第2話 折られた牙
辺境の町、フィンベル。
診療所の前を、春の終わりを告げる風が静かに吹き抜けていく。
レオ=アーデルは、今日も一日の診療を終え、器具の手入れに没頭していた。
奥ではミアが晩ごはんの支度をしている。穏やかで、満ち足りた時間。
──だが、その静けさは、不意に破られた。
「兄さま、誰かが……!」
玄関の戸を開け放って飛び込んできたミアの声に、レオはすぐさま立ち上がる。
診療所の門の前。
そこに倒れていたのは──少女。いや、小柄な少女の姿をした獣人だった。
白銀の毛並み。狼のような耳と尻尾。
だが、その毛並みは埃と血にまみれ、口元には痛ましい傷。
左の牙が、根本近くから折れていた。
「ひどい……魔力が漏れてる……!」
レオは魔流視を展開。
彼女の折れた牙から、まるで泉のように魔力が流れ出している。
全身に逆流するように回る魔力──これは“歯障”などではない。
“魔力漏出”。獣人にとって、それは死に至る病だった。
「間に合ってくれ……!」
少女を抱き上げ、診療台へ運ぶ。
折れた牙の根元から、絶えず魔力が滲み出している。
神経は完全に断裂し、断面は鋭利に尖り、肉を裂きかねない状態だ。
レオは迷わなかった。
「《露髄被覆》──流れを止める」
魔力の繊維が指先から伸び、牙の断面を包み込む。
出血のように噴き出していた魔力が、徐々に鎮まっていく。
「《歯髄沈静・獣牙式》──魔力よ、漏出を収めよ」
神経の表層に沿って繊維を重ね、穏やかに包み込んでいく。
少女の呼吸が、かすかに整いはじめた。
「《牙冠形成・硬化》──形を戻す」
レオの魔力繊維が、失われた牙の形を織り上げる。
何層にも重ねられたそれはやがて固まり、牙のような質感を取り戻す。
色味は若干白く、隣の牙と比べれば長さも三分の二ほど──だが、確かにそこに“牙”は戻っていた。
少女の体が、ぴくりと震えた。
呼吸が浅くなるも、魔力漏出は完全に止まっていた。
「よかった……」
ミアが胸をなで下ろし、濡れタオルで少女の額を拭った。
「ごはん、食べられるかな……?」
「難しいかもしれない。獣人にとって、牙は誇りだから。
折れたことで、自分を責めてる可能性もある」
•
数時間後、少女は静かに目を覚ました。
だが、まるで言葉を忘れたかのように、目を伏せ、耳をたたみ、小さく震えていた。
「……喋らないね。名前も、言わないのかな?」
「でも──」
レオはそっと、少女の口元に手を伸ばす。
「牙は、もう守った。少し短いけど……魔力の流れは繋がってる。もう、死なないよ」
その言葉に、少女の瞳がかすかに揺れた。
「……本当っすか……?」
か細く、震えるような声。
けれど、その声は──確かに、心の奥から届いてきた。
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その夜。少女は診療所の片隅で、膝を抱えて眠っていた。
ミアがそっと毛布をかけながら呟く。
「この子、帰るところ……ないのかな」
「……あの牙の折れ方。誰かにやられたのかもしれない。
きっと……逃げてきたんだ」
レオは静かに頷いた。
「身体が癒えても、心まで癒えるとは限らない。
しばらく、ここで休ませてあげよう」
•
翌朝。
少女はまだ名を名乗らなかったが、朝食の匂いに誘われ、少しだけお粥を口にした。
「……食べられたっす……」
レオがそっと笑う。
「それは、“生きようとしてる”ってことだ」
その言葉に、少女はほんの少しだけ──口元を緩めた。
そこには、短くなった牙が光っていた。
不完全でも、その中には確かに“生きる意志”が宿っていた。
•
「……あの。自分、ルゥカって言うっす。……名前、聞いてくれて、ありがとっす」
照れくさそうに名乗ったその声には、昨日までの怯えた色はもうなかった。
•
診療所に新しい朝が訪れた。
ルゥカは毛布を抱えて縁側に座り、空を見上げていた。
その目にはまだ不安と疲れの影が残っているが、それでも昨夜よりは、ずっとましだ。
「ルゥカ。調子はどう?」
声をかけたレオに、ルゥカは少しだけ耳をぴくりと動かして振り返る。
「……まあまあっす。昨日よりは……マシっすかね。ちょっと、食べられたっすから」
言葉こそ軽いが、その声音には、どこか気遣いがにじんでいた。
レオは彼女の隣に腰を下ろす。
しばしの沈黙のあと、静かに問いかけた。
「ルゥカ。帰る場所は……ある?」
ルゥカは答えなかった。
だが、その耳が少し下がり、視線が足元に落ちる。
「……ないっす」
ぽつりと漏れた言葉は、風にかき消されそうなほど小さかった。
「牙、折られてから……もう、部族に戻れないっす。
折れたのは、不始末の証っすから……」
レオは眉をひそめた。
「それは……君のせいじゃない」
「でも、決まりなんす。
“牙を折られた者は、群れを守れなかった証拠”って……そう教えられてきたっす」
どこか悟ったような口ぶりだった。
年齢よりもずっと大人びた言い方。きっと、逃げるまでに長い時間があったのだろう。
「だから、自分……もう、行くところないっす」
そう言ってルゥカは立ち上がろうとした。
だが、その腕をそっと引いたのは──ミアだった。
いつの間にか、ふたりのそばに来ていたミアは、小さな声で言った。
「帰る場所がないなら、ここにいればいいよ」
ルゥカが、驚いたように瞬きをした。
「ここ?」
「うん。だって、命を助けてもらったし、これから治す人も、きっといるでしょ?
