進め! TRDI試験隊 -コブラvsコブラ-
プロローグ
――二〇一某年秋 航空自衛隊岐阜基地
航空自衛隊が使用する航空機の、飛行・運用試験のほとんどが行われている岐阜基地では、年に一度の航空祭が催されていた。会場となっている駐機場には、岐阜基地に所在する飛行開発実験団の所属航空機や、マニアが外来と呼ぶ、他基地に所属する航空機が展示されている。心配されていた雨は、当日朝に上がったため、マニアだけではなく一般の人も多数訪れており、駐機場は人で埋まろうとしていた。駐機場脇の出店では様々なグッズや食べ物を売っていて、人気は記念のパッチ類。人出のせいか、まだ午前中なのに"完売"の札が付いたりしている。
その月に予定されている演習とのスケジュール調整の関係で、隣にある小牧基地の航空祭を連続して行なう事になったので、岐阜は久しぶりに土曜日の開催である。周辺の学校は週休二日制になっていたが、それに配慮するという名目で展示飛行は午後からとなっており、会場にはどことなくのんびりした雰囲気が漂っていた。
「うーん、"フランカー"は来ないかぁ、残念」会場に並べられた展示機を一通り見回して、マニアの一人が言った。
「フランカーがどうして? 硫黄島だろ?」と別のマニアが突っ込む。
先頃、防衛省の技術研究本部航空装備研究所は、戦闘機技術開発の参考資料という名目で、ロシアから主力戦闘機スホーイSu−二七"フランカー"をリースした。ところが、マニア垂涎のそれらの機体は、秘密保持のためか、来日時に百里基地を経由しただけで硫黄島に直行してしまったのだ。報道や広報用の撮影は行われているが、被写体として魅力的な戦闘機を、自分の手で撮りたいのに撮りに行けない場所にいるということで、マニア達のフラストレーションの素になっている。
なお、技術だけではなく、性能や戦術の研究に用いられている事は、マニアや軍事系ジャーナリスト筋では公然の秘密である。
「いや、戦闘機をリースしたのは技研だけど、飛行機の運用は航空自衛隊に委託されるんだ」件のマニアが、解説を始める。「あたり前の話だけど、技研には試作機を運用するような手はないからな」
「つまり?」
「少なくとも、飛行開発実験団が運用しているわけだから……」
「おいおい、何、変な期待してんだよ! T−四〇〇が運用試験中に、岐阜で展示飛行をやったか? 考えてもみろよ」
「そうかなあ……」
「それよりも、だ、ロシアと共同開発した戦闘機技術実証機だよ、そろそろ飛行試験が始まっているはずなのに、八月のモスクワ航空ショーにも出て来なかったし、情報がちっとも流れて来ない。フランカーも大事だけど、あれこそ公開すべきだと思わないか?」
[岐阜タワー、ターディ一七、東五マイル。滑走路を視認。進入許可願います]
「何が来た!?」管制塔の周波数に航空無線受信機を合わせていた、飛行機マニアが、聞き慣れない無線呼称に反応して、滑走路の方にカメラを構え始めた。周囲の人達が、それに追随して滑走路の方に注目する。自衛隊の場合は、基地祭の最中に外来機が来ることはめったにない。
[ターディ一七、岐阜タワー、進入を許可する。滑走路上を航過してダウンウィンド・レグに入れ]
[了解]
マニア達は滑走路の方に注目していて気がつかなかったが、飛行開発実験団の飛行班事務所等、いくつかの建物の屋上や駐機場に面した窓に、所属している自衛官が群がっていた。広報の腕章をした写真班の隊員以外にも、何人かは役得とばかりに望遠レンズ付きのカメラを構えている。
犬山の方向から、低空を、高速で戦闘機らしいシルエットの飛行機が進入してきた。かすかな音だけで駐機場の前まで来ると、一気に機首を引き起こして左急旋回を行った。追撃を警戒しつつ急速に着陸するための機動、コンバットピッチだ。機体にねじ曲げられた空気が渦を作り、機体上面で白濁、飛行機雲となって尾を引く。追いついてきたジェットエンジンの音が、航空祭会場の空気を揺るがした。ボーイングF/A―一八ホーネットが積んでいるような、低バイパスターボファンの硬質な排気音。
