出宇多凡人(いでうだ・ぼんど)の世界
「レン! 起きてください」
蓮が目を開けると、イデアが至近距離で覗き込んでいた。
「うわ、近い近い。どうしたんだい?」
床の硬さに驚く。蓮が寝ていたのはソファではなく、板張りの床だった。
広い1室の隅に寝かされていたようで、2人の他にも数人が散在していた。
「なんだか変な部屋だな。ちょいと安っぽいし、調度がない」
起き上がろうとして、バランスを崩した。身体の異常でなく、部屋全体が揺れている。
「なんだこの家? 手抜き物件か?」
「“家”ではないみたいですわね」
イデアが円形の窓を指さした。覗き込むと、外は一面の大海原。
2人がいたのは、大型クルーザーの船内だった。
サロンタイプのクルーザーで、大きさは18mほど。数日寝泊まりできるサイズだった。
「わたくしも先刻目が覚めたのですけれど」
見れば白のワンピースにつば広帽子。普段着でなく“よそ行き”の服装だった。
一方の蓮はアロハシャツにジーンズ。あまり旅行感がないのは、服装に対する意識の差だろうか。デカラビアの姿はない。
「お家で寝ていたはずなのですけれど。奇妙に現実感がないと言うか」
「うん、現実のはずなのになんだか夢の中にいるみたいだ」
正確には「蓮のお家」なのだが、話が進まないので訂正は後回しにする。蓮はイデアの頬を軽く引っ張った。
「どう?」
「夢ではないみたいです。けど、普通ご自分の頬でやりません?」
仕返しにつねり返される。
「痛い。うん。現実だ。ってことは……」
思い当たる点は1つしかなかった。
「「アティルト界」」
声が重なった。
「やはりフォルネウスが仕掛けてきましたわね」
結論を先に告げるのがイデアの癖である。
「やれやれ、危惧した通りになったか。今回はイデアも巻き込まれちゃったな」
正確にはイデアは望んで巻き込まれにいったのであるが。
フォルネウスは再戦を仄めかす台詞を吐いていた。顛末はイデアにも伝えていたので、この事態になっても2人は溜め息を吐く余裕があった。
「で、フォルネウスが仕掛けてきたなら、魔力を搾り取られた出宇多の世界ってことになるな」
出宇多凡人の自滅とも呼べる最期を思い出す。
「わたくしも入るのは久方ぶりです」
当然と言えば当然だが、永年堕天使を使役してきたソロモン王――イデアはアティルト界の構造を蓮よりも知悉していた。
だが、今回は出宇多の精神を反映した世界である。古代の感覚で生きるイデアよりも、現代人の蓮に一日の長があった。
「出るためには、フォルネウスを斃すか、出宇多の精神の中核となる“何か”を破壊する必要がある。んだが、前者は難易度高いな」
ハルファス戦では、核を見つけるのにさんざん苦戦した。
「でも、レンが勝ったのでしょう?」
「ハルファスは狩りを愉しんでたからな。最初っから殺す気だったなら負けてた気がする」
偽らざる感想だった。きょろきょろと見まわして、肩を落とす。
「あー、読みかけだった“少年トレチア”も“狂風記”もないのかあ……」
枕元にあったはずの、石川淳の著作を思い出した。
「レン、王族のわたくしより浮世離れしておりません?」
フォルネウスのアティルト界に引き込まれたと知ってなおこの反応。イデアもさすがにあきれた。
まずは船内を見て回る。船内には釣り竿などのレジャー用品や貴重品を入れるための小型金庫、小型冷蔵庫。護身用なのかショットガンまであった。なぜかパンダのぬいぐるみなども。
「気力の時は無機質な銃でできた街だったけど……こんなアティルト界もあるのか」
考えてみれば、人間の精神は千差万別と言うより外にない。出宇多の趣味嗜好など、蓮はまるで知らなかった。
操縦席の当たりには複数の男女が談笑しているが、アティルト界――造り物の世界にいる人間にあまり関わり合う気は起きなかった。
「そも、なんで船なんだ。マリンスポーツが趣味だったとか?」
青白いモヤシ体型を思い出して首を傾げる。
