第80話 シャドーを倒せ!!
ジャンたちがギルドを出た頃・・・・・
(ソフィア サイド)
何とか拘束を解こうと、やってみたが、まるでダメ。
だけど、目隠しだけは少しずれて、見えるようになっていた。
魔法陣の光が強く脈打ち、私の身体から魔力が流れ出していく。
痛みはなく、ただ血よりも大切なものを剥ぎ取られていく感覚だけがあった。
息をするたび胸がひゅうひゅう鳴り、視界が暗く狭まっていく。
「ひ、ひぃ!」
扉を開けて入って来たのは、私を捕えてきた男。
ただのごろつきにすぎない男が、恐怖に引きつった顔で叫んだ。
「な、なんだよこれ! 魔力を抜くだけじゃねぇのか!? 完全に魔力が無くなったら、本当にこいつ、死ぬじゃねえか!」
その叫びに応えるように、魔法陣の中心から黒い影がもぞもぞと這い出した。
「おまえ・・・・・いい器だな」
声。
人のものではない。
影の塊が蠢き、人型を模した。
こいつが、ボス。
「お前! ふざけるな、近づくな!」
男は後ずさった。
だが黒い影は、ゆっくりと、必然のごとく彼へと伸びていく。
「人間の肉体・・・・・外へ出るには、それが必要だ。恐れるな・・・・・すぐに楽にしてやる」
「や、やめろ・・・・・! 助け・・・」
男の叫びは、次の瞬間かき消された。
黒い影が彼の口と目から流れ込み、骨の髄まで浸食していく。
しん、と静まり返った室内に、男の声が響く。
だがその声は、さっきまでの怯えた人間のものではなかった。
「ふふふ、やはり成功だ」
顔も姿も同じだ。
だが、目に宿る光が違う。黒い炎が揺らめき、口元には歪んだ笑み。
(シャドー)
私は心の中で呟いた。
全身から魔力を奪われ、息をするのも苦しい。
だが、この瞬間、すべてを悟った。
シャドーは、人間に取り憑くための実験をしていたのだ。
私の魔力を媒介にし、私を誘拐した男を「器」にした。
「これで・・・・・私は人の姿で地上に出られる。自由に歩き、笑い、殺すこともできる。だが、この男、魔力が少ないな。やはり冒険者の体が必要だ」
男。
いや、シャドーとなった存在が、愉快そうに笑った。
私の頬を涙が伝った。
(わたしのせいで・・・・・シャドーが!リディアは、あいつが体を乗っ取るため)
だが、次に聞こえた言葉は冷たく突き放すものだった。
「この小娘は・・・・・もう魔力は尽き、ただの抜け殻。放っておけば、いずれ死ぬだろう」
シャドーは、心底つまらなそうに吐き捨てた。
「せいぜい仲間が泣き叫ぶ姿を、冥府で想像していろ」
そして、足音が遠ざかっていく。
薄闇の中に取り残された私は、必死にまぶたを開いた。
もう視界はぼやけ、身体は冷え切っている。
(わたし・・・・・もう、だめ・・・・・なの・・・・・?)