飛行機雲が文字通り雲散霧消したときには、ターディ一七は減速と旋回を終えて、のんびりとしたスピードで滑走路の向こう側の、ダウンウィンドレグと呼ばれる経路を水平飛行していた。超望遠レンズでもなければ捉えられないような距離だ。しかし、シャッターの音は鳴りやまない。飛行機に詳しくない一般の人達は、マニア達の興奮に、とまどっている。
「見たか!」
「くそっ! 撮り損なった!」
「押せなかったよう!」
「カメラ用意しとくんだった!」
「今の機体、知ってるか?」
マニア度が高ければ高いほど、驚きが大きい。ターディ一七は、今まで彼らが知っていたどの機体とも似ていなかったからだ。基本のレイアウトは、ホーネットに似てはいた。双発エンジン、長くのびた機首、中翼配置の主翼に大きな――機首から主翼へとつながる、ひさしのような部分――ストレーキ、その下に開いた空気取り入れ口、双垂直尾翼と胴体後ろぎりぎりに取りつけられた水平尾翼。コクピットを覆うキャノピーの後ろが盛り上がっているのも同じだ。しかし、胴体はやや太めの感じになっていて、ずんぐりとした印象を与えていたし、主翼の平面形は全く違っていた。主翼平面は、根本部分が半楕円形を、先端部分はF―一四が翼を広げた時のような後退翼に近かったのだ。垂直尾翼先端は斜めに削ぎ落とされたようにとがっていて、これも胴体と平行になっているホーネットとは違っていた。塗装だけは、ホーネットと同じような、青みがかった灰色を基調としている。
岐阜基地のテスト機が見慣れない装備品を付けて飛ぶと、即座に航空雑誌をその写真であふれさせるような、敏感なマニア達にとっても、ターディ一七は初見参の機体だった。
「そういえば……、昔の外国の雑誌にあんなのが載っていたような……」ごくごく一部のマニアが、記憶を掘り起こしてつぶやく。
[岐阜タワー、ターディ一七、着陸許可を]
[ターディ一七、岐阜タワー、着陸を許可する]
[了解]
緊張感が、高まる。今度こそ、と。
ターディ一七は、その緊張感を知ってか知らずか、ゆっくりと旋回してファイナルアプローチに入った。その時、駐機場前の誘導路を、一台の七三式小型トラック(新)が赤色灯を点滅させながら駆け抜けていった。その後部には"Follow Me"と書かれた板が取り付けられていた。外部から飛来した飛行機を案内する役割なのだろう。
着陸脚下げ。機首と胴体中央部から着陸脚が出てきた。脚に取付られた、アプローチライトとランディングライトの光が、観客達の眼を射る。脚収納部の扉は、ノコギリの歯のようにギザギザに切られている。ステルス性に配慮して設計されているようだ。
機首が上がった。しかし、高度の低下は続いている。
接地。ぱっと、主脚のタイヤから白煙が上がった。しかし、接地点は航空祭会場からはかなり離れているので、そこまで見ることのできた人間は少ない。
ターディ一七はF―一五のように機首をあげたまま、主脚だけで滑走してきた。機首上げ姿勢で空気抵抗を大きくして、ブレーキをかけているのだ。十分に減速したところで、機首を下げて首脚を接地させた。そのまま、機首を沈めるようにしながら、観客の前をゆっくりと通過してゆく。再び、シャッターの音が連続し、望遠レンズが一斉にその動きを追う。
複座になったコックピットの下に、青地に黄色で翼を広げたハトを図案化した矢印と、キリル文字で"MΝΓ"と書かれたロゴを組み合わせたインシグニアが入れられている。
「ミ……ミグ設計局!?」
「ロシア機?」
そう、それは、ロシアで生き残っている二つの戦闘機メーカーの片方、ミグ設計局――正確には、ロシアの全ての航空機産業を傘下に収める持株会社、統一航空機製造会社の一部門であるミグ・ロシア航空機会社――のマークだった。
ミグ設計局の戦闘機に共通した特徴を持つ垂直尾翼には、しかし"TRDI〇〇一七"と、アルファベットと数字が書き込まれていて、ロシア空軍――正確には独立国家共同体空軍――所属を示す赤星は入っていなかった。
「防衛技術研究本部? ……日本機?」