ルゥカちゃんは、きっと誰かの“助けられる側”じゃなくて、“助ける側”になれると思うな」
ルゥカは、しばらくぽかんとミアを見つめていたが、
やがて、ふいに目元をぬぐいながら、ぽそっと答えた。
「……自分、こう見えて体力と足腰には自信あるっす。あと、汚れ仕事もわりと得意っす」
レオは少しだけ笑って、それから真面目な顔で言った。
「じゃあ、ルゥカ。ここで暮らさないか?
診療所の手伝いをしてもらえたら、助かるよ。……正式に“居候兼助手”として、迎えたい」
ルゥカの目が丸くなった。
「え、ええっ!? いいんすか!? そんな……お、お金も払えないっすし……!」
「診療所はあんまり儲かってないけど、誰かの役に立てるならそれで十分だよ。
それに──ミアが言った通り、君には“助ける力”があると思う」
「うう……そっか……それじゃ……」
ルゥカはしばらく黙っていたが、最後にぐっと拳を握って宣言した。
「自分、今日から全力で役に立つっす!掃除でも診療補助でも、なんでもやるっすから、よろしくっす!!」
その声は、風の中に、元気よく響いていった。
•
こうして、診療所には新しい仲間が加わった。
ミアが布団を並べる手伝いをしながら言った。
「これで、ちょっとだけ……にぎやかになるね」
レオは静かに頷いた。
「うん。でも、それも悪くない」
歯を通して繋がった命が、今、新たな日常を築き始めていた。
──ルゥカが診療所に運び込まれる、わずか二日ほど前。
王都、神殿区画・主聖堂。
大理石の床に、ステンドグラス越しの光が淡く揺れていた。
空気は凍てついたように澄みわたり、神官たちの祈りの声だけが静かに響いている。
その奥、銀の扉を抜けた先にある“内示の間”──
選任巡察官のみが立ち入ることを許された、教会中枢の一角。
「……巡察官、セラ=アルヴァ=グレン。上層より緊急通達。
魔力感知柱“第七十二基”より、異常信号を検出」
低く澄んだ声が、厳かに室内を満たす。
通達を読み上げるのは、上層会議を司る三名の《記録審問官》のひとり。
顔は仮面で覆われており、表情も感情も一切読み取れない。
「異常が検出されたのは、王都南部・第五行政圏、フィンベル村周辺。
発生時刻は、昨夜の“辰の刻”。
観測された魔力波長は、“歯術治癒”術式に登録されたものと一致」
セラはまっすぐに立ち、手元の書板に視線を落とす。
「……魔流の詳細は?」
「照合中だが、基礎干渉術ではない。
検出されたのは、神経直結型・内部導線再編術──歯術体系に属する高等構成。
登録波長との一致率は82.6%。判定区分は“高リスク”」
静かに息を吸い、セラは問う。
「発動者の特定は?」
「現時点では不明。だが、近隣のフィンベル村にて、未登録の治癒魔術使用者が存在する記録あり。
仮登録生候補との照合も進行中」
セラのまなざしがわずかに鋭くなる。
審問官のひとりが重々しく続けた。
「歯術は、神の領域への越境。癒しにして、同時に呪いの原初でもある。
汝に命ずる──対象との接触および記録を行い、必要に応じて監視、または収容。
最終判断は、汝に一任される」
セラは一度、深く頭を垂れた。
「……承知しました。
対象は未確定、可能性に過ぎません。──それでも、見過ごすことはできません」
彼女はゆっくりと身を翻し、重々しい扉の向こうへと歩を進める。
心の奥で、言葉にならない違和感が灯っていた。
彼女は知っている。
かつて“人を救う力”を持ち、それゆえに追われ、壊れた者を。
──癒しは、光にもなり、闇にもなる。
その境界に立つ者に、何を差し出せるのか。
試されているのは、術者だけではない。見つめる者もまた──だ。
セラ=アルヴァ=グレンは、巡察官としての装束を身にまとい、
王都の石畳を静かに歩き出す。
目的地は一つ。フィンベル村。
そしてそこで、“名もなき異端”が静かに目覚めようとしている。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
「歯科」と「異世界」、一見ミスマッチなようでいて、
実はかなり深く魔法とつながっている――そんな世界を描いていけたらと思っています。
本作では、ただの回復魔法では治せない“痛み”と、
それを癒す力を持った少年レオの成長を描いていきます。
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