何故、彼シャツ
―――落ち着かないことこの上ない。
初めての彼シャツ。って言えればいいけれど、大体直樹は『彼』じゃない。
ショーツを履いてシャツを着て―――その上にバスタオルを巻いた。さらにもう一枚出して、腰回りにもバスタオルを巻いて、白いミノムシみたいだ。
「何だその格好は」
「シャツ一枚だけなんて無理だから」
酔っていたらあられもない姿で何度も寝ているらしいけど、今は素面だ。
「期待してたのに」
チッと舌打ちと共に発した直樹の言葉に、すみれは赤面する。
『期待していた』なんて言われたら、こっちの方が期待する。直樹はすみれをそういう対象に見ているのかもしれないだなんて考えてしまう。
コトンと目の前のテーブルにコーヒーが置かれた。
「ありがと」
すみれがお礼を言うと、視線だけで頷いた。
「で?なんで荷物まとめてんの」
そして、さっさと本題に入った。もっと紆余曲折が欲しい。
「や、あの……私の荷物増えすぎちゃったし、ちょっと整理しなきゃなって」
直樹の顔を見て言うことすらできずに、すみれはうつむいたまま言った。
「だったら、全部持って帰んなくてもいいだろ?」
もっともだ。
何よりすみれはよくこの部屋に来るから荷物が増えているのであって、わざわざ整理なんて未だかつてしたことがない。
「彼に悪いから……」
ほら、やっぱり。自分の声が震えてしまったことに、すみれは唇をかんだ。
直樹の口から『あいつは別に気にしない』なんて、彼がいることの肯定でもされたら、すみれは大泣きすると思った。
だから、早く帰りたかったのにっ。
「――――――は?」
低い低い声がした。
さっきまででも結構怒っていると思っていたけれど、直樹にはまだまだ未知の世界があるらしい。
「彼って何。まさか、すみれ、彼氏できたの」
直樹が座っていたすみれを囲うように腕を置く。……これは、後ろに壁なんかございますと、今巷で流行っているという『壁ドン』というやつになるのではないだろうか。
「ちっ…ちがうよ!直樹の彼氏!」
一定に保たれていた距離が突然縮まったことで、緊張の方が先に立って、泣かずに言うことができた。
ほっとして顔を上げると、微妙な顔をした直樹がすみれを凝視していた。
「俺の……?」
ぽつりと呟いたかと思うと、直樹は眉間にしわを寄せて考え込んだ。
考えるなら、離れてからにしてもらえないだろうか。
すみれは、あんまりどきどきするから、ずるずると後ろに下がっていった。
もう少しで腕に囲われているスペースから抜けられると気を抜いた瞬間、
「逃がすか」
直樹にバスタオルを引っ張られてしまった。
「ひゃああああっ!」
足に巻き付けていたバスタオルがするりと直樹の手の中に巻き取られてしまった。
前述したように、すみれはショーツとシャツしかもらえていなくて、バスタオルを取られてしまえば、生足だ。
「何すんの、何すんの、ばかばかばかーっ!返してっ!」
シャツを抑えて足を隠そうか、直樹の手にとびかかってバスタオルを取り返そうか悩んだ結果。
左手でシャツの裾を握って、右手を振り回すという中途半端なことになってしまった。
「あ~…はいはい」
すみれのパニックを見て、直樹は素直にすみれの足にタオルをかけてくれた。「思った以上の破壊力だった」と呟いていたが、どういう意味だ。
「大体、俺の彼氏って誰のことだよ。いないぞ。そんなもん」
「えっ……?」
いないの?
思わずうれしそうな声が出そうになってしまった。
すみれはぐっと言葉を飲み込んで、直樹の質問に答えた。
「この間、この部屋からすっごく格好いい人が出てきたじゃない。あの人」
「―――すっごく格好いい人?」
さらに眉間にしわを寄せた直樹を見上げながら、すみれは考える。
こんなに思い当たらないなんて、あの人は、本当に彼氏ではなかったのかもしれない。一夜の遊び?直樹がそういうことをするとは意外だったけれど、それだったら、もう少しこの関係は続けていけるのかもしれない。
直樹は、彼のことをなんて呼んでいたっけ……
「そう。田中って呼んでた……」
ダンッ!
思い出した途端、大きな音がした。