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歯術師〜はじゅつし〜  作者: 白井刃人(しろい・はと)
第1章:歯の痛みと魔の兆し
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第2話 折られた牙

辺境の町、フィンベル。

診療所の前を、春の終わりを告げる風が静かに吹き抜けていく。

レオ=アーデルは、今日も一日の診療を終え、器具の手入れに没頭していた。

奥ではミアが晩ごはんの支度をしている。穏やかで、満ち足りた時間。

──だが、その静けさは、不意に破られた。

「兄さま、誰かが……!」

玄関の戸を開け放って飛び込んできたミアの声に、レオはすぐさま立ち上がる。

診療所の門の前。

そこに倒れていたのは──少女。いや、小柄な少女の姿をした獣人だった。

白銀の毛並み。狼のような耳と尻尾。

だが、その毛並みは埃と血にまみれ、口元には痛ましい傷。

左の牙が、根本近くから折れていた。

「ひどい……魔力が漏れてる……!」

レオは魔流視を展開。

彼女の折れた牙から、まるで泉のように魔力が流れ出している。

全身に逆流するように回る魔力──これは“歯障”などではない。

“魔力漏出”。獣人にとって、それは死に至る病だった。

「間に合ってくれ……!」

少女を抱き上げ、診療台へ運ぶ。

折れた牙の根元から、絶えず魔力が滲み出している。

神経は完全に断裂し、断面は鋭利に尖り、肉を裂きかねない状態だ。

レオは迷わなかった。

「《露髄被覆》──流れを止める」

魔力の繊維が指先から伸び、牙の断面を包み込む。

出血のように噴き出していた魔力が、徐々に鎮まっていく。

「《歯髄沈静・獣牙式》──魔力よ、漏出を収めよ」

神経の表層に沿って繊維を重ね、穏やかに包み込んでいく。

少女の呼吸が、かすかに整いはじめた。

「《牙冠形成・硬化》──形を戻す」

レオの魔力繊維が、失われた牙の形を織り上げる。

何層にも重ねられたそれはやがて固まり、牙のような質感を取り戻す。

色味は若干白く、隣の牙と比べれば長さも三分の二ほど──だが、確かにそこに“牙”は戻っていた。

少女の体が、ぴくりと震えた。

呼吸が浅くなるも、魔力漏出は完全に止まっていた。

「よかった……」

ミアが胸をなで下ろし、濡れタオルで少女の額を拭った。

「ごはん、食べられるかな……?」

「難しいかもしれない。獣人にとって、牙は誇りだから。

折れたことで、自分を責めてる可能性もある」

数時間後、少女は静かに目を覚ました。

だが、まるで言葉を忘れたかのように、目を伏せ、耳をたたみ、小さく震えていた。

「……喋らないね。名前も、言わないのかな?」

「でも──」

レオはそっと、少女の口元に手を伸ばす。

「牙は、もう守った。少し短いけど……魔力の流れは繋がってる。もう、死なないよ」

その言葉に、少女の瞳がかすかに揺れた。

「……本当っすか……?」

か細く、震えるような声。

けれど、その声は──確かに、心の奥から届いてきた。

その夜。少女は診療所の片隅で、膝を抱えて眠っていた。

ミアがそっと毛布をかけながら呟く。

「この子、帰るところ……ないのかな」

「……あの牙の折れ方。誰かにやられたのかもしれない。

きっと……逃げてきたんだ」

レオは静かに頷いた。

「身体が癒えても、心まで癒えるとは限らない。

しばらく、ここで休ませてあげよう」

翌朝。

少女はまだ名を名乗らなかったが、朝食の匂いに誘われ、少しだけお粥を口にした。

「……食べられたっす……」

レオがそっと笑う。

「それは、“生きようとしてる”ってことだ」

その言葉に、少女はほんの少しだけ──口元を緩めた。

そこには、短くなった牙が光っていた。

不完全でも、その中には確かに“生きる意志”が宿っていた。

「……あの。自分、ルゥカって言うっす。……名前、聞いてくれて、ありがとっす」

照れくさそうに名乗ったその声には、昨日までの怯えた色はもうなかった。

診療所に新しい朝が訪れた。

ルゥカは毛布を抱えて縁側に座り、空を見上げていた。

その目にはまだ不安と疲れの影が残っているが、それでも昨夜よりは、ずっとましだ。

「ルゥカ。調子はどう?」

声をかけたレオに、ルゥカは少しだけ耳をぴくりと動かして振り返る。

「……まあまあっす。昨日よりは……マシっすかね。ちょっと、食べられたっすから」

言葉こそ軽いが、その声音には、どこか気遣いがにじんでいた。

レオは彼女の隣に腰を下ろす。

しばしの沈黙のあと、静かに問いかけた。

「ルゥカ。帰る場所は……ある?」

ルゥカは答えなかった。

だが、その耳が少し下がり、視線が足元に落ちる。

「……ないっす」

ぽつりと漏れた言葉は、風にかき消されそうなほど小さかった。

「牙、折られてから……もう、部族に戻れないっす。

折れたのは、不始末の証っすから……」

レオは眉をひそめた。

「それは……君のせいじゃない」

「でも、決まりなんす。

“牙を折られた者は、群れを守れなかった証拠”って……そう教えられてきたっす」

どこか悟ったような口ぶりだった。

年齢よりもずっと大人びた言い方。きっと、逃げるまでに長い時間があったのだろう。

「だから、自分……もう、行くところないっす」

そう言ってルゥカは立ち上がろうとした。

だが、その腕をそっと引いたのは──ミアだった。

いつの間にか、ふたりのそばに来ていたミアは、小さな声で言った。

「帰る場所がないなら、ここにいればいいよ」

ルゥカが、驚いたように瞬きをした。

「ここ?」

「うん。だって、命を助けてもらったし、これから治す人も、きっといるでしょ?