絶望の中、それでも最後の力で信じようとした。
きっと、助けに来てくれる。必ず。
その想いだけを胸に、私は意識を保っていた。
ソフィアが何とか、意識を繋ぎとめていた頃・・・・・
ジャンたちは、結界のある山麓へ到着していた。
ジャンは収納魔導具から護符を取り出した。
その護符を結界にかざすと、半透明の膜が音もなく解けていく。
ジャンの合図で、3人は躊躇なく結界の中へ足を踏み入れた。
瞬間、肺を押し潰すような重苦しい空気が襲いかかる。
肌を刺す冷気と、心の奥底をかき乱すような不快な圧力。
ルナは顔をしかめ、思わず胸を押さえた。
「なに!?、この・・・・・気持ち悪さ」
すぐにフィリーネが片手を掲げ、落ち着いた声で詠唱を紡ぐ。
「ルーセントハート!」
柔らかな光が3人の身体を包み、圧迫感は霧散していった。
ルナは大きく息を吸い込み、震える胸を押さえながら安堵の声を漏らす。
「助かったぁ。フィリーネがいてくれて、ほんとによかったよぉ」
「気を抜かないで、ルナ。ここから先が本番なのだから」
フィリーネの声音は落ち着いていたが、その指先にはわずかな緊張の震えが走っていた。
異様な空気を振り払うように3人は走り出した。
ジャンは即座にサーチ魔法を展開し、視界に浮かぶ迷宮を見る。
複数の通路が網の目のように広がっている。
しかしその中で、ただ一筋だけ明瞭に光の道が伸びていた。
「こっちだ。ソフィアが囚われている」
さらに視線を凝らすと、光の奥に2つの人影が浮かぶ。
一人はソフィアのすぐそばに。
もう一人は離れた部屋に潜んでいた。
「リディアが言ってたな、犯人は2人組だって。間違いない」
そう言った瞬間、ソフィアのいる部屋から一人の男が姿を現し、通路を歩き始めるのが映し出された。
やがて足取りを速め、角を曲がったかと思うと、駆け出した。
「すぐに鉢合わせになる」
ジャンは手を上げ、ルナとフィリーネに静かに待機の合図を送った。
やがて現れた男は、血の気の引いた顔で駆け寄ってくると、息を切らせながら叫んだ。
「た、助けてくれ!」
突如放たれた懇願に、ルナが思わず声を荒げる。
「なに言ってるのよ!? あんたがソフィアを連れ去ったんでしょ!」
だがジャンは冷静に一歩前へ出て、低い声で問いかけた。
「ソフィアを誘拐したのは、お前だな?」
男は怯えた目でジャンを見返し、かすれた声を吐いた。
「そ、その女は・・・・・ソフィアっていうのか? オレは、ボスに言われてやっただけなんだ!」
フィリーネが問いかける。
「この中へは、どうやって来たの?」
「ボ、ボスが・・・・・転送したんだ」
ジャンの瞳が鋭さを増す。
「さっきソフィアの部屋を出た時・・・・・笑っていたな。あれはなぜだ?」
男の顔色が一瞬にして変わった。血の気が引き、言葉がつかえる。
「笑っていたかどうかは・・・・・自分でも、わからないんだ!」
その答えにジャンはわずかに頷き、静かに告げる。
「いいだろう。ソフィアのいる部屋まで案内しろ」
男は震える足取りで歩き出す。
背を向けたその口元に、一瞬だけ歪んだ笑みが浮かんだ。
(こいつらを騙すなんて、簡単だ)
彼の胸中に潜む卑劣な思惑は、ルナもフィリーネも分からなかった。
ただ、ルナの胸には不快なざわめきが広がり、フィリーネは冷ややかな視線で男の背中を観察していた。
「気をつけて」
フィリーネが小声でジャンに囁く。
「何か、隠しているわ」
ジャンは短く頷き、手に力を込めた。
3人と1人の男を乗せた運命の行進が、薄暗い通路をさらに奥へと進んでいく。
(ソフィア サイド)
4人の足音が、石造りの廊下に低く響き渡ってくる。
その音が近づくにつれ、胸の奥で鼓動が荒れ狂う。
私の体は、冷たく硬直したまま動かない。
やがて足音は扉の前で止まった。
沈黙の後、ジャンの声が響いた。
「ワナがあるかも知れない。扉を開けたら、お前がまず中へ入れ」
低く、鋭い声。
けれど、その指示を受けた男の顔を思い浮かべた瞬間、胸が締め付けられる。
(ダメ!その男は、シャドーに操られている!騙されないで!)
心の中で必死に叫んでも、声は届かない。
口を塞がれた私の喉からは、かすかなヒューヒューという息の音しか漏れなかった。
男は無感情な声で「わかった」と答え、ゆっくりと扉を開けた。
軋む蝶番の音とともに、冷たい空気が部屋へと流れ込む。
次の瞬間、視線が交わった。
男はまっすぐにこちらを見つめ、そして口角を吊り上げた。
ぞっとするほど不気味な笑み。背筋を氷で撫でられたように、体が震えた。
(やめて!!誰も、来ないで!これは罠だから!)
心の中の声は届かない。
必死に体を動かそうとしても、魔力を完全に失った体は、指先ひとつ動かせない。
その時、鋭くも懸命な声が響いた。
「ルナ!待ちなさい!」
フィリーネの必死の声。
彼女の警告に、走り寄る足音がひときわ速く響く。
(だめ!ルナ、来ないで!)
