間章 え?ウソーーー!?
空はどこまでも青く、深く、澄み渡っていた。
どこまでも広がる天空は、地上を覆うあらゆる喧騒から隔絶された、神聖な静寂を保っている。
ジャンとルナは、アステリアの街を後にし、誰の視線も気にすることなく、自由奔放に空を舞っていた。
彼らの下には、きらめく光の粒のように人々が行き交い、蹄の音が響く馬車が街道を縫う。
遠くには、西の塔が、天を衝くかのようにそびえ立っているのが見えた。
「すごい!遠ざかっていくアステリア、まるで手のひらに乗る箱庭みたいだよ、ジャン!」
ルナが目を輝かせながら、無邪気な声を上げた。
その興奮した声が、風に乗ってジャンの耳をくすぐる。
ルナの表情は、初めて見る壮大な景色に、驚きと喜びが入り混じった、まさに夢見る少女そのものだった。
ジャンはそんなルナの様子を微笑ましく見つめながら、魔力を微調整し、ゆっくりと、しかし着実に上昇していく。
魔力を帯びた風が、2人の髪を優しく撫でつけた。
「あんまりはしゃぎすぎると、体力を使うぞ。空の旅は、地上とは違うからな」
ジャンの声は穏やかで、しかしその中には、ルナを気遣う優しさが滲んでいた。
「うーん、でも我慢できないよ!だって、初めてだもん!」
ルナはそう言って、まるで風の精霊が舞うかのように、くるくるとジャンの周りを宙返りする。
その姿は、あまりにも軽やかで、見る者を魅了するような美しさがあった。
ジャンは呆れたように口元を緩め、ふわりと笑みをこぼしながら、ルナのそばに寄り添った。
「なあ、ルナ。少しずつ慣らしていこう。このまま一気に、あのヒルダロアまで飛んでいくんだから」
ルナは素直に頷き、ジャンの隣で落ち着いた姿勢に戻った。
彼女の瞳は、まだ興奮の光を宿していたが、ジャンの言葉に安心したように見えた。
2人は互いの魔力の流れを感じ取りながら、果てしない空の旅を続けた。
上空は地上の喧騒とはかけ離れた、崇高な静けさに包まれている。
時折、鳥の群れが彼らの横を颯爽と通り過ぎていくが、危険な魔物の姿はどこにも見当たらなかった。
澄み切った大気の中を、ただひたすらに進んでいく。
飛行を開始してからおよそ1時間後。
ルナの顔に、わずかな疲労の色が浮かび始めた。
無邪気にはしゃいでいた先ほどの輝きは少し影を潜め、彼女の表情に疲労の色が浮かび始めた。
「ジャン・・・・・・少し、休まない?」
掠れた声でルナが問いかける。
「ああ。無理は禁物だ。一度、地上に降りよう」
ジャンはルナの顔色を見て、すぐに彼女の疲労を察した。
2人は放出する魔力を徐々に弱め、ゆったりと、しかし確実に高度を下げていった。
目指すは、木々が点在する開けた草原。
森の端を抜け、陽光降り注ぐ草原に、2人はそっと舞い降りる。
足元に広がる柔らかな草の感触が、疲れた身体に心地よかった。
2人は持参した水筒の水を飲み、簡素な食事で空腹を満たす。
休憩中、ルナはジャンに問いかけた。
「ヒルダロアまで、あとどれくらいかな?空を飛ぶのって、思っていたより体力を使うね」
ジャンは空を見上げ、遥か彼方を指さす。
「空を飛んで行ったことはないからな、正確な時間は読めない。ただ、オレたちが思っている以上に、早く着きそうだ。この分なら、予定よりも早く到着するだろう」
「わあ!それは嬉しいね!」
ルナは疲労を忘れたかのように、再び嬉しそうに飛び跳ねた。
その笑顔は、どんな疲れも吹き飛ばすような、不思議な力を持っていた。
再び空に舞い上がり、2人は旅を再開する。
しばらく飛んでいると、眼下に深い緑の絨毯が広がってきた。
それは、塔の上層階に出るようなモンスターが住む「魔の森」。