しばらくは平和な航海が続いた。
「海は久方ぶりです。ガラリヤ(キンネレテ)の海以来」
警戒しつつも、イデアは昔を懐かしんでいた。
「そうか、古代イスラエル王国って海や湖が近かったな」
ぼんやりと地図を思い浮かべる。本がないので手持無沙汰な蓮だった。
「暑くなってきましたし、こんど海に行ってひと泳ぎしませんか、レン」
冗談でなされた提案を、
「いや、潮風で本が傷むからパス」
真顔で拒否する男。
「海にまで本を持って行かなくても」
「え、本以外に持っていくものあるか?」
改めて、少年が変人であることを実感した。
「レンって、“この図書館から好きな本を1冊何でも持って行っていい”って言われたら、収蔵目録を選ぶタイプですわね」
「すごいな、なんで分かったんだ?」
船が急に停止した。
「なんだか向こうが騒がしいですわよ」
他の乗客が、船長らしき男に詰め寄っている。
「た、タグネイ船長、エンジンがかからないって、どどういうことだね?」
腺病質そうな、メガネの中年男性が船長に食って掛かる。
「グレット博士落ち着いてください。すぐに救難信号を出しますから」
ベテランらしい年配の船長が宥めていた。どうやら航行トラブルが発生したらしい。
「じゃ、せっかくだから日光浴でもしてようかしら」
星条旗ビキニの金髪美女がお気楽に言っていると、隣の褐色の女性が異を唱えた。金髪美女に負けず劣らず際どい水着である。
「何言っているのジョー! この辺りは鮫がうようよいる海域じゃない!」
悲鳴を上げると、隣のにやけた男が親し気に褐色美女の肩に手を回した。
「怖がるなってフィー。サメなんてショットガンでフカヒレにしてやるからよ」
「ランのバーカ。水中のサメにショットガンが効くかよ、船に護身用の水中銃があったぜ」
別の男が会話に割り込んでくる。会話している4人の男女は、いずれも大学生ぐらいの年齢に見えた。
「このシチュエーション、どっかで……」
蓮にはなぜか既視感のある光景だが、出元が思い出せない。
「可部気力のアティルト界には誰もいなかったが、考えてみればそっちの方が異常なのかもな」
極度の人間嫌いでない限り、家族や恋人、友人、推しという形で大切な人がいる。
「そ、それで、救援はいつごろ来るのかね?」
グレット博士がせわしなく瞬きを繰り返しながら、タグネイ船長に訊ねた。船長はラックタイプの操船補助通信機器に貼り付いている。
「|ボートコントロールシステム《BCS》ってやつか」
蓮は昔に見たクルーザーのパンフレットの記憶を掘り起こす。通信機器は先程から耳障りな音を発していた。
「いえ、さっきから“エンカ”の調子が悪くってね」
「「エンカ?」」
蓮とイデアが同時に疑問を発するが、船長は2人を見向きもしない。
「俺たちは見えてないんだ。こいつら、決められた行動をとってるだけか」
と察する。
「エンカとは何だね?」
同じ質問を博士が投げかけた。
「コイツ、機嫌が悪いと変な音を出すんだ。それが調子っぱずれの演歌みたいに聞こえるから“エンカ”って呼んでるのさ。中古を安く買い叩いたからな、ははは……」
乾いた笑いに追従する者はいなかった。
「あの金髪のジョーって呼ばれた女、アメリカで売り出し中のセクシー女優によく似てるな。ちょっと胸が大きすぎるけど」
蓮が呟く。出宇多がファンなのだろうか。
「他の連中も、どっかで見たことがある顔ぶれだ。しかしこの世界……どんな願望だ?」
首をひねる。
甲板に出てみる。青かった海はいつの間にやらどず黒くなっていた。海面から突然、三角形の物体が複数突き出された。
「……ああ」
ようやく思い出す。三角形は、巨大な鮫の背びれだった。それは徐々にクルーザーに近寄ってくる。
「出宇多はとんでもないサメ映画ファンだったってことか? マニアックにもほどがあるだろ!」
この愉快なアティルト界は、ずっと書いてみたかったところです(笑)




