第42話 二人の距離と異変
メルグレイスでの暮らしは、少しずつ2人の日常の形を変え始めていた。
朝は太陽が昇る市場の賑わいの中を歩き、昼は街外れの静かな丘でサーチ魔法の訓練に励んだり、ギルドの簡単な依頼を受けたりする。
そして、夜になれば広場で奏でられる音楽や、大道芸人のパフォーマンスに目を奪われ、心を解き放つ。
そんな穏やかな日々の流れの中で、ルナはいつしか、ジャンという存在に、心を奪われるようになっていた。
彼の無愛想な仕草や、時折見せる不器用な優しさが、ルナの心に静かに、しかし確実に響いていた。
ある日の夕方。夕焼けに染まる市場で買い物を終え、2人で宿へ戻る途中のことだった。
ルナは抱えていた荷物を収納魔導具に入れようとしたがバランスが崩れ落ちそうになったため、持ち直そうと手を伸ばした。
その時、ふと、彼女の指先がジャンの指先に触れた。
「――あっ」
ほんの一瞬の、かすかな接触だった。
だが、そのわずかな温かさが、ルナの心臓を大きく跳ね上がらせる。
胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、彼女は思わず手を引っ込めた。
顔が急激に熱くなり、赤くなるのを自覚する。
「・・・・・どうした?」
ジャンが不思議そうに、その無表情な顔をルナへと向けた。
彼の瞳には何の感情も映っていないように見えた。
「な、なんでもないよっ!!」
ルナの声は裏返り、不自然なほどに甲高く響いた。
彼女はごまかすように慌てて前を向き、早足で歩き出した。
宿に戻った後も、胸の鼓動は一向に収まらなかった。
熱くなった頬を両手で覆い、ベッドに腰を下ろす。
頭の片隅に浮かんだのは、アステリアの南の塔、36階でドラゴンから逃げようと結界内に入った時に、リリエルに言われた言葉だった。
『ルナ、ジャンのこと好きなんでしょう?』
その時は、ドラゴンとの戦いに関係ないと、ただ笑ってごまかした。
だが、今になって、その一言が重みをもってルナの心に響いてくる。
(私・・・・・ジャンのこと・・・・・)
思い返せば、訓練で疲れてぐったりした時に、無言で肩を貸してくれた瞬間。
彼が何気なく差し出してくれた水筒を受け取った時。
そのたびに、ルナの胸はきゅっと熱くなっていた。
それは、ただの仲間に対する好意とは違う、特別な感情だった。
(これって・・・・・ただの仲間としての好意じゃない・・・・・よね?)
もう、答えは分かっていた。
だが、その答えを口にするのが怖かった。
もし、この感情を伝えてしまったら、今まで築いてきた、このかけがえのない関係が壊れてしまうかもしれない。
その不安が、ルナの心を縛り付けていた。
一方、ジャンもまた、ルナとの距離に揺れていた。
訓練の最中、無邪気に笑いながら走り回るルナの姿。
困っている人に、すぐに手を差し伸べ、屈託のない笑顔で応える優しさ。
そのすべてが、ジャンの胸に重みを与え始めていた。
それは、仲間を守るという彼のポリシーとは違う、新たな感情の兆候だった。
(いや、これは仲間を大切に思う気持ちと同じだ・・・・・)
ジャンは自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。
彼は常に冷静であろうと努めていた。
ホワイトマジシャンとして、パーティーの指揮をとる立場として、感情に流されることは許されない。
彼は自分の感情を、無意識のうちに抑え込もうとしていた。
その夜、宿の食堂で簡素な夕食をとっていた。
湯気の立つスープの香りが広がる中、ルナは唐突に声を絞り出した。
「ねえ、ジャン・・・・・・もしさ・・・・・・仲間以上に、もっと……もっと、大切な人ができたら・・・・・・どうする?」
その言葉に、ジャンの手が止まった。
木のスプーンから、しずくが静かにこぼれ落ちる。
「・・・・・・なんだよ、急に」
「いいから、答えて!!」
ルナは顔を上げる。
潤んだ瞳は必死で、逃げ道を塞ぐように彼を見つめていた。
ジャンは目をそらした。
胸の奥に浮かぶ言葉を、そのまま吐き出すことが怖かった。
「オレは・・・・・・」
言葉が宙に漂い、食堂の時計の音だけが響く。
やがて、低く絞るように口にした。
「仲間を守る。それは変わらない。誰が相手でもだ」
(ルナ サイド)
短い答え。
迷いのない声。
それはジャンらしい、揺るぎない強さだった。
けれど私の胸には、刃のように突き刺さった。
仲間――その言葉の中に、自分が「特別」として含まれていないことを痛いほど感じてしまう。
「・・・・・・そっか」
小さく笑おうとした唇は震え、笑みにはならなかった。
スプーンでスープをかき混ぜる。