ターディ一七は、駐機場端にある古ぼけた格納庫の陰へ入り、観客の視界から隠れてしまった。ほどなく、甲高いタービンの音を響かせながら、さっき駆け抜けて行った七三式小型トラックの後ろについて、ゆっくりと誘導路を戻ってくる。いまや、ロープ際は黒山の人だかりとなり、観客全てがターディ一七に注目していた。カメラの群が、驟雨のようにシャッターを切る。コックピットの後席に座るパイロットらしいヘルメット姿の人物が、集まる視線に応えて、軽く手を振った。観客がどよめく。手を振り返すものもでて、小さなもめ事が、ロープ際で起こった。
駐機場の前を通り過ぎたところで、小型トラックが停止した。ターディ一七も、タービンの音を落として、減速する。
そこには、いつのまにか赤や黄色の棒を持った整備員達が待機していた。その内、赤い棒を持った整備員が両手を差し上げた。数瞬そこで静止した後、右手は斜め下に降ろし、左手は、ターディ一七を差し招くように前後へと動かす。
それに応えて、ターディ一七は再びタービン音を高めた。首脚に仕込まれたステアリング機能を効かせて、左に曲がる。
ターディ一七が、適当なところまで曲がったところで、整備員は両腕を前後へ動かす。そして、腕を真上に向けて停めた後に、ゆっくりと頭の上で交差させた。
タービン音がつぶやき程度になり、ターディ一七は停止した。
黄色の棒を持った整備員が主脚のタイヤに駆け寄ると、手に持ったそれをタイヤの前後に噛み込ませ、簡単に機体が動き出さないようにする。
赤い棒を持った整備員は、交差させた手を降ろして、棒をTの字になるように組み合わせた。その合図に応えて、ジェットの音が消えた。
エンジンの余韻がまだ残っているうちに、キャノピーが上に跳ね上がって、白いヘルメットをかぶったパイロット二人が這い出してくる。下半身の部分が少し余っている感じの、ロシア独特の飛行服である。しつこく、望遠レンズで追いかけていたマニア達がどよめいた。前席搭乗員がヘルメットとインナーキャップを取ったとたんに、ぱっと金色の髪がこぼれ出て、性別が判明したからである。
日本では、未だ珍しい女性パイロットだったのだ。
後席搭乗員もヘルメットを取った。マニア達がまたどよめく。それは、前席搭乗員の時よりも大きかったかもしれない。なぜなら、こちらは黒髪の女性。しかも、顔の造作からして、日本人だかったからだ。
茶色がかった緑色に塗られた角度調整式タラップが用意され、彼女たちは赤いさそりの刺繍が入っているつば付き帽をかぶると、地上に降り立った。整備員達の最上級者に敬礼して、言葉を交わす。高感度集音マイクを持っているビデオ系のマニアもいたが、さすがにその会話をピックアップすることはできない。やがて彼女らは、迎えに来たらしい、案内役とは別の七三式小型トラックに乗って走り去った。
「もしかして、あれが……あれが……あれがFTXなのかっ!」
「FTXキター――」
「すごい! 美人のパイロットだ!」
「後席の女性パイロットは、日本人なのか?」
「いや、自衛隊は戦闘機に女性を乗せないだろ!」
「金髪パイロット、ハアハア」
次の瞬間、Twitterに関連の投稿があふれ、それらの単語がトレンド入りを果たした。
《本編》
――数時間後、岐阜基地より南南東に約一三〇〇キロ 太平洋上
明るい灰色に塗られた小型ジェット機が、海面スレスレを飛行していた。全長は一五メートルに足らず。上から見ると、F/A―一八を前後に押しつぶしたような、泳いでいるペンギンを連想させるようなシルエットをしていた。
突き出した機首はくちばし、ストレーキと一体化して楕円形をした主翼の根元部分は胴体、突き出した主翼の先端は翼、胴体の後端にある水平尾翼は脚に見えなくもない。しかし、そのシルエットとは裏腹に、各部を構成する鋭角的な線は威嚇的な雰囲気を作り出しており、そのジェット機が戦うために造られたことを表していた。
二基並んだジェットエンジンの排気が海面を泡立たせて、白い航跡が伸びている。それは、青黒い海に対してまぶしい位に輝いていた。
ジェット機は、時折、跳ねるように高度を上げて、うねりをクリアしてゆく。そのたびに、航跡は途切れて、見るもののないモールス信号となっていた。
