伏木京の天秤
黒猫バエルは、指定席のソファで昼寝を決め込んでいる。どうやらソロモン王の一大危機に手を貸すつもりはないらしい。
「少々、お話をしましょうか。尊き方でない我々には、消化不良の部分もあるでしょうから」
伏木が蓮に話しかけた。
「いいですよ。」
蓮も明日の結果如何では巻き添えを食う。渡りに船の提案だった。
「この家で、というのは居須磨さんも気が休まらないでしょう。少し歩きますが、西にあったファミリーレストランまで歩きましょう」
先導されるので、靴を履く。
『惜しいの。情と非情を併せ持つ希な存在だったものを、最後に情に押し流されたか。こやつこそは垣根を渡り切れるかと思っておったが、最後に転げ落ちた』
伏木の背に、ぽつりと老人が漏らした。
「無理もないでしょう。希望を持って死に向かえる者など、そうはおりません。生と死の垣根を渡り切れる……魔女には」
蓮には理解できない難解な会話に、バエルがピクリと耳を立てる。
イデアが蓮の袖を引っ張った。
「……を、調達してください」
耳打ちする。
「い、いきなりそんなもの欲しいって言われても」
渋い顔をするが、少女は真剣そのものだった。
「お願いします」
蓮はそれ以上の説明は求めなかった。
「ん、分かった。あの刑事さんが持ってるかもしれないし、おねだりしてみるか」
今の伏木を見ていて、蓮は先にアスモデウスが言っていた単語を思い出していた。
「残骸、か」
「驚かせて申し訳ありません」
コーヒーを注文し、伏木が切り出した。
「驚かされはしましたけど。それ以上に奇妙なのは伏木さんの心変わりですよ」
この点に蓮は納得がいっていない。
「でしょうねえ」
「最初の訪問はぶっちゃけ偵察でしょ? あのときはまだ戦う気でいた」
「はい」
臆面もなく頷く。
「俺は全く疑ってなかった。九分九厘、勝てるはずの勝負から手を引く根拠は?」
恐らく、強力な魔術を有している。今でもその気になれば、一瞬で命を絶たれる。伏木はゆっくりとコーヒーを口に含み飲み下す。そして、話し始めた。
雨が降り始めた。雲が厚い。まだ小雨だが、やがて激しくなるだろう。
伏木はスマーフォンを見せた。白いパジャマの少年が映っている。
「お子さんですね。たしか、運埜くん」
「はい。代謝異常の病気で、ずっと病院でお世話になっています」
一度も外に出たことがない、と加えた。子どもの頃に発症したら生き延びることは到底難しい病だとも。
「彼は僕と同じ警察官になりたいと言ってくれました」
「10歳まで生きられないだろう」と医者に言われても。
「父親として、契約者どもが跋扈する最前線になど、行かせたいわけがありません」
採用試験に受かる体力などあるはずがないとしても。
「僕は“立派な警察官”にも、“せいぎのみかた”にもなりたかったわけじゃないんですよ。“裁きを下した”などと思い上がってはいません。やっていることは所詮、人殺しですからねえ」
応援しない理由にはならない。
「僕はただ、運埜君に少しでも長生きしてほしい、“良い父親”になりたかっただけなんですよ。犯罪者の数を1人でも減らすことが、彼を護ることにもつながる」
彼が警察官になったとき、悪人が1人もいなくなっていれば。
「ですが、先程病院から電話がかかってましてね。運埜君は亡くなりました」
目を伏せた。
「ですからもう僕にはないのですよ。戦う理由も、生きる理由すらも」
先にアスモデウスは言った。
――『惜しいの。情と非情を併せ持つ、希な存在だったものを。最後に情に押し流されたか』
だが、蓮には分かる。伏木の「情」の天秤には、息子1人しか載っていない。元より釣り合っていない、極めてバランスの悪い状態だったのだ。彼の均衡は、崩れるべくして崩れた。
「これが、考えを変えた理由です。後は、いままで協力してくれた相棒のやりたいようにやらせてあげようかと。ご理解いただけましたか?」
要は。彼はいま、アスモデウスへの義務で動いているだけの存在ということ。
「はい」
「それは結構。それでは僕は病院に向かわないといけないのでこれで失礼」
言うだけ言うと、伝票を手にレジへ向かう。ふと、伏木が思いついて振り向いた。
「よく、僕についてきましたねえ。僕が豹変したら貴方、とっくにこの世にいませんよ?」
「でしょうね。でもしないでしょう?」
挑発とも取れる断言。
「おや?」
「2時間前の伏木さんだったら、その危険はあったかもですね。でも今のあなたは、ガワが同じだけの、抜け殻に見える」
計算高い伏木であったら、必要とあれば騙し打ちも躊躇しなかっただろう。
「……」
「さっきの老人の言葉を借りれば、伏木京の残骸、かな。砕けたカラダとココロを義理の糸で繋いだだけのハリボテ。今のあなたに、アリ1匹殺すことはできないと思う」
だから安心してついてきました、と言った。
「おやおや。読み切られていたのは僕の方でしたか。失礼しました」
ほんの少し微笑んで、背を向けた。
――今だ。
「敵対者ロケル」
小声で唱えた。ロケルの魔方陣は、サイズを意のままにできる。小さな魔方陣を、伏木の腰のあたりに拵えた。パキン、と音を立ててあるものが落下するのを、蓮がキャッチする。
平生の伏木であれば、このようなヘマはしない。
「これでいいのか?」
帰宅後、蓮は伏木から盗んだ物を渡す。
「ありがとうございました」
真剣な面持ちで受け取るイデア。
「しかし……どうするんだ? 手錠なんか」
決闘を明日に控えて、懸念材料しかない有様である。
「魔力も余り回復していないコンディションで、序列32位と正面衝突なんてできるか?」
「実力は32位ではありません。アスモデウス以前、わたくしを騙して王座を奪ったことがあります。その咎で13の逆数、降格させられております」
脳内で数字をひっくり返す。
「13の逆数は31……ええ?」
「はい。アスモデウスの本来の序列は、1位です」
どんどん絶望的な状況が判明する。
『RPGなれば負けイベ確定であるな』
デカラビアが口を挟む。ゲームで負けることが決まっているイベントのことを指す。
本来ならば決闘の名を冠しただけの処刑に等しい。だが、蓮はイデアに何かを感じ取った。
「なにか勝算がありそうだな?」
少女は複雑な笑みを浮かべる。
「“死中に活あり”ですわ」
イデアは女児向けアニメで憶えたばかりの言葉を言い放った。




