9.お嬢さんたちの箱庭
「今ならそれを途中までは理解できるのだけれど、中から先はわからなくなるわ。だけど、ただただあなたが羨ましかったあの頃の私に比べたら、進歩をしていると言えるのかしら」
声に含まれるものに、メアリーアンは手を止めた。スプーンを中途半端な宙に浮かせ、アイリスの顔を見つめてしまう。
そんな様子に彼女は、力を抜くように笑い、
「私は誰かに必要とされたかったの。あの頃はそればかりを考えていたのよ」
揺らぎのないグレイの瞳。あの頃。どの頃もアイリスは、凛としていたように思う。
できないことには、努力を重ねる。一人繰り返す姿を、幾度も見ていた。
正しいことを声高に主張するのではなく、自分の中に持ち続ける。
失敗に足掻く様も憶えているのに、愚痴も怒りも知っているのに、尚も毅然とした印象が最も強いのは、そのためだったのだと今になって目が覚める気持ちだった。
アイリスは、曲がらない人間だったのだ。誰かに勝つためではなくて、自分のために。常に自分を騙すことなく、まっさらでいる。
通った道であるからこそ、悩む誰かに実りある助言ができたのだ。
助けられていた。いつも自分よりも前にあった存在に。
例えば、バカな真似の出所の感情を自分にも説明しきれないとき、噛み砕いてくれたのは、アイリスではなかったか。
あるいはただ単に宿題の数式が解けずにいた時に、導いてくれたこともあった。
「私はあなたを必要だと思っていたわ、ずっと。だってあの場所で私を助けてくれたのは、いつもあなただった、と思っていたと思うのよ」
「ばかね、メアリーアン。今そんな目をして焦らないのよ。これは過去のお話なの」
罰掃除の手伝いも、感想文の書き方も、譜面台の修理も、絵画の手直しも。
考えてみたならば、相当の確率で頼っていたものだと思う。今になってメアリーアンは、居所のない気持ちになった。
「もしかして、頼り過ぎていたということも……あるわよね。やり過ぎだったんじゃないかしら、私」
「ばかねぇ、繰り返させていただきますけど。同じくらい頼っていたに決まっているじゃない、友達なんだから。あなたたちには感謝しているわ。私を育ててくださって」
「こんなに立派に、ね」
「お互いに、よくまぁあんな子どもがここまで大きくなったものね。いろいろなことがあったけれど、愉しい学校生活だったと思わない?」
「ほんとう。いろいろなことがあったわね」
「同意するのはそこかしら」
「愉しかったわ」
「でしょう」
そして今も、不思議なほど愉しい。卒業以来一度も顔を合わせていなかったためか、アイリスと向かい合い話していると、あの頃と何も変わったことなどないように思うのだ。
確かに時は過ぎ、互いに別々の場所でそれぞれの生活を送ってきたことは理解していても、簡単に飛び越えて返っている。
休暇明けに楽しい報告を交わし合う、せいぜいその程度の空白。
けれど実際は、楽しいことばかりではなかった――
「次は中国のお茶をいかが?」
メアリーアンははっとして顔を上げた。光の中からアイリスが笑いかけている。
「すてき。飲んだことないの、私」
「そういう人のために淹れるのはやりがいがあって好きよ。待っていて。エリー、準備はできているかしら。仕上げは私がこの手でするわよ」
やはり変わらず、動きにキレがいい。姿が隣の部屋へと消えていくのを見届けて、肩の力を抜き座り直す。
思い出さずにいた分だけ、過去は強い力で驚かすようだ。
とにかく――とメアリーアンは自分に言った――とにかくも、今はあの時から何年もが過ぎているのだから。
お嬢さんたちの箱庭で生活をしている間に、取り巻く世界ではいろいろなことが起きていた。訪れる休暇に生徒たちはそれぞれに散り、休みの終了と共にそれぞれの出来事を持ち帰る。
思えば渦の中央のよう。侵犯されざる恒久の安泰の地。もちろんそこにも事象はあれど、この世の縮図には成り得ない。
やわらかな光が包み込み、お嬢さんたちを穢れの風から守っている。あるいは必要な多少の悪も、入り込めない域なのだ。
取るべき許可が複雑な、正規の休暇以外に学校を離れること。それは圧倒的に、慶事よりも凶事を意味していた。
ぼんやりと、薄布の向こうのように、寮の食堂の朝が浮かぶ。一面の窓からは光が容赦なく注ぎ、起きたばかりの目にはつらい。
あの頃は金髪だったモリ―が、入り口の扉を押さえたその手と、ひそめられた声。
『おはよう、メアリーアン。聞いた? アイリスのこと』
『アイリス? どうしたの?』
見回すけれど、姿はない。成績はクリアしたけれど、早朝講義に出ているのかしら。
『昨日の夜、点呼の後迎えが来たのよ。ご両親が事故に合われたとかで』
事故?
『それは、……本当なの? モリー』
ではなかったならどれほど良いか、と、モリ―の表情がそう言った。伏せられたブルーの瞳は、結末を知る悲しい色を覗かせている。
私たちは、途方にくれたのだ。朝食どころではもちろんなく、賑わうテーブルから離れた遠い隅で、祈るよりはすがる様な心地だった。
神様、お守りください。そう祈ることは、あなたに召される幸福と反対の事実を望むこの祈りは、悪しきものなのでしょうか。
天の幸福を疑うわけではないけれど、もう会えないという眼前の変化が、私たちには耐え難い悲しみなのです。
事実は御心のままに。
外出の時と同じように、アイリスは深夜に寮に戻ってきた。
目を開くと重い光の中に、本に指を挟んだポーリィの背中を見る。
『目が開くなら起きたら? 付き合いなさいよ、メアリーアン』
そして私たちは三人で、薄明かりの食堂でお茶を飲んだのだ。ボギーが飛び回ると恐れられていた夜中の食堂は、実際何も居はしなかった。
そんな一つの、幻想の目覚めを知る。低く、アイリスが語る顛末をとても静かに聞きながら。