・氷のフロド
イスを窓辺に運んで、私は窓の外ばかりを眺めて過ごした。ただの先延ばしでしかないけれど、氷のフロドに会う覚悟なんて付いていなかったから、さっきまでの戸惑いはどこかに消えていって、この思わぬゆとりに感謝することになった。
几帳面に管理された芝生が暖かなお日様に照らされていて、真っ白に磨かれた回廊がその上を走っている。それとここは花壇や生け垣がとても多い。奥に見えるあれはガラス張りの温室だろうか。見れば見るほどに、ヴィトニルソン侯爵家はお金持ちだった。
そんな穏やかで平和な情景を目にして緊張の糸が切れてしまったのか、次第に耐え難い眠気が私の意識を奪っていった。
ああ、なんてことだろう。人様の屋敷の応接間だというのに、私は窓辺に頭を預けて、そのまま眠ってしまっていたようだった。
・
目を覚ますと美しい庭園に夕日が射し込んでいた。寂しげにそよぐ木々が長い影を作って、この応接間にチカチカとした陰影を作っていた。
「綺麗……。こんな綺麗なお庭、見たことない……」
そうつぶやいて、ここが人様の家であることを思い出した。今のを誰かに聞かれたら恥ずかしい。そう思いながら部屋の方に振り返ると、そこに――
「そう言ってくれると庭師が喜ぶ」
「えっ、あっ、ひぇっっ?!!」
氷のフロド。フロド・ヴィトニルソン侯爵が私の前に立っていた。
氷のフロドという通り名がしっくりとくる白い肌と長身痩躯、端正だが鋭い顔立ちは、似顔絵以上の強烈な威圧感を持っていた。
私は驚きにイスから跳ね上がり、恐怖の化身の登場に窓を背にすくみ上がった。
「オト公爵家のディシルだったか、お初にお目にかかる。俺はフロド・ヴィトニルソン。父と母が早くに他界してな、それ以来ここの当主をしている。……それと、かなり遅くなって悪かった」
「うっ……!」
「う? どうした、どこか悪いのか? なぜそんなに震えている?」
「ひ、ひうっ……?!!」
心配してくれたのだろうか。けれど小心者の私は彼が恐くて仕方がなくて、彼が一歩を踏み出すと壁をはう虫みたいに別の壁に逃げていた。姉と妹はイケメンと言っていたけれど、こ、この人……顔が、凄く恐い……。
「まるで屋敷に迷い込んできたリスか何かだな……おっと、これは失礼を」
「ご、ごめんなさい、わ、私……っ、私は……っ」
「しかしなぜそんなに怯える?」
「ご、ごめんなさい……っ、わ、私はディシル・オト! オ、オト家の方から参りました……っっ」
「ランディから聞いていた話と違うな……」
「え、あ、あの子が……?」
「ああ、ランディは君を気に入ったようだ。……しかし、なぜそんなに怯えているのだ?」
あの子の名前を聞いて、少しだけ落ち着きが戻ってきた。私は膝を震わせながら、恐る恐る視線を上げて彼の足下ではなく顔を見た。やっぱり恐い! 彼の表情には微笑みというものがが全くといってない!