魔の森を上空から見下ろすと、その不気味なほどの緑の濃さに、ルナは思わず身を震わせた。
陽光さえも吸い込むような暗い森の奥からは、得体の知れない気配が立ち上っているように感じられた。
「あの森、やっぱり怖いね・・・・・・何か不気味だもん」
ルナはジャンの腕にそっとしがみつく。
「そうだな。だが、上空には魔物はいない。それに、サーチ魔法で探索した限り、今のところ問題はない。大丈夫だ」
ジャンはルナを安心させるように言い、さらにサーチ魔法を放つ。
その結果、森の奥深くには依然として強力な魔物が潜んでいることが確認された。
(やはり、この森にいるモンスターと戦うのは骨が折れそうだ。地上からの突破は、かなり困難だろうな)
ジャンはそんな思案を巡らせながらも、2人はそのまま、広がる大地の西側に見える西の塔を常に左手に見ながら、順調に飛行を続けた。
上空から見える景色は、時間の経過とともに変化していった。
深い森林地帯を抜け、きらめく川を渡る。
その先には、どこまでも広がる緑の絨毯、広大な草原が無限に広がっていた。
見渡す限り、地平線の彼方まで続くその景色は、まさに息をのむほどだった。
「わあ、すごい!どこまでも緑だね!」
ルナが歓声を上げる。
彼女の顔は、風と光に照らされて、希望に満ち溢れていた。
この雄大な景色が、彼女の心を解放しているかのようだった。
ジャンもまた、この雄大な景色に心を奪われていた。
しかし、同時に一つの疑問が頭をよぎった。
彼の眉間に、微かな皺が刻まれる。
「なあ、ルナ。ヒルダロアへ続く道って、こんなに広い草原を通るんだったか?草原のすぐ両サイドに、森があったような気がするが・・・・・・」
ルナは首を傾げる。
記憶を辿るように、じっと空を見上げた。
「うーん・・・・・・どうだったかな?でも、この景色、すごく綺麗だね!なんだか、どこか別の世界に来たみたい!」
ジャンの疑問は解消されなかったが、ルナの無邪気な笑顔を見ると、それ以上深く考えるのをやめた。
この道が正しいかどうかは、進んでみればわかることだ。
それに、もし道に迷ったとしても、2人一緒なら、楽しめる。
空を飛ぶ旅は、徒歩よりも圧倒的に速く、快適だった。
まるで風と一体になったかのような浮遊感は、何物にも代えがたい喜びを与えてくれる。
しかし、それと引き換えに、体力の消耗もまた大きかった。
更に一時間ほど飛び続けたところで、ジャンはルナの顔色を見て、再び休憩を提案した。
「そろそろ、また一度休むか。このあたりで一度、地上に降りよう」
「うん、そうだね!」
ルナは素直に頷き、2人はゆっくりと高度を下げ、広大な草原の中央にぽつんと立つ、小さな木立へと舞い降りた。
木陰は心地よい涼しさで、太陽のぎらつく光を遮ってくれた。
草の匂いと土の香りが混じり合い、心地よい安らぎをもたらす。
ジャンとルナは収納魔導具から水筒を取り出し、喉を潤した。
2人は木にもたれかかり、水筒の飲み物を飲みながら静かに休憩を取る。
疲れた身体を休ませながら、彼らはしばしの静寂を享受した。
「それにしても、この旅、なんだか不思議だよね」
ルナが突然、口を開いた。
その声は、どこか遠い目をするような、思索的な響きを持っていた。
「不思議?」
ジャンが問い返すと、ルナは少し考えてから、ぽつりぽつりと話し始めた。
「うん。なんかね、今までの旅とは全然違うの。カイラスたちと一緒の時は、いつもモンスターと戦って、塔を登って・・・・・・でも今は、ジャンと2人で、ただただ前に進んでるだけ。それが、なんだかすごく楽しいんだ」
ルナの言葉に、ジャンは穏やかに微笑んだ。
彼女の素直な感情が、彼の心に温かい光を灯す。
