Phase.1 高難度の依頼人
限りある時間を生きる私たちにとって、常に最高の状態でいたい、と言う願望は、しばしば、人生のテーマである、と言っても大げさではないかも知れない。
例えばこの私、フィリップ・スクワーロウにとって、頬袋が満タンであると言う状態は、心の充実ばかりでなく、リスであると言う誇りや、ハードボイルドかくあるべし、と言う厳粛な心構えに少なからぬ影響をもたらしていると言うこと、これは間違いない。
数々の難事件に挑むときも、…その難事件が来なくて事務所の経営が苦しい時も、この頬袋が常に豊かであったからこそ、私はハードボイルド探偵としての実力とプライドを保ってやってこれたのだ。
あらゆる人に、波があるのが人生だ。絶頂のとき、そして絶不調のとき。幸運も不運も、すべては自分がいかにあるかによって、決まってくる。
さて今からお話しようとする依頼人にとって、最高の状態と言うのは、これである。
もじゃもじゃであること。
晩秋の冷たい空気が沁みたうろこ雲が流れる頃、私はニャーヨークにいた。ベガスを経って一週間、この摩天楼の深い谷間で息を潜め、ある女の行方を捜していた。救いと言えば、そこらじゅうの屋台や移動ワゴンで買える揚げナッツとコーヒーだけ。幻の女は、この巨大な都市のいずこへやら。孤独が沁みると言うのは、こう言うときである。
そもそもの始まりは、月もおぼろに薄い雲を孕んだ穏やかな秋の晩に私の事務所に残された一件の着信である。
あの酔っ払いのように厄介で、重苦しいベガスの夏がようやく入道雲を連れて私たちの頭上を過ぎ去って行ったのは九月も大分過ぎてからのことだった。
事務所は相変わらずの自転車操業であり、私は従業員のクレアとともに警察の落とした雑仕事や、賞金稼ぎの人探しの手伝いなどきつくて割に合わない仕事をこなしながら、毎日の日暮れを待って、ふうふう暑苦しい息を吐いていたのだ。
着信に折り返すと、ある人物のエージェントを務める人物だと名乗った。依頼を引き受けると言ってから、本当のクライアントと対面できると言う運びである。言うまでもなく、セレブがらみの案件だ。久々の大物と言うやつである。私はおごそかに快諾した。
『それでは、今から言う番号に一時間後、電話して下さい。本人と直接、面会の予定をとって頂きたい』
ぶしつけな話だが、興奮してしまった。いわれのない札束やミーハー根性は、タフに突き返すのがハードボイルドだと自他ともに認める私だが、これはでかいヤマだ。
パパラッチのように、セレブのスキャンダルにかぶりつきたいと言うわけでは断じてないが、ハードボイルド一筋のこの胸が、頬袋が、うずくのである。
がつんと歯ごたえのある事件がやってくるぞ。これは間違いない。たぶんここ夏の数か月の、下水管業者のごとく、ダウンタウンの路地裏を這いずり回るような、地味ぃで辛ぁくて暑くてしかもギャラが安いと言う、三重苦だか四重苦だかわからないちっともハードボイルドじゃない下請け仕事など比べ物にならない。
やってくるのはこの私の頬袋と、苦み走ったタフさがいかんなく発揮できる大作映画のような大仕事に間違いないのだ。ハードボイルドたる私の勘が、喜び勇んでそう告げていた。
わくわくしながら秘密のナンバーにコールすると。…なんだ、ぼそぼそ言ってて聞こえない?
『(極端な小声)…ロウさんですか…私…です…ったら…でお話しできませんか?』
「あの…すいません、どこか静かなところでもう一回、お話しできますか?」
依頼人の声が極端に小さい。
はじめ私は、電話が故障したのかと思った。だがスピーカーは最大音量だ。これで、聞き取れる内容がほとんどないと言うのだから、これは話してる人の声がちっさいのである。
「申し訳ないのですが…もう少し、大きな声でお願いできますかあ?」
私がたまりかねて言うと、今度はなぜか一分くらい黙ってるし。(再び話し始めた音量は、まったくと言っていいほど変わらなかった)こんなの初めてだ。私は困り果てた。
のっけからこれは、稀に見る難事件である。私はのべ一時間くらい、電話口でねばってはみたが、結局、向こうの人が何を依頼したいのか、理解することが出来なかった。
「差し支えなかったら、直接、会ってお話しませんか?…で、お名前は?」
『それはっ(異常に小さな声)…です』
だから聞こえないんだよ!?
「落ち合う場所を教えてください。…出来たらメールで」
文面がやってきて、ほっとした。何十年も探偵やってるが、こんなことはもちろん、初めてである。