遊ぶばかりを生きていた
コンピューターゲームの類も嫌いではありませんし、流行したスポーツの類もそれなりです。でも、書いているようなことも、年長の子どもたちにくっついて経験しました。それはそれで、遊びが移り変わる過渡期に子どもだったことの財産かと思っています。
秋の遊びは山に入り どんぐり拾い、栗拾い
苦みの強いどんぐりを 生でも食える椎の実と
違えて、噛んで、吐き出して
栗は落ち葉の火で焼けば 四方に爆ぜて、大慌て
逃げ回りつつ、笑いつつ 栗を焦がして、また、笑い
日がな一日、過ごしてた
秋の遊びは野を歩き 誰も取らない渋柿を
もいでは、基地に持ち帰り 吊るし柿へと皮を剥く
けれど、つくれば満足で
忘れ忘れて軒の下 粉の周りに、怪しげな
カビがつく頃、思い出し 毎度始まる罰ゲーム
負けた奴らが食っていた
秋の遊びは浜辺にて 素足になって、引き潮の
海に、岩場を行き来して 磯に張り付く岩牡蠣を
ナイフで剥がし、海水で 洗って、すぐに食べていた
小粒ばかりの岩牡蠣の 雑味を持たぬ、あと味に
身の大ぶりな養殖の 牡蠣は食えずに、いまとなる
子どもの頃の遊びには 自ら採って、それを食う
そんな自然の営みが 不思議なほどに織り込まれ
楽しきことも、諍いも 怪我も、悔しいことさえも
ぜんぶまとめて遊んでた
遊ぶばかりを生きていた
良し悪しじゃなく、営みが そのまま遊びだった頃
まだ、その頃にいたことを いまも愛しく、懐かしむ
牡蠣がお好きな方、是非、一度、天然の岩牡蠣を食べてみてください。あまり、牡蠣が得意ではない私でも美味しく食すことができますから、たぶん、それなりに衝撃だと思います。
でも、何処で食べられるのでしょう。うちの田舎でも、岩場は漁協の管理になってしまっているようです。