第3話 魔獣の悲鳴
ここ数日、王都から村に来ていた行商人たちの姿がぱったりと消えた。
南の森で魔獣が暴れているという噂が広まっていた。
目撃されたのはシルバーウルフ──それも通常の三倍はあろうかという、群れの長と見られる巨体の個体だったという。
王都からこの村へ通じる道は、南の森を通る唯一のルート。
森を避けるには大きく東か西へと迂回するしかなく、そこまでして訪れる商人はほとんどいない。
このままでは、村の物資が尽きてしまう。
村人たちは、日に日に募る不安に顔を曇らせていた。
* * *
その日の夕暮れ——
村の南から、鋭い叫び声が空を裂いた。
「魔獣が出たぞーーっ!!」
怒声とともに、鍬や棒を手にした村人たちが土煙を上げて駆けていく。
「おいおい、いきなりすぎるっす!」
診療所から飛び出してきたのは、ルゥカだった。
狼耳を揺らし、鋭い嗅覚と聴覚を頼りに森の方向へと駆ける。
レオも、騒ぎに引き寄せられるようにその後を追った。
茂みの奥に、その姿があった。
狼のような魔獣。
だが、その毛並みは乱れ、口元から泡を吹き、目は血走り、体には黒ずんだ斑点が浮かんでいた。
喉の奥から漏れる唸り声は、怒りとも苦しみともつかない、どこか哀しげな響きを持っていた。
村人が弓を引こうとした、そのとき——
「待ってっす!!」
ルゥカが前へ躍り出て、両手を大きく広げた。
「まだ撃っちゃダメっす! その子、怒ってるんじゃないっす……」
村人たちが戸惑う中、ルゥカはまっすぐに魔獣を見つめていた。
「……痛がってる。牙の奥が……ずっとズキズキしてる気配がするっす……!」
「ルゥカ、見えるのか?」
レオが並び立ち、問う。
「見えるっていうか……感じるっす。あの子、噛み締めるたびに痛がってるっす。奥歯が……たぶん……」
レオの魔流視が起動し、魔力の“しこり”が視界に浮かぶ。
左下の奥歯、その根元に、黒く脈打つ結節がある。
(……膿んでる。完全に炎症だ。神経まで届いてる)
「ルゥカ、俺が行く。君は村の人たちを頼む」
「了解っす、兄貴!」
レオは静かに前へ進み出る。
魔獣は唸っていたが、その足元はふらつき、戦う気力さえ失われていた。
レオは指先から淡い光を放ち、《共鳴診査》を起動。
痛みの波長をなぞり、魔力の震源と感覚を共有する。
魔獣の唸りが一瞬止まり、赤く濁った目に潤みが宿った。
さらに近づいたレオは、口元へそっと手を伸ばす。
「……もう、大丈夫。怖くない」
鋭い牙をかすめるように、魔力の糸をそっと歯と歯肉の間へと滑り込ませる。
糸は根元の黒く脈打つ塊に到達し、鎌のような形に変形。
歯にこびりついた黒い膿を絡め取り、さらに根の表面を丁寧に磨く。
ルゥカは、その手つきを見つめながらぽつりと呟いた。
「……ほんと、兄貴の糸って、きれいっすね」
最後に水魔法で歯茎を洗い流す。
血が滲むが、やがて止まり、魔力の乱れも収束する。
「よく我慢したな。もう、痛くない」
魔獣はレオをじっと見つめ、静かに背を向け、森の奥へと消えていった。
張り詰めていた空気が、ふっと緩む。
「……あれ……?」
「逃げた……のか?」
呆然と見送る村人たちの中で、ひとりの老人がぽつりと漏らした。
「……坊ちゃん、今……魔獣と、話してたのか……?」
レオは何も言わず、ただ静かに微笑んだ。
* * *
その夜。
森へと去ったはずのシルバーウルフが、レオの家の前に現れた。
「……戻ってきた?」
ルゥカが耳をぴくりと動かす。
「兄貴、あの子……家族になりたがってるっす」
魔獣は戸を開けたレオの足元を通り抜け、診療所の中に入ると、静かに横たわった。
その目には、確かな意思が宿っていた。
ミアがそっと顔を出し、ぽつりと呟いた。
「……おかえり」
* * *
翌朝。陽の光が差し込む縁側。
魔獣──いや、今や“元”魔獣の白狼は、レオの足元で寝そべっていた。
その毛並みは艶やかで、どこか人懐っこい仕草が、妙に愛嬌を感じさせる。
「……このままずっと、居るつもりかな」
湯飲みを抱えたミアがつぶやく。
「たぶんね。追い出されて、居場所がなくなったんだろう」