表面に波紋が広がり、涙を隠すように視線を落とした。
私が期待していた答えじゃなかった。
ジャンらしい答えだけど・・・・・・
私が欲しかったのは、あの答えじゃなかった。
ほんの少しでいい。
「ルナを守る」
いや・・・
「大切な人を守る」
その一言があれば、それでよかったのに。
けれどジャンは、『仲間を守る』と言った。
私を含めた“誰か”を。
特別なひとりじゃなく、ただの一員として。
胸の奥で、割れた硝子を握りしめるような痛みが広がる。
それでも・・・・・・ジャンの隣にいたい気持ちは消せない。
もし、勇気を出して気持ちを伝えたら・・・・・・
「オレもルナのことを好きだったんだ」
そう言ってくれる未来があるかもしれない。
その一言を夢見るだけで、息が苦しくなるほど胸が熱くなる。
でも、もし・・・・・・
「勘違いするな!!オレは仲間としておまえを信じてきたんだ。それ以上の感情を持つなら、もう一緒にはやっていけない!」
そう突き放されたら・・・・・・
その瞬間、今まで積み重ねてきた日々が、一瞬ですべて崩れ去る。
そして私は、もう2度と立ち直れなくなる・・・・・・
うん・・・・・・だから、いいんだ。
今のままでいい。
今のままなら、ジャンの隣にいられる。
ジャンのそばに、ただいることができる。
・・・・・
・・・・
・・・
・・
・
どうしても踏み込めない距離がある。
壊したくない想いと、求めたい心がぶつかり合う。
その夜、食堂で2人の間に流れた静寂は、冷めきったスープよりも、もっと冷たかった。
夜のメルグレイスは、昼間の喧騒を失い、静寂に包まれていた。
石畳には、街灯の柔らかな灯りが点々と連なり、幻想的な光景を作り出している。
宿の窓から外を眺めていたルナは、ふと、奇妙なものに目を奪われた。
「・・・・・あれ?」
通りを照らしていた街灯が、一瞬ふっと消え、またすぐに元に戻ったのだ。
まるで、誰かが息を吹きかけて火を消したかのように。
ルナは目を丸くして、その光景を呆然と見つめた。
翌日。
昼間の広場でも、異変は起こった。
大道芸人が火を吹く芸を披露していた最中、観客の影が、ありえない方向に伸び、不自然に揺らめいたのだ。
「ジャン、見た? 影が・・・・・」
ルナの声は震えていた。
ジャンの視線は、揺らめく影に釘付けになっていた。
「・・・・・ああ。太陽の位置からして、あんな伸び方はしない」
ジャンの声は低く、警戒の色を帯びていた。
彼の第六感が、ただならぬ事態の発生を告げていた。
さらに数日後には、市場の露店で商品が忽然と消える事件まで起きた。
商人は盗難だと叫んだが、誰も商品を盗る姿を見ていない。
残されたのは、ひっそりと空気の中に漂う、かすかな魔力の乱れだけだった。
「・・・・・これはただの悪戯じゃない。もっと大きな力が働いてる」
ジャンは確信を込めて言った。
その声には、冒険者としての鋭い勘が宿っていた。
ルナもまた、その揺らぎを肌で感じていた。
不気味な気配が、街全体を覆い始めている。
数度の出来事が重なり、ついにギルドが動いた。
依頼掲示板には「街で発生する不可解な現象の調査」と大きく張り紙がされ、人々の不安な目を集めていた。
「ジャン、見て! これ・・・・・」
ルナが張り紙を指差すと、ジャンは無言で頷いた。
その瞳には、すでに決意が宿っていた。
「やっぱり、私たちがやるべきだよね」
ルナの言葉に、ジャンは冷静に答える。
「当然だ。サーチの訓練を兼ねて調査できる。今のオレたちに最適だ」
彼の言葉は冷静だったが、瞳の奥には、冒険者としての強い意志が燃え盛っていた。
ギルドの受付に向かうと、男性に受付係が2人を見て声をかけてきた。
「ジャン君、ルナさん。例の異変について調査をお願いできるかな? 街の住民も不安がっていてね・・・・・」
「はい、私たちがやります!」
ルナが力強く答えると、受付係は安堵したように微笑んだ。
「頼もしいな。どうか気をつけてくれ」
宿に戻る途中、ルナは足を弾ませながら言った。
「ねえジャン、サーチ魔法で“異変の正体”を探し出すなんて、ちょっと探偵みたいだね!」
「・・・・・お前はいつも楽しそうだな」
ジャンの言葉に、ルナはにこやかに笑う。
「だって、ジャンと一緒に挑戦できるんだもん!」
その無邪気な笑顔に、ジャンは小さくため息をつくと同時にいつもの笑顔に心が温かくなるのを感じていた。
そして、ジャンも心のどこかで、自分も同じように、この新たな挑戦に胸を高鳴らせていることを認めざるを得なかった。
こうして2人は、街を覆う小さな異変の謎を追い始めた。
それはやがて、2人の想像をはるかに超える出来事へと繋がっていくのだった。
最後までお読みいただきありがとうございました。




