「罪人はここにいるぞ」
奇襲は完全に失敗した。だが、やはり相手に自分の姿は見えてない。刑事が話しかけているのは明後日の方向で、視線がまるで合っていなかった。
「まだまだオレ様が有利ってことだナ」
無傷で逃亡することもできるが、戦闘継続を選んだ。 警察に契約者がいると知った以上、見逃す策はない。
『ヴァウワウ!』
カークリノラースも戦うように言い立てる。主に、刑事の後ろにいる老人に敵愾心を抱いているようだった。70過ぎに見える老人は、縁石に腰かけてこちらを見物をしている。
『ああ、儂は手を出さぬ。単なる世捨て人でな』
声までかけてきた。堕天使は余人には見えない。この場合、老人がわざわざ辰串に「姿を見せて」いることになる。かくしゃくとした物言いで、一種超越した何かを内包していた。
『カークリノラースよ、また罪人を駒に遊んでいるのか』
『バウッ!』
威嚇する魔犬。
『ふん? いつもと違い好戦的じゃな』
堕天使ならば直接ちょっかいをかけてくることはないだろう。辰串は老人を無視することに決める。当面の敵は刑事1人。ナイフは折れたので、絞殺用の紐を手にした。
「失敗したモンに頼りたくねえけどよ。こいつなら効くかもしれねぇナ」
カークリノラースの魔術は透明化。換言すれば「透明になれるだけ」とも言える。殺害に及ぼうとすれば、必ず対象に接近して、自分の手で行う必要があった。
カークリノラースは、契約者に手を汚させることで魂を地獄に叩き堕とすのだ。
辰串は慎重に背後に回り込んだ。
「ひょっとして、こちらにいらっしゃるのではないですか?」
首に紐を回す前に、伏木は振り向いた。
「うおっ」
「犯罪は手口がパターン化する傾向にあるのですよ。ゲンを担ぐ、と言い換えても良いのかもしれません。背後から襲うのがお好きなようですねえ」
先の奇襲然り宇越聖也の殺害時然り。辰串は背後から襲い掛かっている。透明化という絶対的に有利な状況であっても、無意識に、無自覚に。拭い難いその性向を見抜かれた辰串は「臆病者」と罵られた気がした。
「ほざきゃあがれ!」
依然見えていないことに変わりはない。絞殺を強行した。
顔面に掌が突き出される。伏木はデータにあった身長から、辰串の顔面の位置を狙っていた。
「挑発に乗ってくれましたかね?」
伏木の手の平から、炎が噴き出した。
「ぶぁっ?」
至近距離で食らう。顔面を灼熱が襲った。周囲を確認し、通行人が途絶えたときを狙って仕掛けるほどの余裕を見せた。
「見えなくても問題はないのですよ。思考を誘導してやればいいだけの話ですからねえ」
汗一つかかず、伏木は言った。肉の焦げた臭いが漂う。
「ち、チクショウ!」
辰串が顔面を押さえて喚く。顔の右半分が焼けただれ、片目は白濁していた。退却に天秤が傾きかけたが、行動に移すよりも早く。
「この辺りでしょうかねえ」
地面が跳ね上がり、瞬時に右足が砕けた。
「いってえええ!」
痛みを堪えきれずに転げまわる。震源地がややズレていたにも関わらずこの殺傷力である。もし直撃していたら、ただの肉塊になっていたことだろう。
足は血だらけで、歪に曲がっている。骨は粉々だろう。これで逃亡も不可能となった。
「当たったようですねえ。まだ生きていますか?」
アスファルトを染める血を見て問いかける。興奮も愉悦も含まない、あまりに「いつも通り」な問いかけに逃亡犯の背筋が冷たくなる。
「貴方を逮捕するつもりはありません」
伏木は断言した。
「現行法では、堕天使だの魔術だので立件することは難しいですからねえ。わざわざ同僚や司法の手を煩わせることもないでしょう」
この場で殺すと、暗に言っていた。
勝負はついた。一方的に。辰串の顔面の火傷はひどく、
足に至っては元に戻ることはないだろう。
医者にかかれば命だけは助かるだろうが、そのためには透明化を解除しなければならない。当然、捕まる。仮に逃亡に成功したとしても、結局死刑に帰着するだけのことだった。
透明化して手に入れた自由とは。何かあったとき誰にも助けを求めることのできない、無法者の自由でしかなかった。
「これで終いか。まあ聖也のバカにリベンジもできたし、自由はマンキツした。まあまあ悪くねえやナ」
辰串は生に執着しなかった。生まれた直後に公衆トイレに捨てられた。保護されたのが夕方の5時だったので夕五。施設でもどこでも、愛情を注がれた記憶はない。
だが、この場に在って趨勢を認めないものが1匹。いや、1柱。
『グルルル……バウッ!』
マルチーズが咆哮すると同時に、風景が極彩色に彩られてゆく。ありふれた小路が、開けた空間に。
地には敷き詰められたような孔雀の羽根。聳え立つ巨大な女像の群れ。寝そべる獅子の死骸。これら全てが黄金の光沢を放っていて目に痛い。極め付きに悪趣味な空間だった。
「おや、ここは……?」
さしもの伏木も困惑している。
『アティルト界に引き込まれた。人間の魔力で創り出した、塵界とは隔絶された空間じゃな』
老人が説明した。が、説明しながらも腑に落ちない表情をしている。
『忠犬とは言い難い野犬が、妙に熱心に動くものだ』
「なるほど。興味は尽きないですねえ。……おや?」
前方に、きょとんとした表情の辰串の姿があった。カークリノラースがアティルト界を創り出した余波か、透明化が解除されたらしい。伏木の読み通り、半死半生の有り様だった。
「להעניש את החוטא」
再び透明化を唱えるが、姿は消えない。
「どしたァ?」
「それが透明になるためのキーワードですか。……ははあ、皮肉ですねえ。辰串さん、その文言の意味、分かっていますか?」
「? 知らねえヨ」
起動の呪文を聞いて、伏木が神妙な顔をする。辰串は意味に興味はなかった。欲しいのはご利益だけ。
「להעניש את החוטאはヘブライ語で、“罪人はここにいるぞ”ですよ。貴方、いつも隠れるたびに自分の罪を暴露していたわけです。何とも皮肉が効いていますねえ」
博覧強記の伏木はヘブライ語まで理解していた。
「何だと……?」
悪趣味なカークリノラースらしい趣向だった。
『ここで姿を隠すことができないのは、このアティルト界の元になった人物が貴様を“|隠れも無き人間にしたい《暴き立てたい》”という顕れであろうよ。譬えば、そやつの死に大いに関わっておった、とかな』
老人が面白くもなさそうに説明する。
『そしてこの空間ならば、堕天使は実体を持つことができる』
青い魔犬が、辰串の喉笛を食い破った。