「いやいやいや、すごい騒ぎだったわね〜〜」乗員が前後に並ぶタンデム形式のコクピットの中で後席の乗員、要 優が前席へ向けてへ向けてICSで話しかけた。酸素マスクの中で思い出し笑いを浮かべている。
「優があおるから……」と、前席の乗員ソーニャ・コヴァレフスカヤから後席に返答が返される。「タラップの上で、手を振らなくても」
「じゃあ、離陸した後で、しっかり戻って航過飛行したのは一体誰なのかしら」
岐阜基地の基地祭に、この機体――ターディのお披露目のため、連絡飛行の名目で飛び込んだ彼女らだったが、目新しい飛行機に女性パイロットが搭乗していたということで、来場者の注目を集めすぎるぐらいに集めてしまったのだ。
航空祭のトリは、いつものように第一一飛行隊、通称"ブルーインパルス"が努めたのだが、彼女達は完全にそれを食ってしまったのだった。
「あれはしょうがないよ。頼まれたんだもの」
「だったら、私だって一緒でしょ、みんなの期待に応えたんだもの」ただし、ソーニャに頼んだのは、基地関係者。優に期待を伝えたのは、会場で彼女に声をかけたマニア達である。
「……それ違う」
「いいじゃない、ああ……へんぴな基地だから、基地祭で喝采を浴びるなんて事はあきらめていたけど、こんな事もあるのねえ」
「私は、あまり好きじゃないな、こういうのは」ソーニャがぼやく。
「何を言ってんのよぉ。どうせ老い先短い身、楽しまなくっちゃ。岐阜の連中から、おみやげもいっぱいもらえたし、役得、役得」そう言って、後席の優は、自分の膝の上に乗せたバッグをポンポンと叩いた。
「それ、優だけのものじゃないと思うけど……」
「ソーニャと私のもの、でしょ」
前席のソーニャは、沈黙して答えない。優は、無言の非難を感じる。
「はいはい、解ってます。みんなによろしくって渡されました。
ソーニャ・シンサク、あんた堅すぎだわ。ロシア人って、みんなもっといいかげんじゃない。肩こらない?」
「別に、性分だもの」いつもの通りにソーニャが答える。
「これだもんね……」優は大きくため息をついて、上を見上げた。もっとも、ソーニャは気がついていないが、膝に抱えたバッグには、会場でマニア達に貢がせた品物が、いろいろと詰まっている。
視界のいいコクピットから見えるのは、雲のほとんどない青空だ。その中に、何となく違和感があった。傾き始めている太陽の光が、反射したような……?
「ソーニャ、一時方向、ほぼ真上に何かいない?」優は、バイザーを上げて目をこらした。
「ん?」ソーニャは、水平線の先にあるわずかな雲に眼の焦点を合わせてから、ゆっくりと、上の方へと視線を動かした。訓練された眼は、四機の飛行機が右を先にして斜めに並んでいるのを捉えた。「確かにいる、四機編隊、右エシェロン」
「よく見分けられるもんだわ」優は、計器盤の多機能ディスプレイを切り替えて地図を呼び出した。彼女たちの目的地である、硫黄島周辺の航空図が拡大表示される。「こんな所にいるんだから、私たちと同じ所に降りるつもりかな?」
「そうだと思う。 確か明日から、第五空母航空団の着艦訓練が始まるって言ってたよね、それかな?」
「うん、米海軍さん演習が近いもんね、にぎやかになるのはいいけど、また駐機場が狭くなる。んで、"あれ"もあるし」嫌そうに、優は言った。
「編隊を解いた……高度を下げてくる」そうつぶやくと、ソーニャは声を高めた。
「優、燃料の残りを確認して!」
「ちょっと待って!」しばらくしてから、優が数字を読み上げる。
それは、ほんの数分なら、アフターバーナーを使うくらいの余裕があった。
「編隊を解いたって、上の連中が?」
「そう」じっと、上の編隊から目を離さずに、ソーニャは答える。一度、目を離すと見失ってしまいそうだ。
「こっちに向かってくるの?」
「まだ……判らない――計器を見ていて。高度変化に注意」ソーニャは優に計器のモニタを頼んだ。見失うと、もう一度見つけるのが大変に思えたからだ。今日は、重たくなるヘルメットマウントディスプレイは装着していない。あれば、視界の隅に計器の表示を写し出す事ができて便利だったのだが。
「了解」
ソーニャの眼は、四機を追って右へと回ってゆく。それが、ほぼ真横を向いたところでほとんど動かなくなった。