「そうだな。オレも同じことを感じてた。目的は同じだけど、旅の形が違う。これまでの旅は、常に命の危険と隣り合わせだったからな。こんな風に、ただお前と2人で旅をするなんて、初めての経験だ」
「ジャンは、今、何を考えてるの?」
ルナが目を輝かせながら尋ねる。
ジャンの思考を覗き込むかのような、純粋な好奇心に満ちた瞳だった。
「オレか?そうだな・・・・・・ヒルダロアに着いたら、ルナと何をしようかなって。街の広場で屋台の食べ物を食べたり、他には・・・・・・」
ジャンの言葉に、ルナはさらに目を輝かせる。
彼女の表情は、まるで未来の幸福を先取りするかのようだった。
「屋台!?うん!行く行くーーー!何食べようかなー?パフェとか、クレープとか、焼きそばに・・・・・・他に何だろうなー?」
ルナは、もうヒルダロアの屋台料理で頭がいっぱいだ。
次々と食べ物の名前を挙げていく彼女の姿は、ひたすらに愛らしかった。
「絶ーーーーーっ対、行こうね!ジャン!」
ルナの笑顔は、まるで太陽のようにまぶしかった。
その輝きが、ジャンの心を温かく包み込む。
ジャンはそんなルナの顔を見ているだけで、心が満たされるのを感じた。
この瞬間が、永遠に続けば良いとさえ思った。
「急に話は変わるが、ルナは、あの夜の夢、まだ気にしてるか?」
ジャンがそう尋ねると、ルナは一瞬、顔を曇らせた。
楽しかった雰囲気が、少しだけ重いものへと変わる。
「・・・・・・うん。あの夢、本当に不思議だよね。ジャンが死んじゃう夢なんて、2度と見たくない!」
ルナの表情には、明確な不安と恐怖が浮かび上がっていた。
あの悪夢が、彼女の心に深い影を落としているのが見て取れる。
「大丈夫だ。オレはここにいる」
その声は、力強く、そして温かかった。
ルナは安心したように、空を見上げた。
青い空に、白い雲がゆっくりと流れていく。
「でも、リリエルも同じ夢を見たって、やっぱり不思議だよね・・・・・・偶然、なんて思えないもん」
ルナの言葉に、ジャンの表情も引き締まる。
「ああ。あれは、ルナとの魔力共鳴が起こしたことなのかなって思ったが、リリエルも経験したのはおかしい。考えても答えが出ないんだ」
ジャンは腕を組み、深く考え込む。
リリエルの夢とルナの夢が繋がる意味。
それは、単なる偶然では片付けられない、何か特別な意味を持つのではないか。
しかし、その答えは、まだ見つからない。
「そうだね。でも、リリエルも無事でよかった。あの時は、リリエルがいてくれて、すごく安心したんだ。」
ルナは、リリエルの存在に心から感謝しているようだった。
「ああ。リリエルには感謝してもしきれないな」
その後2人はしばらくの間、言葉を交わさず、ただ静かに休憩を続けた。
互いの存在を感じながら、言葉以上の安らぎを分かち合う。
そしてジャンが立ち上がる。
「行くか、ルナ。ここまで来ると、ヒルダロアは遠くないはずだ」
「うん!」
ルナも笑顔で頷き、2人は再び空へと舞い上がり、草原に沿って進んだ。
視界を遮るものは何もない。どこまでも広がる草原を、彼らはまっすぐに進んでいく。
どれほどの時間が経っただろうか。
太陽が空の真ん中を過ぎ、少し西へ傾き始めた、昼過ぎのこと。
突然、ジャンが目を見開いた。その視線の先を追うように、ルナも視線を向ける。
「ルナ!見てみろ!」
ジャンが指差す先、遥か彼方に、一つの大きな街のシルエットが見えてきた。
昼下がりの陽光に照らされ、街の輪郭がはっきりと浮かび上がっている。
「あれは・・・・・・」
ルナが息をのんだ。
その声には、期待と、かすかな興奮が入り混じっていた。
「ジャン!あれがヒルダロアだね!やっぱり、空から見るとすごく大きい!」
ルナが指差す。
その顔は、目的地に到着した喜びで輝いていた。