「あ、貴方は、とても、お、恐ろしい方だと、聞いています……。と、とても、とても……」
「ほぅ、それはどんな噂だ?」
「ひ、人の生き血をすすって、いると……」
「なるほど……。しかしなんのために俺は、そんなことをするのだ?」
「そ、それは……わ、若さを保つためと……」
「俺はまだ24だ、若さにしがみつく歳ではない。ましてやただの血液に若返りの効果などない。下らん迷信だ」
「そ、そうなのですか……?」
私がそう聞くと、彼は笑顔を知らない鋭い目と顔でうなづいた。それから何を思ったのかじっくりとした思慮を始めたので、私は自分の心臓がバクバクと恐怖に暴れさせながら彼の言葉を待った。
『やはり気が変わった。今すぐ君の血が飲みたい』なんて言われたらどうしよう……。
「悪いことをしたな……」
「ぇ……」
それは独り言だったらしく、私が反応を返すと彼は困ったように1度視線を外した。けれど氷のフロドはシギュンのように強い気質の持ち主みたいで、すぐにまた堂々と真っ直ぐに私を見すえた。
「祖父が勝手に決めた話だ。もしも帰りたいならばうちの馬車と人を貸そう、すぐにここを立ち去るといい」
「え…………。い、いえっ、そ、そそ、そういうわけには……。父が、何ヶ月もかけて見つけてくれた話なのです……。このまま帰れば、父が悲しみます……」
「だったら俺のせいにしろ。あの異常者とは共に暮らせないと、何か作り話をすればそれで君の顔も立とう。例えば――突然抱きすくめられて首を噛まれたとか」
微笑1つ浮かべずに、氷のフロドはとんでもない提案をしてきた。ここまで彼に野蛮な態度は1つもない。臆病な私を少し脅かしてやろうと考える人も多いのに、彼は笑顔を知らないけれど行動は誠実だった。
「黙っていたらわからん。その首に俺の歯形が必要か?」
「ひ、ひうぅっ……?!!」
「むぅ……どうやら我々は、性質が全く合わないようだな……。ここまで噛み合わないのもまた、面白くもあるが」
その誠実さに対して、こうやって怯えてばかり返すのは不誠実だ。私は彼の提案をよく考えて、やっぱりそういうわけにはいかないと覚悟を決めた。
「私、あの、フロド様に、ご迷惑をおかけしたくありません……」
「気にするな、元より俺は社交界に興味などない。……祖父は俺に怒り散らすだろうがな」
「でも、私には誰かの名誉を汚すなんて、できません……。私、オフェウクスの儀が終わるまで、こ、こここ、ここに、残ります……」
3ヶ月の我慢だ。長い休暇だと思えばいい。オフェウクスの儀が終わったら、彼とは上手くいかなかったと親に報告すればいい。そうすれば誰も傷つかない。氷のフロドは笑顔を知らない目で私を静かに見て、随分と長い凝視を続けた。
「すまない、君を誤解していたようだ。君は、良い側の人間だな」
「そんなことは、ありません……。私は臆病簿のグズです……」
「わかった、君の好きにするといい」
「あ、ありがとうございます……」
「だがすまないが先に断っておく。これでも多忙の身でな、俺はあまり君を構えない」
「ええ、それで構いません……」
私は彼の言葉に安堵した。なんて失礼なやつだろうと自分で自分に失望してしまうけれど、私はこの期に及んでも彼が恐かった。笑顔を知らない人間がこんなに恐いなんて、今日まで知らなかった……。
「それとあそこに白い塔があるだろう。あそこには絶対に近付くな」
「ぇ……」
「あそこに近付かれたらとても困る。逆に言えば、あそこ以外ならどこで何をしてもかまわない。約束してくれるな?」
「は、はい……。でも、どうして……?」
彼は私の質問に答えてくれなかった。私は彼の態度に恐怖がぶり返してきて、別の噂を思い出してしまった。
氷のフロドは塔の地下に拷問部屋を持っている。塔にはさらわれた人々が監禁されている。彼の態度は根も葉もない噂の信憑性を裏付けた。
「君は繊細だな……。部屋を案内しようかと思ったが、やはりランディを呼ぼう。何か困ったことがあれば彼を頼るといい」
「ぁ……ご、ごめんなさい……」
「必要もないのに謝るな」
最後にそう言い残して、彼は少し悲しそうに目を落としてから応接間を出ていった。私がちゃんとした淑女なら、彼を悲しませるようなことはなかっただろう。そうすると不意に従姉妹のシギュンのことが頭に浮かんだ。
あのときシギュンが私の頬を叩いたのには、彼女の中でそうするだけの理由があったのかもしれない。急にそう思った。
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