涙が滲む。
ルナは一直線に部屋へと飛び込んできた。
「ソフィア!」
その必死な響きに、心臓が張り裂けそうになる。
ルナは、全力で私に駆け寄ろうとする。
その瞬間、男の瞳が、まるで光を宿したようにギラリと輝いた。
私にははっきりと見えた。
(やめて!!!)
心の中で悲鳴を上げる。
だが動けない。
止められない。
男の手が素早く動き、袖口から冷たい光を放つ刃が現れた。
空気を切り裂く鋭い音。
ルナが男の横をすり抜けた、その瞬間、その刃が弧を描いた。
ルナは絶叫した。
「きゃぁぁぁあああ!」
悲鳴が、部屋の中に響き渡った。
ディフェンスアップもない上に、無防備な状態で背中にナイフの刃をまともに浴び、いとも簡単に切り裂かれた。
鮮烈な赤が宙を散り、ルナの背中に深い傷が走った。
白い肌が血に染まり、鮮血がほとばしる。
私の心を引き裂くような叫びだった。
ドサッ!
ルナの体が力なく崩れ、魔法陣の上。
私のすぐ目の前の床に倒れ込んだ。
血が石床を染め、赤い筋となって広がっていく。
「うううぅぅ!!」
血に咳き込みながらも、ルナはまだ苦しげに声を上げていた。
震える手が床を掻き、必死に耐えている。
目の前に広がる惨状が信じられなかった。
彼女の小さな体から流れる血の匂いが鼻を刺す。
頭が真っ白になり、ただ涙が溢れる。
(いやっ!そんな・・・・・どうしてっ!?)
大切な仲間を、こんな目に遭わせてしまった。
悔しさと恐怖、そして自身への憎しみが胸を締め上げる。
彼女の震える手に触れたいのに、体は動かない。
声をかけたいのに、口は塞がれたまま。
(お願い!誰か、ルナを助けて!)
心の中で必死に叫び続けるしかできなかった。
「ルナあああぁぁぁ!!」
フィリーネの叫びが響いた。
その声には震えと絶望が混じっていた。
彼女の普段の冷静さなど欠片もない。
悲痛な叫びだった。
「ルナーーっ!くそっ!」
ジャンの怒声が重なる。
ルナの悲鳴を聞きつけたフィリーネとジャンが、血相を変えて部屋へ飛び込んできた。
だが、その瞬間にはすでに男が動いていた。
私の体を乱暴に抱え込むと、鋭い刃を喉元に押し当て、怒鳴り声を響かせる。
「一歩でも近づいたら、この女の首を掻き切るぞ!」
冷たい鉄の感触が私の首に当たる。
ルナは床に倒れ、肩から腕にかけて広がる深い傷から血を流しながら、か細く うめいていた。
「ルナ!」
「ソフィア!」
フィリーネの悲鳴が、張り裂けそうな叫びとなって響く。
ジャンも目を見開き、奥歯を噛み締めて拳を震わせていた。
「動くなって言っただろうが!」
男はさらに刃を押し込み、血が滴り落ちる。
私は声を出せず、ただルナと2人の姿を必死に目で追った。
(私のせい・・・・・私が捕まったせいで・・・・・ルナが! みんなまでっ!)
喉奥が詰まり、声にならない嗚咽が込み上げる。
胸の奥が焼けるように痛く、ただ涙が止めどなく溢れた。
「ジャンっ、痛い・・・・・よっ」
ルナは震える声で、必死に叫んでいた。
その声に応えたいのに、ジャンは踏み出せない。
彼の瞳は、怒りと焦り、そして迷いに揺れていた。
「くそっ!」
低く唸ったその瞬間、男の身体から黒いモヤが噴き出した。
「お前ら、気に入らねえ!」
モヤは鋭い槍のように変化し、2人へと襲いかかる。
ジャンは咄嗟に身を翻したが、足を掠められ、焼けるような痛みに呻いた。
「ぐっ!」
フィリーネもまた回避しきれず、ふくらはぎを裂かれた。
「きゃあっ!」
その悲鳴に、私は息を呑んだ。
(やめて・・・・・もうやめてっ!)
