神無市
居須磨蓮はフォルネウスの襲撃を警戒していた。実体を持たない堕天使だが、ハルファスの時のようにアティルト界を形成すればそれが可能になる。
帰宅すると、イデアはパソコンの前に齧りついていた。イデアはほとんど外出していない。目立つ風貌ということもあるが、大気中の微細な魔力を吸収するために、あまり動けないのだという。なので情報収集を専らにしている。
「おお……わわっ……手につかない?」
もっとも、いろいろなことに気を取られてしまい、妙な動画を観ていることも多かった。手に汗握って実験動画に見入っている。
「おい、そこのスライム動画を見て大口を開けっぱなしの賢王」
「お、大口を開けてはいません、半開きですっ。不敬な」
「それで恥は半減しないぞ?」
焦って口元に手をやる。着るものに頓着がないようで、今日は蓮の中学時代の体育用ジャージを着ている。着古してヨレヨレなのだが、「それが楽でいい」という、なんとも庶民的な感覚の古代王だった。髪も梳かしただけであるが、それでも気品があるように見えるのが不思議だった。
蓮はテーブルに地図を広げた。
「これは、この辺りの地図ですか?」
道路を指でなぞりながらイデアが言う。
「ああ。フォルネウスの契約者と揉めた話はしたな? 襲撃とかされてバラけたときの用心に、イデアも神無市の地図を憶えといた方が良いと思ってさ」
分断されたときなどの備えに、イデアも最低限の地理は把握しておいた方が良いと考えた。落ち合う場所などを予め決めておけば、いざというとき選択に迷わなくて済む。
「賢明です。“小さな穴が大きな船を沈める”とありますもの」
ラビの教えの教訓を持ち出して感心する。蓮から地図記号を教わりながら、地理を頭に叩き込む。
「ちなみにこの店はアイスが絶品と評判だ」
「それは値千金の報せ。明日にでも行きましょう」
いつの間にやらグルメマップのようになっている。
不意にイデアは眉を顰めた。
「神無市と読むのですか。“神無き国”とは何とも不吉な……」
蓮などは「ムダに細かいところに気を回してるな」などと思うのだが、それは信心に縁のない人間の発想。神に拠って生きている時代の人間には、生死を分かつ大問題だった。
「エデン語って固有の文法までは分からないのな」
蓮は地図の余白に“神無”と書く。
「“神無”。これを“神無き”と解釈したんだろ? で、“市”は“人が集まって生活する場所”だから“国”」
「そうです」
素直に首肯する。
「この“無”は、“無し”の意味じゃないんだ。連体助詞で“の”の意味。つまり」
“神無市”の横に“神の国”と書いて見せる。
「イデアが送られたここは、“神の国”なんだよ」
訳知り顔で説明している蓮も、古典の授業で教師から教わるまで同じ勘違いをしていたのだが。
「つまりわたくしは神の国から」
「現代の神の国に送り届けられたわけだ。神様も気が利いてるね」
神への畏敬の念が薄い言い様の蓮。
――つまりわたくしは、神に見放されてこの地に飛ばされたわけではなかった……!
でなければ、神の名を冠し、神の庇護する地に招かれはしない。
指輪に転送を拒絶されて以来、靄のように頭にかかっていた不安が一気に消し飛んだ。
「良い名前ですねッ!」
「ゲンキンだなあ。オケラの王様のくせに」
この会話が深い意味を持つのだとイデアが知るのは、随分先のことである。
夜中。イデアは「本の棺桶」から這い出した。不思議なもので、生活していると本による圧迫感はあまり感じなくなっていた。むしろ手の届くどこにでも本があって便利にさえ思えてくる。
「レンに毒されてますわね」
1階に降りる。
「フォルネウスが動くとしたら……」
イデアはかつて彼らを使役していたこともあり、堕天使のことを蓮よりも遥かに熟知している。
例えば、堕天使のアティルト界創造には早くとも半日ほどの時間を要すること。ハルファスの襲撃が、可部気力の死亡から若干の間があったことにも、蓮は疑問を抱かなかったが理由はあったのだ。
「せっかちなフォルネウスのこと。準備ができ次第仕掛けてくるはず」
堕天使にも個別差がある。
ハルファスの本性は狩人。人間は狩りの獲物であり、闘争の対象。故に自分が殺したわけでもない可部気力の死体には興味を示さなかった。トロフィーになり得ないからだ。
対してフォルネウスの本性は捕食者。人間は食料。だから出宇多凡人の死体を持ち去った。「落ちている食い物を持って帰って何が悪い」という自然の本能に近い。
そして、捕食者は逡巡も躊躇もしない。獲物に向かって一直線である。
防衛用の魔術具を何1つ携行していない現在、襲撃を防ぐ手立てはない。つまり、蓮がフォルネウスと衝突するのは避けられない事態となった。
ハルファスは獲物以外をアティルト界から追い出した。他人に“狩り”を邪魔されたくないという考えからであろう。
「ですがフォルネウスはあの短慮な性格。細やかな設定などは面倒がってしないはず。精々、座標程度」
そこにつけ入る隙ができる。
リビングに入ると、蓮が静かに寝息を立てていた。読みかけの津原泰水著「少年トレチア」を大切そうに抱えている。
顔の傍で寝ていた黒猫バエルが、何かを感じ取ったのかむくりと起き上がった。
「バエル、状況は察しているでしょう。力を貸しなさい」
黒猫はイデアの足元をすり抜けた。
『断る。汝はカアナンの王ではにゃい』
拒絶されてしまう。これまで幾度、このやりとりを繰り返したことか。だがバエルはこの家を出ていく気配はない。
「伝来の玉座と王冠を喪ったから?」
『……そんなに大事な冠と椅子ならば、宝物庫にでも放り込んでおくにゃ』
不機嫌そうにリビングから出て行った。あまり期待せずに訊いたことであるが、やはり的外れだったようだ。
太平楽に眠っている蓮の寝顔を見下ろす。堕天使の襲撃を予期し、警戒していてなお幸せそうに熟睡していることに呆れる。群羽新洋を「部品」と判断した件といい、蓮のこの割り切りは強みであるが常軌を逸していた。
「この呑気さは一種見習うところがありますわね」
呟くと、蓮の布団に潜り込んだ。
「来るなら来なさい、サカナ野郎」
安来人
築雄伊作のアナグラム元は?
やすらいと⇒いらすとや
ちくおいさく⇒おくちくさい(お口臭い)
でした(/・ω・)/<ポリデントのCM




