疫病神
江戸は神田の長屋に大工の千吉という若者が住んでいました。
千吉は大工と言ってもまだ駆け出しで、親方について修行をしている身でした。しかし、この千吉は大層、不器用な男で2年経ってもカンナ削り一つものになりませんでした。
毎日のように親方から「このぶきっちょ。辞めちまえ」などと怒られていました。それでも千吉は我慢しながら、他の皆が帰った後も一人でカンナ削りの練習を、夜遅くまでしたものでした。
こんな千吉だからお給金も他の人より安かったのです。食べていくのがやっとでしたし、遊ぶお金なんかありませんでした。そんな千吉を誰もかまってはくれません。千吉は独りぼっちでした。そして毎月、お給金を貰う直前になると米びつは空になり、食べるのを我慢することもありました。
そんなある日。千吉が仕事を終えて、とぼとぼと家へ向かって歩いていました。今日も散々、親方に怒られ、遅くまで仕事をして、何とも暗い気持ちでした。
長屋に帰ってみると、一人のみすぼらしいおじいさんがいました。
千吉は「これは失礼。家を間違えたかな」と言って出ようとします。
しかしおじいさんは「いやいや、ここはお前さんの家だよ」 と言うではありませんか。見回してみると確かに千吉の家です。
「あんた、誰だい?」
千吉はびっくりして尋ねます。人の家に勝手に上がり込んで図々しいおじいさんだと思いました。
「わしか? わしは疫病神じゃよ」
「疫病神? あのー、人を不幸にするっていう……」
千吉はびっくりして尋ね返します。
「さよう。嫌われ者の神様じゃ」
「なんでうちにあんたがいるんだ?」
「お前さんが毎日、暗い顔をしてちっとも楽しそうじゃないんでな。わしはお前さんに取り憑いたってわけよ。お前さんが暗い気持ちになって、嘆き悲しむほどわしは元気になるんじゃ。見てみぃ。この肌の色艶」
疫病神は笑いながら顔を撫でました。
「ふざんけんじゃねぇやい。お前みたいなクソジジイのヘンテコ神様に取り憑かれてたまるかい。さっさと出て行きやがれ!」
千吉もさすがは江戸っ子です。派手に啖呵を切りました。しかし疫病神は慌てた様子もありません。
「馬鹿言っちゃいかんよ。わしゃぁ、お前さんに取り憑いとるんじゃぞ。そう簡単に出ていかれるか」
「そんなら、たたき出してやらぁ!」
千吉が疫病神に殴り掛かりました。しかし拳は疫病神の体を通り抜けてしまいます。何度やっても同じことでした。もう千吉は肩で息をしています。
「へへへ、何度やっても同じことさね」
「けっ、好きにしろい!」
こうして千吉は疫病神と暮らし始めました。
次の日、千吉はいつものように仕事に出掛けました。そしてやっぱり親方に怒られます。
「千吉、お前は何回教えりゃ覚えるんだ!」
そして仕事が終わる時間になって親方が言いました。
「なぁ千吉。いくら遅くまでやっても上手くはならんぞ。たまには早く帰って休め」
千吉は悔しくて、惨めな気持ちになりました。
その時、どこからともなく疫病神の声が聞こえてきたのです。
「いいぞ、いいぞ。もっと落ち込め」
「畜生!」
千吉は走って家に帰りました。明るいうちに家に帰ったのは久しぶりのことでした。
「よう、待っとったぞ」
家では疫病神が待っていました。千吉はチラッと疫病神を見やると、忌ま忌ましい奴だと思いました。あまり家にはいたくありませんでした。
そんな千吉の目に一本の釣竿が目に入りました。子供のころから捨てられずにいた釣竿です。
「ガキのころ、よく親父とハゼ釣りに行ったっけなぁ。まだ時間も早いし、一丁、ハゼ釣りでも行ってくるか」
そう言って千吉は釣竿と魚籠を持って出掛けました。
その日の夜、千吉は50匹ものハゼを釣って帰りました。一人で食べるのには量が多いので隣のおかみさんにも分けてやりました。
そして千吉は残りのハゼを鍋で煮付けて食べました。
「あー美味い。ハゼなんて何年ぶりに食ったろうか。いやぁ、ガキのころを思い出すぜ。懐かしいなぁ」
千吉がしみじみと言いました。疫病神はそんな千吉を見て何となく困ったような顔をしています。
そこへ隣のおかみさんがやって来ました。
「ハゼのお礼だよ」
そう言って立派な茄子を持って来てくれたではありませんか。
「こいつは済まないね」
千吉は喜んで茄子を受け取りました。
「ところでね、あのじいさん、疫病神なんだとさ」
千吉は疫病神を指さして、おかみさんに言いました。ところがおかみさんは呆れた顔をして言いました。
「寝ぼけるにはまだ早いよ。どこに疫病神なんかいるんだい」
どうやら疫病神は千吉にしか見えないようです。
おかみさんが帰った後、疫病神は言いました。
「疫病神ってのはな、取り憑いた人間にしか見えんもんよ」
「ふーん、そんなもんかね……。よし!」
千吉は腰を上げ、紙と筆を持ち出しました。そして紙に疫病神の似顔絵を描き始めます。
「わしの顔なんぞ描いてどうするんじゃ?」