必死に心の中で叫んでも、声は空気に変わることなく、ただ胸を締めつけるだけだった。
血に濡れた床に横たわるルナ。
必死に立ち上がろうとするも、震える手が床を掴むだけで力は入らない。
「ソフィア・・・・・・に、触るな!!」
それでもルナは、血に濡れた唇を噛み締めて、弱々しい声で私を守ろうと叫んでいた。
「ルナ!」
フィリーネは涙声で名を呼び、震える手で杖を構えようとする。
だが脚から血が流れ、思うように体が動かない。
ジャンは歯を食いしばり、刃を向けられた私から視線を逸らせない。
「卑怯な真似をっ!」
怒りに燃える声が響く。
だが、ほんの僅かな隙も見せられなかった。
男は勝ち誇ったように嗤った。
「いい顔だ。弱さを知りながら抗う目だな。だが、全て無駄だ」
(お願いっ!お願いだからっ!誰も、これ以上傷つけないでーっ!)
心の中で必死に願うのに、現実は容赦なく崩れていく。
私は、血を流す仲間たちの姿に、息が詰まった。
「いやっ!誰か!誰か、助けてっ!」
声にならない声が喉を震わせる。
視界が霞み、光が遠のいていく。
目を閉じる直前、目に映っていたのは
血に濡れた床に倒れるルナの姿
男は、低く呟いた。
「このルナとかいう女の魔力も、ありがたく使わせてもらおう」
冷たい響きが耳に届いた瞬間、私の意識はぷつりと途切れた。
・・・・・
・・・・
・・・
・・
・
ソフィアが意識を失い、男の手の中で力尽きた瞬間、ジャンとフィリーネの表情は凍り付いた。
ルナは2人の表情を見た事、そして後ろのソフィアの気配が明らかに変わったことを感じていた。
「ソ、ソフィアっ!」
ルナがかすれた声を上げた。
男は、腕の中の少女を軽蔑するように見下ろし、口の端を吊り上げた。
「人間は脆い・・・・・。恐怖に怯え、希望にすがり、簡単に壊れる。だからこそ、利用しがいがあるのだ」
乾いた大笑いが石壁に反響する。
「けけけけけけ。くくくくくくくくくっ!」
フィリーネは震えながらも視線を逸らさなかった。
その笑いの裏に、ただの狂気ではなく、計算された冷酷さがあることを見抜いていたからだ。
ジャンは、そんな彼女の横顔を一瞬だけ見ると、小さく囁いた。
「オレが、あいつを拘束する。その瞬間に《ディスペル・ヴェイル》を頼む」
声はほとんど息に溶けるほど小さかった。
それでもフィリーネは確かに聞き取り、すぐに小声で返した。
「まだ使えないわ。完成していないの」
彼女の返答に、ジャンはわずかに目を細め、口角を上げた。
「信じてる」
その一言が、フィリーネの胸を熱くした。
フィリーネは未熟さを痛感する一方で、託された重みが心を奮い立たせる。
男はジャンの僅かな動きを捉え、瞳をぎらつかせた。
「動くなと、言ったはずだ!」
低い怒声が響くと同時に、男はソフィアを投げ捨てるようにして、隣にいるルナの背中を見る。
そして、信じられないことに、彼女の負った傷口へ刃を滑らせる。
ルナの全身が弓のように反り返り、耐え難い悲鳴が響き渡った。
「あああああぁぁぁぁぁーーーー!!!」
その叫びは、聞く者の胸を裂く。
しかし・・・・・
「何と美味な響きなんだ。その叫び声は実に心地いい」
男はそう言うと、にやりと笑う。
「い、いたいよっ・・・・・ジャン痛いよ・・・・・助けてっ」
涙に濡れた瞳で彼女は必死に手を伸ばした。
しかし力は抜け落ち、その腕は無情にも床に落ちる。
意識が闇に引き込まれていくのを、ルナ自身が恐怖の中で感じていた。
「ルナっ!」
ジャンは思わず声を荒げる。
「泣け!喚け!さあ、次はどんな叫び声を聞かせてくれるかな?くくくっ!」
男は愉快そうに笑う。
それでもルナは、痛みに耐えながら背後にいる男へと手を伸ばし、指先に炎を灯す。