ルゥカちゃんは、きっと誰かの“助けられる側”じゃなくて、“助ける側”になれると思うな」

ルゥカは、しばらくぽかんとミアを見つめていたが、

やがて、ふいに目元をぬぐいながら、ぽそっと答えた。

「……自分、こう見えて体力と足腰には自信あるっす。あと、汚れ仕事もわりと得意っす」

レオは少しだけ笑って、それから真面目な顔で言った。

「じゃあ、ルゥカ。ここで暮らさないか?

診療所の手伝いをしてもらえたら、助かるよ。……正式に“居候兼助手”として、迎えたい」

ルゥカの目が丸くなった。

「え、ええっ!? いいんすか!? そんな……お、お金も払えないっすし……!」

「診療所はあんまり儲かってないけど、誰かの役に立てるならそれで十分だよ。

それに──ミアが言った通り、君には“助ける力”があると思う」

「うう……そっか……それじゃ……」

ルゥカはしばらく黙っていたが、最後にぐっと拳を握って宣言した。

「自分、今日から全力で役に立つっす!掃除でも診療補助でも、なんでもやるっすから、よろしくっす!!」

その声は、風の中に、元気よく響いていった。

こうして、診療所には新しい仲間が加わった。

ミアが布団を並べる手伝いをしながら言った。

「これで、ちょっとだけ……にぎやかになるね」

レオは静かに頷いた。

「うん。でも、それも悪くない」

歯を通して繋がった命が、今、新たな日常を築き始めていた。


──ルゥカが診療所に運び込まれる、わずか二日ほど前。

王都、神殿区画・主聖堂。

大理石の床に、ステンドグラス越しの光が淡く揺れていた。

空気は凍てついたように澄みわたり、神官たちの祈りの声だけが静かに響いている。

その奥、銀の扉を抜けた先にある“内示の間”──

選任巡察官のみが立ち入ることを許された、教会中枢の一角。

「……巡察官、セラ=アルヴァ=グレン。上層より緊急通達。

魔力感知柱“第七十二基”より、異常信号を検出」

低く澄んだ声が、厳かに室内を満たす。

通達を読み上げるのは、上層会議を司る三名の《記録審問官》のひとり。

顔は仮面で覆われており、表情も感情も一切読み取れない。

「異常が検出されたのは、王都南部・第五行政圏、フィンベル村周辺。

発生時刻は、昨夜の“辰の刻”。

観測された魔力波長は、“歯術治癒”術式に登録されたものと一致」

セラはまっすぐに立ち、手元の書板に視線を落とす。

「……魔流の詳細は?」

「照合中だが、基礎干渉術ではない。

検出されたのは、神経直結型・内部導線再編術──歯術体系に属する高等構成。

登録波長との一致率は82.6%。判定区分は“高リスク”」

静かに息を吸い、セラは問う。

「発動者の特定は?」

「現時点では不明。だが、近隣のフィンベル村にて、未登録の治癒魔術使用者が存在する記録あり。

仮登録生候補との照合も進行中」

セラのまなざしがわずかに鋭くなる。

審問官のひとりが重々しく続けた。

「歯術は、神の領域への越境。癒しにして、同時に呪いの原初でもある。

汝に命ずる──対象との接触および記録を行い、必要に応じて監視、または収容。

最終判断は、汝に一任される」

セラは一度、深く頭を垂れた。

「……承知しました。

対象は未確定、可能性に過ぎません。──それでも、見過ごすことはできません」

彼女はゆっくりと身を翻し、重々しい扉の向こうへと歩を進める。

心の奥で、言葉にならない違和感が灯っていた。

彼女は知っている。

かつて“人を救う力”を持ち、それゆえに追われ、壊れた者を。

──癒しは、光にもなり、闇にもなる。

その境界に立つ者に、何を差し出せるのか。

試されているのは、術者だけではない。見つめる者もまた──だ。

セラ=アルヴァ=グレンは、巡察官としての装束を身にまとい、

王都の石畳を静かに歩き出す。

目的地は一つ。フィンベル村。

そしてそこで、“名もなき異端”が静かに目覚めようとしている。



ここまで読んでくださり、ありがとうございました!

「歯科」と「異世界」、一見ミスマッチなようでいて、

実はかなり深く魔法とつながっている――そんな世界を描いていけたらと思っています。


本作では、ただの回復魔法では治せない“痛み”と、

それを癒す力を持った少年レオの成長を描いていきます。


もし気に入っていただけたら、ぜひブックマーク・評価・感想など頂けると励みになります!

次回もどうぞよろしくお願いします!

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