夢だったら良かったのに
俺の一日の始まりは目障りな目覚ましの音から始まる。
石のように重い瞼を擦り、俺は目覚ましを止めた。
時刻は朝の四時半、今日もまた辛い一週間が始まるのかと思うと吐きそうになる。
「……ああ、仕事に行きたくない」
一日のエネルギーを蓄えるためにリビングに向かうと、昨夜消した筈のテレビが付けっぱなしだった。
昨日、確か疲れながらもテレビは消した筈なんだけどな……気づかない内に付けたのか?
今朝もまたどうでも良いニュースが報道されているのかと思った俺はテレビの電源を消そうとした。
だが、俺はあるニュースに目を惹かれた。
「危険生物が研究施設から脱走した?」
突然の非日常が脳内に流れ込んできたことで、脳内の処理が追いつかなかった。
アナウンサーの深刻そうな表情から段々と事の重大さが理解できた。
その生物は人の感情を読み取ることが可能で、対象の人物の抱える願いを叶えることが出来るらしい。
悪意ある人間に捕まってしまえば、大変なことになると、どのテレビ局も国民に警鐘を鳴らしていた。
馬鹿な話だが、願いを叶えることができる生物がいると分かれば、性善説なんて物は簡単に消えさる。
だが俺は現実主義者だ。
そんな簡単に獲物はやって来ないことは理解していた。
────そう、数分前までは確かにそう思っていた。
「危険生物だなんて人聞きが悪いっびゅね」
聞き覚えのない声に振り向くと、後ろにはまるで日曜日朝の女児番組から抜け出してきたようなマスコットキャラクターが二本足で立っていた。
人は理解し難い現象が自分の前で起きると、フリーズするものだと聞いたことがあったが、まさか自分自身がそうなるとは思わなかった。
「ね、猫がしゃ、喋ってる……!」
「びゅっびゅ! 期待通りの反応ありがとうびゅ。お前は何なんだって顔してるから説明してるあげるびゅね」
「いやテレビで見たから大丈夫」
「良いから聞くびゅ!」
男なら聞き馴染みあるような音から生まれた生物はテレビはまるで嘘ばかりだと言わんばかりに自分語りを始めた。
「つまりお前は……何でも叶える訳じゃなくて人間の三大欲求を叶えられる淫獣って訳か」
「まあ、人間の言葉で表すならそうびゅね。早く願い事を言わないと殺すびゅよ」
「じゃあ、俺を女にしてくれないか?」
────淫獣が言葉を話す瞬間、俺は自分の欲望を約一秒で叩き出す。
毎日毎日、やりたくもない仕事をして汚い面をした上司にパワハラされて、帰りは人でぎゅうぎゅう詰めになってる奴隷列車に乗る。
こんな辛い思いをするぐらいなら、グラマラスボディの女になって男にチヤホヤされる毎日を送りたいとずっと思っていた。
「いいびゅけど、本当に後悔しないびゅか?」
「ああ、後悔なんかない。元より心配してくれる人間なんかいないから」
俺が消えたところで心配してくれる人間なんかいない。
親も俺が消えれば清々するだろう。
俺の人生は生まれた時から失敗の連続だった。
同年代の子と同じようなことが出来ない俺はきっと親からしたらストレスの塊だったに違いない。
「……わかったびゅ。何か言い忘れたことがあったような気がするびゅけど、まあいいびゅっね」
淫獣は可愛らしい体を使って一生懸命ペタペタと歩きながら、俺の肩に登って呪文を唱え始めた。
そして、同時に俺の意識は闇へと沈んでいった。
「あ、思い出したびゅ。性別を変えるってことは男のときの自分の記憶は全部消えるってことだびゅ。……聞こえないだろうからまあいいびゅ」
─────
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私の一日は耳障りな目覚ましの音から始まる。
朝六時、私は適当なテレビ番組を見ながら友達のインスタの投稿にいいねを押しまくる。
毎日毎日つまらない日々だけど、会社にいる人達は皆優しいし、仕事はやりやすいから私は環境に恵まれているなと思う。
SNSを巡回していると、異常な程に沢山の人に見られているアカウントを見つけた。
そのアカウントの持ち主は恐らくSNSに慣れていないのか、誤字脱字が多かった。
ツイートには一週間前に息子が行方不明になり、連絡が取れないと書かれていた。
息子は一般企業のサラリーマンで不器用ながらも、優しい性格の人間だったらしい。
アカウントに掲載されていた写真に写っていた男性の顔に見覚えがあるような気がしたけど……多分気のせいだ。
「可哀想だし、リツイートでもしとくべきね」
自宅の扉を閉めた後、見覚えのない物が落ちた音がした。
拾おうとしたけど、会社に遅刻するから気にしないことにした。
まぁ、もうどうでも良いことだから。