「ファイア・・・」
必死に紡いだ言葉は最後まで届かなかった。
シャドーは無言のまま、負傷したルナの背中を容赦なく蹴り上げる。
「あぁぁぁぁあああああっ!!!」
ルナの喉から出る絶叫は、切り裂かれるような痛みに満ち、耳をつんざくほどの悲鳴だった。
聞く者の胸を引き裂き、ジャンの心を無慈悲に締め上げる。
その声を浴びながら、シャドーは愉悦に浸ったように口角を歪める。
「抵抗するから痛い目を見る・・・・・だが、その悲鳴こそ最高だな。まるで私を褒めたたえる音楽のようだ。くっくっくっくっくっくっ」
そのとき、フィリーネの視界が眩い光に包まれた。
私の体に流れ込む温もり。
それは、何度も戦いの中で支えてくれた感覚。
ジャンの支援魔法だ。
「ジャン・・・・・あなた」
ジャンは《パワーアップ》《スピードアップ》《マジックアップ》、そして《マジックダウン》を、同時に重ねて行使したのだ。
次の瞬間、ジャン自身が白銀の閃光を纏い、ほんの一瞬、目を開けられないほど輝きを放った。
ジャンは、ライトの魔法を全身から放ったのだった。
(信じている)
さっきの言葉が、フィリーネの脳裏にこだまする。
(そう・・・・・聞いたじゃない。シオンちゃんに!教えてくれた4つの魔法も、どれかひとつの魔法を覚えれば、他の3つの魔法にも応用できるはずだって!)
震える拳を握りしめる。
(私は《ルーセントハート》を修得した。その後、《ホーリー》も自然に繋がった・・・・・!ならば、次も異なる旋律で!)
ルナの悲鳴がまだ耳に焼き付いている。
見殺しにはできない。
フィリーネは深く息を吸い込み、両の手を胸の前に突き出した。
「絶対に、止めてみせるわ!」
ジャンが一瞬だけ輝いた時、男は明らかに動揺した。
その刹那、男の肉体を操っていたシャドーが制御を失い、黒い靄のように暴れながら体内から飛び出そうとする。
シャドー自身は光に弱い。
ジャンがまぶしく光、輝いたことで、シャドーは反射的に光から逃げようとした。
だが、人間の体に憑依したシャドーは、光に強くなったことを思い出す。
直後に男の身体に戻ろうとしたが、焦りのあまりその動きは鈍かった。
「今だっ!」
ジャンは反射的に前へ踏み込み、足の痛みは無視し、全身の力を込めて男に体当たりをかました。
鈍い音を立てて、男の体は背後の石壁に叩きつけられる。
肺を押し潰されるような呻きが漏れた。
ひるんだ隙を逃さず、ジャンは両手を広げて詠唱を紡ぐ。
「ロックバインド!」
石壁が唸りをあげて隆起し、男の両腕と脚をがっちりと固定する。
動きを封じ込めると、ジャンはすぐさま後方を振り返った。
「ルナ!待たせたな。 ハイヒール!!」
彼の掌から溢れる光がルナを包み込む。
ハイヒールの癒やしは、背中から肩にかけて刻まれていた深い傷を穏やかに閉じていった。
血で濡れていた衣が乾き始め、裂けた皮膚がゆっくりと繋がる。
ルナの苦悶の表情が、少しずつ和らいでいった。
ジャンは大きく息を吐き、次にフィリーネへと視線を送る。
目と目が合った瞬間、彼女は静かに頷いた。
フィリーネは両手を胸の前に重ね、凛とした声で詠唱を告げる。
「ディスペル・ヴェイル!」
澄んだ光が奔流のように放たれ、拘束された男の体を貫いて内部へと流れ込んでいく。
次の瞬間、黒い影が凄まじい悲鳴をあげて弾き出された。
「ギャウアアアアッ!」
それは獣とも人ともつかぬ声で叫びながら、壁に吸い込まれるように消滅していった。
残されたのは、荒い息を吐くただの人間の男だけだった。
シャドーに操られていた彼は、ぐったりと項垂れ、もはや戦意を示すことはなかった。
最後までお読みいただきありがとうございました。




