最後の答酬
『アクアレギアでソロモン王の水葬とは、諧謔が利いているのではないかえ?』
クロセルが歪んだ笑みを浮かべた。整った顔立ちなのだが、性根の歪さが隠しきれない。
王水の大波を喚び出す。
「貴女の悪趣味に付き合っていられませんわ。死に水を取られる曰くはありません」
黄金の盾を数十枚展開し、錐のような形を整える。
「戦形・ラジエル」
本人は盾に乗り、一本の槍の如く襲い掛かった。
『ま、魔術師が接近戦を……?』
強靭な肉体を誇る堕天使相手に、魔術師が距離を詰めるとは思わなかった。そもそも魔術師にとって魔術戦とは「魔術の披露の場」である。実情、過去のソロモン王もそうであったし、それを織り込んだうえでの王水だった。
「身を護りつつ攻勢に出ることができる。良い発想でしょう?」
アスモデウス戦で得た教訓である。あの老人の懐に入り込む困難を思えば、遥かに生易しい作業だった。
王水が金を溶かすには時間と適切な温度が必要となる。槍と化した盾群は波を突き破った。僅かな接触では溶けきるには至らない。密集形態で、人体に有害な王水の接触を最小限に食い留める。
大盾がクロセルの胴部を貫いた。
『ほほ、口惜しい。威厳を取り戻したか。では次の脅威も乗り越えてみせるがよいわ』
クロセルの姿は溶けて消えた。
「はあっ、はあっ!」
ソロモンは地に膝をつき、荒い息を吐いた。黄金の盾も重い音を立てて地面に転がる。維持する魔力が尽きかけいた。どの盾も王水に洗われ、表面や端々が溶けている。荘厳な面影はどこにもない。
それでも。名前を取り戻した彼女に、後退はない。
* * * * *
蓮は周囲を警戒しつつ、王城への道を急いでいた。
「不思議だ。堕天使に遭遇しなくなった」
『と言いつつも、あまり愉快そうではないであるな』
デカラビアの言葉は鋭い。
「敵のアジトに突入しようとしてるんだぞ、警戒が増すのが普通だろ。……イデアのやつ、無理してないと良いんだけどな」
イデアが自主的に陽動を買って出たことに気付いていた。
「俺だけ辿り着いても、きっと悪霊の王とやらは斃せない」
イデアが現代に送られてきた理由を、蓮は至極簡単に捉えるようにした。即ち「必要とされているから」。であるならば、蓮1人が敵の本拠に突撃したとしてなんらの勝機もない。
『キサマが指輪を奪うのも一興ではないか?』
挑発するデカラビア。
「じょーだん言うな、できるもんか」
『我々を使役できるであるぞ?』
「“厄介な隣人”が増えるだけじゃないか」
にべもなく言う。
「超常の者なんて言われてても、人間と契約しなけりゃ干渉できない。アティルト界で実体化したらしたで、魔力がなきゃ保てない。水や食い物がないと生きてけない人間と一緒じゃないか。ゲームとか、妙にこだわるヤツもいるしな」
堕天使と関わってきた蓮が抱いた感想は、“大いなる万能な不自由者”だった。
不要に畏敬の念を抱かず、力を欲さず。蓮の心持ちは魔術師として正しいと言えた。
* * * * *
地面を注視する。青く光る水の矢印が点々と続いていた。
「クロセルめ、同胞にこの場所を!」
クロセルは「次の脅威」と言っていた。他の堕天使に繋ぎをつけた後で襲撃に及んだことになる。
「姑息な。やはり貴女とは水と油でしたわね」
用心深さでは似た者同士であり、むしろ同族嫌悪と言えた。
「クロセルと交友のある堕天使……まさか!」
不意打ちで飛来してきた火球と雷を、咄嗟に盾で防ぐ。
『惜しかったのう』
人型の炎の塊が喋る。
『キーーー!』
同調するのは、蝙蝠の皮膜を持つ雄鹿。序列58位アミーと、序列34位フルフルである。クロセルと違い、堕天使の中でも「武闘派」の2柱だった。
アミーは見た目通りに炎を操り、ハーデース(死者の魂が住む世界)に住むという。フルフルは天候操作で大風、雷を生み出すことが得意とされる。
だが、脅威は2柱に留まらなかった。
陽が翳る。巨体が宙に浮いていた。ズシン、と地響きを立てて着地する。かなりの距離を跳躍で追ってきたようだ。
猛り狂う大きなライオンの胴体から、逞しい人間の上半身が生えている。奇妙な剣を帯びていた。
「マルバス……」
マルバスは序列5位の堕天使。シェイクスピアの「ヘンリー5世」「ウィンザーの陽気な女房たち」で有名となった。
――エリゴールには運よく勝てはしましたが、マルバスは……。
ソロモンにとって最悪のさらに下。絶望的な相手だった。
エリゴールと並んで「決して勝てない」と判断していた堕天使である。しかも一瞬でここまで接近を許しては、逃げの一手は使えない。
炎と大風の集中砲火を浴びる。少ない盾を甲羅のように固めて身を護る。
魔力は尽きかけている。だが、諦めるわけにはいかない。ここで命を落とせば、残された蓮に全ての負担が押し寄せる。
最初は、捨て石になっても良いと思っていた。だがそれは、エリゴールに誤りだと気付かされた。死ぬことは守ることではなく、責任の放棄に過ぎない。
――今度こそ、この世界を守って見せる。
その意志だけを胸に。
『王よ。最後の答酬だにゃ』
音もなく。盾で作った甲羅の中に黒猫バエルが現れた。どこの場所にもいる。いつの時代にもいる。それがバエルの本質である。
『貴君は“カアナンの王”であるにゃ?』