「だって、お前は他人様にゃ見えねぇんだろ? だから、こうして俺がお前の顔を描き残しておこうってんじゃねえか」
「お前さんも、とんだ物好きじゃな」
程なくして千吉は疫病神の似顔絵を描き上げました。それはびっくりするくらいよく似ていました。
「へへへ、我ながらよく描けたもんよ」
次の日、千吉は仕事の合間に疫病神の話を親方にし、似顔絵を見せました。どうせ信じてもらえないばかりか、怒られるかもしれないという気持ちも千吉にはありましたが、親方だけには信じてもらいたかったのも事実です。
その絵を見た親方は「うーん」と唸りました。そして
「千吉、今日も仕事が終わったらすぐ帰っていいぞ。そして明日も疫病神の似顔絵を描いて持って来て見ろ」
と言いました。千吉は素直に「はい」と返事をしました。
その日も、次の日も、そしてその次の日も千吉は釣りに行っては、帰ってから疫病神の似顔絵を描きました。そうしているうちに、なんか千吉は心がウキウキしてくるような気がしました。
「なぁ千吉。お前さん、随分楽しそうじゃな」
「そうよ。今、俺は毎日釣りに行って、そして絵を描いて、そんな暮らしが楽しいんだ」
「あのなぁ、わしゃぁ、疫病神じゃ。お前さんが明るく、楽しくするとわしゃぁ、元気がなくなるんじゃ」
「へー、そうかい。そりゃ、ようござんすね。へへへ……」
ある日、千吉が仕事に行くと親方に呼ばれました。
「ちょいとお前に会わせたい人がいるんだ」
「へっ、あっしに?」
千吉は親方の後について行きました。
親方と千吉が着いたところは瓦版を作っている版元でした。
「この若けぇのが千吉でさぁ」
親方が千吉を版元の主人に紹介します。
「おお、あなたが千吉さんですか」
主人は親方と千吉を奥の部屋まで通しました。
「親方、これはどういうことです?」
千吉が親方に尋ねました。千吉はなぜ自分がここに連れてこられたのかちっともわかりません。
版元の主人が話し始めました。
「実はね、こちらの親方さんとは古い知り合いなんですよ。それで先日、親方さんから千吉さんの疫病神の絵を見せられましてね。いやぁ、生きているような素晴らしい絵だった。そこでうちの瓦版の挿絵をぜひ千吉さんに描いてもらいたいと思いましてね」
千吉は目を丸くしました。自分の絵が瓦版に載るなんてゆめゆめ考えたこともありませんでした。
「あ、あっしが瓦版の絵を……、ですか?」
「さようでございます。ぜひ、お願い致します」
主人は物腰穏やかに、丁寧に頭を下げました。
「お、親方……」
千吉は親方を見ました。親方は頷いて言いました。
「なぁ千吉。人には向き不向きというのがある。正直言うとお前は大工には向いていない。だが、お前は絵の才能がある。それを活かすにゃ、ここで働くほうがずっとお前のためになると思ってな。それにお前は今まで陰日向なくよく働いてくれた。よく努力もした。お前の真面目さは私が保証してやる。思い切ってこの版元で勤めてみたらどうだ?」
版元のご主人ももう一度「お願い致します」と頭を下げました。
千吉は一呼吸おいてから、深々と頭を下げて言いました。
「若輩者の私ではございますが、なにとぞよろしくお願い致します」
こうして千吉は瓦版の版元に絵かきとして勤めることになりました。版元の主人からは支度金として五両もの小判を貰いました。
親方からは「今まで御苦労だったな」と言われ、三両の小判を貰ったのです。
併せて八両。今のお金にしたら六十万円程になるでしょうか。
その晩、千吉はお酒を飲んで帰りました。
「おーい、疫病神のじいさん、今帰ったぞ」
千吉が家に真っ赤な顔をして入って来ました。
一方、疫病神は真っ青な顔をしてゴホッゴホッと咳をしています。ゼーゼーと肩で息をして、かなり苦しそうです。
「どうした、じいさん。辛気臭い顔をして。大分具合が悪そうじゃねぇか?」
「当たり前じゃ。お前さんがあんまり楽しく、元気になるからこちらはすっかり弱っちまったよ」
千吉は親方から返して貰った疫病神の似顔絵を眺めました。それには日に日に弱って、貧相になっていく疫病神の姿が写し出されていました。
「俺はな、版元に勤めることになったんだ。もしかしたら絵師になれるかもしれねぇ。これから増々、景気が良くなるぜ。まぁ、俺に取り憑いたのが運のツキだな」
「ひぇーっ! もう、こんなところにはいられんわい。わしゃ、おさらばするぞ」
疫病神が腰を上げて、千吉の家から出て行こうとした時、千吉が疫病神に声を掛けました。
「まぁ、待ちなよ。こうやって運を手に入れたのも、元はと言えばあんたのお陰だ。これでも感謝してるんだぜ。そこで最後に一枚、似顔絵を描かせちゃくれねぇか? あんたの似顔絵、大切にするよ」
振り向いた疫病神の潤んだ目がニコリと笑いました。
(了)
大分、以前に書いたもので、お見苦しい点はご容赦ください。でも、好きなんですよね、この話。
これは実はうつ病からの回復がテーマになっているのです。