カアナンの王
「たとえばデカラビアの契約条件は、“特定の星回りに生まれた人間であること”と、“右手に木星環を持つこと”です」
右手人差し指の付け根部分を指す。奇しくもソロモン王の名を冠する魔術要素である。
「俺がそれを持ってたから、デカラビアと契約できた?」
蓮は条件を満たす数少ない人間だった。自分の人差し指の付け根にある、半円上の皺、占星術で言うところの「木星の丘」を眺める。
「ちなみに、その星回りやらソロモンの輪とやらで、何か俺に特別な何かがあったりする?」
「尋常に生きてく上では、まっったく意味を為しませんわね。足の裏に在る黒子と同程度です」
「さよか」
これまでの人生でご利益を感じたことがなかったことから薄々感じていたが、断言されるとやはり落胆する。
「がっくりきたところで話を戻そう。バエルの契約条件は?」
「バエルは“カナンの王”としか契約いたしません」
曰く、「アブラハムの血族」のことであるらしい。
「そして極東の島国に、“カアナンの王”は居りません。わたくしを除いて」
ソロモン王も父ダビデ王も、系図上カアナンの一族に連なる者である。
「この時代、バエルと契約できる人間は他におりません」
「選択の余地はないってことなのか」
蓮にも、イデアの自信の根拠が見えてきた。
「バエルは強力な魔術を幾つも所有しています。契約を盾に、わたくしがその1つなりとも使えるようになれば……」
イデアの目的は、バエルの授けてくれる魔術だった。隠身、透視、弱体化、使い魔、物体移動。文献は様々なバエルの魔術の存在を告げている。そのいずれもが強力な代物だった。
「ダーディだなあ。明日の食いものにも困ってるところにつけこんで暴利で貸し付ける闇金のようだ」
「借財に譬えるのはやめなさいっ」
フェニキアに借金を作って領土の一部を失ったことが、苦い思い出になっているらしい。
「さあ、早くバエルを探しに行きましょう!」
イデアが玄関から飛び出そうとする。
「ま、待て待て! 土地勘もないのにどこ行くつもりだ」
そもそもにして、蓮が黒猫と会ったのはハルファスのアティルト界。現実世界のどこにいるかなど、見当もつかない。
イデアがドアを開けて、はたと足を止めた。
――にゃあ
玄関の前に、件の黒猫が鎮座していた。光を反射しない真黒い毛並みの猫が。
「バエル? なぜここに?」
黒猫バエルはソロモン王が現代に飛ばされた直後から、動きを捕捉していた。
蓮がソロモン王と関りがあることを知っていた。知ったうえで手助けするために姿を見せたとしたら。
――レンを助けたのは、バエルにもこちらと契約する意志があるということ――!
それがイデアの読みだった。
『久方ぶりですにゃ、我が主』
猫が流暢に喋る。アティルト界の時と違い、今回は会話するつもりがあるようだ。一切の光を吸収する黒い毛並みのせいで、そこだけ外界から切り離されたように重い。
「バエル、わたくしと契約なさい。貴方にもその意志があるはず」
相変わらず結論を先に立てる。自信を持ってイデアが提案した。
「貴方は自らが課した制約に拠り、カナンの王としか契約できない」
一歩詰め寄る。提案を断らない。確信していたからこそ前置きなく、真正面から手を差し出す。
だから、夢想だにしなかったのだ。
『驕るにゃ、亡国の王』
にべもなく拒絶されるなどとは。
『“痛手に先立つは驕り”。他ならぬ貴殿が、これを知らぬはずはあるにゃいに』
旧約聖書箴言16章18節を引用する。イデアは少なからず動揺した。
『バエルが渇望して止まぬのはカアナンの王だ。貴殿はカアナンの王ではにゃい』
「あり得ない」
イデアは叫んでいた。
「カアナンの王とは、イスラエル民族の始祖アブラハム とその係累のはず! 神によってカアナンに導かれたアブラハム。そして彼の息子イサクや孫ヤコブの系譜、即ち12部族。わたくしも父ダビデもそれに連なる者です!」
それが、人間側に伝わるカアナンの系譜である。
『血に正統を求むるにゃ? 人の王ならばそれも通じよう。だが我ら法外の者が、血筋ごときで諾々と従うと思うてか』
堕天使は究極に自己完結した存在である。血筋さえあればどのような愚者にも盲目的に従う、といった血統信仰からは最も縁遠い存在だった。
「な、なによりも! 貴方は嘗てわたくしと契約しました! それはわたくしがカアナンの王だったからのはず!」
『だが、今の貴殿はカアナンの王ではにゃい』
嘗てソロモン王を「我が王」と呼んでいた序列1位は、いまやイデアを「貴殿」と呼ぶ。
――わたくしが、国を喪ったから?
思わず言葉が途切れるイデア。そこへ蓮が合流した。
「玄関先で何を騒いでるんだ? おっと」
黒猫を発見する。
「御心配には及びません。未だ対話中です」
『にゃ、お前は……』
そこで黒猫も気付いた。
「アティルト界ではどうも。助かったよ」
『……ふん、ただの気紛れにゃ』
そっぽを向く仕草は、ただの猫と変わりない。
「何かお礼でも、と思ったんだけど」
蓮の気分としては、堕天使に借りを作ることは坐りが悪い。
『……ふむ、では食饌を戴こうかにゃ』
意外にも、黒猫バエルは提案に乗って来た。
「食饌……食事のことか? でも堕天使が?」
『馳走を用意しにゃさい』
言うと、黒猫は蓮の肩に飛び乗った。重量を感じて、蓮は怪訝な顔をする。
「あれ? 実体がある?」
アティルト界でも触れることができたことを思い出す。
「バエルは“アイン・ソフ”という極めて特異な存在なのです。要は、人間界でも実体を持つことができる」
蓮は首を捻った。
「カナン」が日本では一般的ですが、「カアナン」の方が実際の発音に近くて好みです(/・ω・)/