「でも……居場所なら、ここにあるよ」
ミアは立ち上がり、白狼の頭に手を乗せる。
「……名前、つけてあげなきゃね。“あの子”じゃ変だし」
ルゥカが背後からひょこっと覗き込む。
「じゃあ『バク』とか『フサオ』とかどうっすか?」
「変っ!」
ミアは即答してから、くすっと笑った。
「うん、決めた。あなたの名前は……“シロウ”。
白くて、ふわふわで、やさしそうだから……ぴったり」
シロウは首をかしげたあと、ミアの膝に顔をすり寄せた。
「わ、くすぐったい!」
「気に入ったっすね、それ」
レオも笑いながら少しだけ目を細める。
「……それにしても、不思議なやつだよな。何かが違う」
「うん。でも、いい子だよ」
ミアは額にそっとキスを落とした。
その瞬間——
シロウの瞳の奥が、ふっと淡く蒼く揺れた。
まるで、遠い記憶が呼び起こされかけたかのように。
だが、次の瞬間には、
「わふっ!」
と大きなあくびをし、尻尾をぶんぶん振ってルゥカの脚にじゃれついた。
「気のせい……か?」
レオは、ほんの一瞬だけ、そこに“神”に似た気配を感じた……気がした。
「こらこら、靴下かじるなっすー!!」
「だ、だめだよ! その子、まだ治ったばっかなんだから!」
「……全然おとなしくないじゃん……!」
「……でも、かわいいでしょ」
そう言って微笑むミアの声に、レオはふっと目を細めた。
神話によれば——神は、名を与えられることで世界に“居場所”を得る。
そしてその名は、忘れかけた本質を呼び覚ます“鍵”となる。
レオはふとそんな言葉を思い出しかけたが——
「わふっ!」
シロウが突然顔に覆いかぶさってきて、その思考はどこかへ飛んでいった。
──第五行政圏、フィンベル村南口の山道。
巡察官セラ=アルヴァ=グレンは、馬の手綱を引きながら緩やかな坂を登っていた。
王都を発って三日。
道中の村落をいくつか経由しながら、森と草原を越え、ようやく目的地の気配が届く。
遠くに広がるのは、素朴な木造の家々と、小さな広場、そして──中央の高台にぽつんと建つ、一軒の診療所。
「……あれが、アーデル家の診療所……」
書板に記されていた建物の輪郭と一致している。
過去に王都で認可を受けていた家系の名が残るが、今は無資格の治癒使いによって引き継がれているはずだ。
セラは馬を止め、鞍袋から小さな魔力計測器を取り出す。
細長い円筒状の装置を空へ向けてかざすと、微かに淡い反応が浮かんだ。
「……残留魔力……。術式の跡が薄く拡散している。しかも、これは……」
目を細める。
感知柱で捉えられた波長と近似する微細な“再構築痕”。
即ち、魔力の流れを“織り直した”痕跡。
「やはり……“精密干渉”系。しかも、術式の余波が深層まで届いていた」
通常の治癒魔法では生じない構造。
術者の感覚が、常人を超えている証拠。
「……想像以上かもしれないわね、レオ=アーデル」
セラは一度、目を閉じて風の音に耳を澄ます。
春の風。やわらかい草の香り。
だがその奥に、ほんのわずかに混じる“澱み”の気配──魔力の乱れとは違う、何かの「余波」。
(誰かが、この土地の魔力を……“再調律”した?)
村は静かだった。
だが“静けさ”は、時に異物の痕跡を覆い隠す。
「歯術が、再び地上に現れる……そんな兆しだとしたら──」
セラは馬の手綱を引き直し、村の入り口へと歩き出す。
この先で待つのは、おそらく“境界を越えかけた者”。
(私が、見極めなければならない)
巡察官として。
そして、かつて“それを恐れた”者の一人として。
風が、彼女の外套を静かに揺らしていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
「歯科」と「異世界」、一見ミスマッチなようでいて、
実はかなり深く魔法とつながっている――そんな世界を描いていけたらと思っています。
本作では、ただの回復魔法では治せない“痛み”と、
それを癒す力を持った少年レオの成長を描いていきます。
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