が、谷を、村を、すべてを変えてしまった。


「……嘘……こんなの、嘘だよ……」


ナージャは掠れ声で繰り返した。

目の前の光景を受け止めきれなかった。

つい昨日まで、そこには笑い声があった。

煙の匂いが漂い、畑を耕す人の歌があり、子どもたちのはしゃぐ声があった。


そのすべてが、泥と石と濁流に呑み込まれている。


彼女は土の中から何かを引き抜いた。

それは、濡れた木彫りの人形だった。

村の子どもが作って遊んでいた小さなもの。

泥に汚れた顔の木人形を胸に抱き、ナージャは震える声で笑おうとした。


「ほら……あるじゃない……大丈夫だよね……みんなも、どこかに……」


笑いはすぐに涙に変わった。

体の奥からこみ上げるものを抑えきれず、肩を震わせ、嗚咽が泥に落ちた。


雨雲はすでに去り、空には鈍い灰色の光が広がっていた。

しかし大地はまだ水を含み、あちこちで小さな崩落が続いている。

泥流は未だに音を立て、谷をゆっくりと削っていった。


ナージャは震える足で歩き続けた。

誰かの姿を見つけるために。

希望というよりは、恐怖に突き動かされていた。

「誰もいない」現実を、どうしても受け入れられなかった。


「お願い……誰か……」


声は泥の匂いにまみれた空気に吸い込まれた。

足を取られ、膝から泥に沈んでも、彼女は泥を掻き分け続けた。


その背後で、フェルメリアの小さな炎が揺れていた。

彼の瞳は、彼女がすがろうとする虚ろな希望と、否応なく迫りくる現実の狭間を映していた。

ナージャが「嘘だ」と言い聞かせるたびに、その炎は静かに軋むように明滅した。


ナージャの足跡は、泥の中に深く刻まれては、水に削られて消えていく。

まるで、彼女が探し求める声そのものが、大地に呑まれて消えていくようだった。


そして、沈黙だけが残った。

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