しかし、ジャンは首をかしげた。
彼の眉間に、再び疑問の皺が刻まれる。
ヒルダロアの街は、中央付近に広場があり、南東側には城、北西側には塔と噴煙を上げている山があるはずだ。
彼の記憶の中のヒルダロアとは、明らかに異なる光景が広がっていた。
目の前に広がる街は、南側に大きな広場があり、北側の街外れに城があるように見えた。
噴煙を上げる山のようなものは、城のずっと奥に見えるような気がする。
(おかしいな・・・・・・?噴煙を上げている山が城の奥?そして、広場の位置も違う)
ジャンは違和感を覚えながらも、ルナと共に街外れへ、そっと降り立った。
足元は、見慣れない土の感触。
街の雰囲気も、ヒルダロアと聞いていたものとは違っていた。
ヒルダロアはもっと活気に満ち、屈強な冒険者たちが溢れているはずだ。
しかし、この街は、どこか静かで、落ち着いた空気が流れている。
行き交う人々も、冒険者らしき姿は少なく、穏やかな市民生活を送っているように見えた。
住民たちの服装も、ヒルダロアのものとは少し違う。
より簡素で、しかし温かみのある生地を身につけている者が多い。
2人は街をしばらく歩き、この違和感の正体を確かめるため、道端にいた一人の穏やかな表情の女性に声をかけた。
「すみません。突然で申し訳ないのですが、ここはヒルダロアの街ですよね?」
ルナが、やや不安げな表情で尋ねる。
彼女の瞳には、まだ信じられないといった感情が宿っていた。
女性は不思議そうな顔でルナを見つめた。
その表情には、警戒心よりも、純粋な疑問が浮かんでいた。
「いいえ、お嬢さん。ここはメルグレイスという街ですよ。もしかして、旅の途中ですか?」
その言葉に、ジャンとルナは、まるで雷に打たれたかのように、顔を見合わせた。
2人の瞳には、驚愕と、そして動揺の色がくっきりと浮かび上がっている。
メルグレイス。
それは、ヒルダロアのほぼ真西に位置する街だった。
自分たちは北へ向かっていたはずだ。
西の塔を常に左手に見ながら飛んでいた。
飛行魔法を使い、方角も間違えていないはずだった。
それなのに、なぜ、ヒルダロアから見て西にあるメルグレイスに辿り着いたのか。
「メルグレイス・・・・・・?どうして、オレたちがここに?」
ルナが信じられないといった様子で呟く。
その声は、震えを隠しきれないものだった。
ジャンの表情もまた、驚きを隠せない。
どこに間違いがあったのか、理解できない。
ルナが不安そうに、ジャンの腕を掴んで聞いてくる。
「ウソ!?私たち・・・・・・迷子になっちゃったの!?どこか間違えちゃったのかな!?」
ジャンは無言で首を横に振った。
方角の認識は、完璧だったはずだ。
それなのに、結果は違う街。
「いや、そんなはずは・・・・・・」
ジャンは地図を思い浮かべ、ルナに答えた。
「ここから東へ飛べば、すぐにヒルダロアが見えるはずだ」
ヒルダロアとは全く違う街だった。
2人の心には、困惑と、ほんの少しの不安が広がっていた。
しかし、ルナはすぐに気を取り直した。
彼女の持ち前の明るさが、この状況をも乗り越えようとさせた。
「せっかく来ちゃったんだから、この街を楽しもうよ!きっと、メルグレイスにしかない、美味しいものとか、面白いものとか、いっぱいあるよ!」
ルナの笑顔は、まるで太陽のように再び輝き出した。
その言葉に、ジャンの心も少しずつ落ち着いていく。
東の空を眺めながら、彼は静かに頷いた。
「そうだな。それも悪くない」
2人はこの街で、どんな楽しい事が待っているのか、心を躍らせていた。
予想外の出来事が、新たな冒険の始まりを予感させる。
最後までお読みいただきありがとうございました。




