追跡する殺人者
辰串夕五は鼻をガムテープでぐるぐる巻きにした。鼻はフローリングの床に顔面から叩きつけられた際に折れてしまったのだ。固定すると、どうにか痛みが和らいだ。
「あーみっともねェ」
痛みよりも怒りが先行する性分である。
「あのガキ、オメーの知り合いだったのかヨ。カガミの弱点すっかりバレてやがったじゃねーか」
裏切られれば根に持つが、失敗は後悔しない性分だった。
「早速リベンジだぁナ」
相手が待ち受けているかもしれない、という考えとは無縁な男である。
しかしそのリベンジは空振りに終わった。相手も再襲撃を察していたようで、家は蛻の殻であった。
「ちっ、どこに逃げやがったヨ?」
腹立ちまぎれに、リビングの食器棚を引き倒して暴れる。他の部屋も物色しようとすると、カークリノラースが止めた。袖に噛みつき、早く後を追わせようと引っ張る。
「酒がきれた。1本だけ盗ったらやめっからヨ」
酒を求めて2階のドアを開ける。すると本棚の壁。さしもの辰串も「本の棺桶」には呆れ返った。
「ここに住んでるヤツぁ、かなりのイカレ野郎だナ」
脱獄犯であり死刑囚である辰串は嘯いた。
* * * * *
2人は自転車に乗って移動中だった。「できるだけ人のいない郊外に移動する」というのが一致した方針である。人目があったところで、こちらの行動が阻害されるだけだと判断した。
「荷物、それだけですの?」
荷台から腕を回したイデアが訊ねる。蓮の持ち出した荷物は、バッグ2つ分ほどでしかなかった。なお、本の類は5冊まで、とイデアが先んじて厳命している。
「持ち運べる量に限りがあるんだから、貴金属とかまで持っていけないよ」
「家においておいたら盗まれるのでは?」
もっともな懸念を口にする。
「大丈夫、隠し場所は工夫してるから」
「いったい何処に?」
「寝室」
イデアがかつて「本の棺桶」と形容した部屋である。
「カード類は“逆転美人”と“空気頭”に挟んでる。通帳は“供花”に。小さな貴金属は“喜劇悲喜劇”“深泥丘奇談”のブックカバーの中」
すらすらと奇書のタイトルを諳んじる。何をどの本に隠したのか覚えているらしい。
「呆れた……」
意外に気が回る性格らしい。
* * * * *
カークリノラースが先導する。青い魔犬は順調に殺人者の臭いを追跡していた。
「オラオラ、急げヨ」
辰串が急かす。手にはウイスキーの角瓶。
だが、カークリノラースが案内したのは、目当ての少女ではなかった。
堕天使は40がらみの男性の前で歩みを止めた。名店ヘンリープールのスーツが板についた、紳士然とした男性である。男は車を降りたところだった。
「ああん? コイツじゃねえだろ!」
『クーン』
カークリノラースは殺人者の臭いに敏感だが、人間の個体識別は不得手だった。たまたま近くにいた、別の殺人者の臭いを辿ってしまったらしい。
「ムダアシ食っちまったゼ……お?」
目をやれば、男性は写真を手に通行人に話を聞いていた。
「昨日の15時頃ですが、この男性をこの辺りで見ませんでしたかねえ?」
聞き込みをしている。写真には自分が映っていた。通行人が怪訝な顔をすると、
「失礼。僕はこういった者です」
懐から警察手帳を出して見せた。
「警官か」
辰串は目を瞠った。ブランドのスーツに皺1つない糊のきいたワイシャツといういで立ちは、 激務で寝る時間もないと言われる警察官には似つかわしくない。しかも、2人1組が原則の中で単独行動をしている。
男性が乗ってきた車に目をやった。車種はクラウン。バックミラーが2つ。車体後方に2本のアンテナ。覆面パトカーに違いない。
この小路は無銭飲食したスーパーマーケットと、宇越聖也宅の直線上にある。移動経路を調べているのだろうと察せられた。
「マッポなら見逃す手はねぇやナ」
品行方正が目を背けたくなるような生き方をしてきた辰串にとって、警察は憎い敵でしかなかった。ここでこの男を殺せば、捜査を妨害することができるし、何より胸がスッとする。単独行動をしていることもチャンスだった。
唯一気になるのはカークリノラースが足を止めた原因、即ち殺人者ということであるが。
「職務で犯人を射殺でもしたかァ?」
と結論付けた。
古くからの飲食店が立ち並ぶ小路で、人通りもそれなりにあるが、隠身中の辰串には関係がない。
ウイスキーの角瓶を放り捨て、愛用の細身のナイフを逆手に握る。先は、殺害に時間のかかる絞殺を選んで失敗した――と、本人なりに分析した。
「やっぱソッコーが一番性に合ってるゼ」
宇越を殺害したときと同じように、標的の背後に立つ。ナイフを肩口に突き込んだ。切っ先が身体に触れる寸前、凄まじい衝撃に襲われる。乾いた音を立て、ナイフが砕け散った。
「ッてえナ!」
「おや?」
2色の困惑が重なる。
「どうやら僕に物騒な用事があるようですねえ?」
伏木に辰串の姿は見えていない。不意打ちは完璧だった。辰串に欠如していたものは、相手も堕天使の契約者ではないか、という想像の翼である。自身が姿を消すことができるように、相手も何らかの魔術を有している可能性に思い至らなかった。
「時代遅れと思っていたものに命を救われたようですねえ」
伏木がのんびりと答える。彼は「牛頭病」の魔術に常時護られていた。「あらゆる刃物に対する無敵」という、近代以前の権力者が喉から手を出して欲しがる代物であるが、現代では恩恵は薄い。
伏木は散らばったナイフの破片を摘まみ上げた。
「見覚えのある形状ですねえ。貴方の得意な得物でしたっけ。辰串、夕五さん?」
虚空に話しかける。
「やはり姿を消すことができるのですねえ。目撃証言のなさから、そう推し量っていましたが」
伏木は辰串が契約者であること、加えて魔術の質までも看破していた。
『この魔術は……』
路上で老人が半身を起こした。