「こっちに来るみたい」
優は、そちらに眼を向けた。太陽が視界に入って来て、何も見えなくなってしまう。
「判るの?」
「距離ははっきりとしないけど、近づいてくる。編隊を組み直して、後ろに回り込むつもりみたい」
「じゃあ、私たちを見つけてるって事か。どうして……」
「今でも、航跡を引いてるもの。気がつかない方がおかしいと思うけど」
「あ!」と、優が声を上げた。
「今の優の顔が見られないのは、ちょっと残念」と、四機編隊を注視しながらソーニャが言った。
「……F―二二のパイロットに聞いたことがあるわよ、わざと目視で発見させて注意をそらす戦術があるって。航跡を引くのは、その手段の一つだって」
「今、思い出しても意味はないと思うけど。どこで聞いてきたの? ユウが沖縄にいた頃に、F−二二って配備されてたっけ?」
「そっちじゃなくて、ソーニャが来る前、郷中一佐のお供でロサンゼルスであったテストパイロットのカンファレンスに行った時に、ね。ちょろいもんよ、笑顔で食事の相手をしてあげるだけで、高級レストランでごちそうしてくれるもの」
「ごめん、私には、そのパイロットさんが優を子供に間違えて、殴られた段階が抜けているように聞こえた」
「うるさいわねぇ。で、接近してくるんでしょ、どうするの?」
「航空自衛隊のイーグルだから、味方だし。四機が二―二に分離して、相互支援しながら近づいてくるし。実戦ならともかく、私一機でどうかできるものじゃないから」
「え?」優は、またソーニャの視線を追った。
長さ二〇メートル足らずの機体に、太いレドーム、大きなキャノピー、機首両側面にあるくさび形をした空気取入れ口、先端が斜めに削ぎ落とされたような形をしている大きな主翼、ピンと立った二枚の垂直尾翼。未だ西側最強と言っていい、F―一五イーグルが意外なほど近くに、二機。そして、後方にさらに二機が旋回上昇している。
後方の二機に気を取られていた優が視線を戻した時には、先の二機は目の前に来ていた。
ほぼ真横から、上をすり抜ける!
「きゃあ!」後方乱流で、機体が揺さぶられ、優が思わず悲鳴を上げる。
「気が変わった」と、ソーニャの声。
「え――ぐえ?」大きな荷重がいきなりかかった。腹にバッグが食い込んで、優は絞り出すような声を上げた。
ソーニャは、ターディ一七を旋回させてF―一五を追跡にかかった。追跡されたF―一五編隊は、緩やかに間隔を広げるようにしながら旋回を行う。
「ぐ、おも〜い」
「そんな胸、付けてるから」楽しそうに、ソーニャが言う。素早く周囲を確認。
「ぞれとごれとは話が違う――ぐ」
再び、急旋回。ソーニャは低下した速度エネルギーを回復するべく、アフターバーナーに点火した。
もう一つのF―一五編隊が接近してきていた、すれ違うような角度で交差する。
ソーニャはアフターバーナーを切ると、すぐに旋回を切り返して、最初に上をかすめて行った第一編隊に正対する。下をくぐるように、交差。
――スイッチが入っちゃったな。と、優は思った。
「――!」ロシア語で言われて、優はしばらく考えてしまった。"ダメ!"と叫んだのだけはすぐに解ったが。"向こうが有利、勝てない"と言っていたのだと、理解できた時には、ソーニャは再び旋回を切り返して、第一編隊を追跡にかかっていた。
「ちょっ、ソーニャ」優は、それほど空中戦戦術を詳しくはないが、ソーニャとの付き合いの中で、不利な側の基本は、敵に対して大きな進路交叉角を取ることだということくらいは覚えている。このままでは、もう一つの第二編隊との進路交叉角を小さくしてしまう。この位置関係で進路交叉角を小さくすることは、後ろに回り込んでくれと言っているようなものだ。これではまるで、おとりに引っかかった鮎だ。
さらに、ソーニャはスロットルを絞って加速をやめている。「振り回すから! 前を向いて身体を固定して!」自分は首をねじ曲げて後ろを見ている。
優は、ソーニャの意図を理解した。バッグを抱え直し、脚をつっぱって、頭をヘッドレストに押しつける。
ソーニャが首を戻した。「行くよ!」スロットルを再び全開にし、操縦桿を力一杯引く。
シートベルトが、一瞬、優の身体に食い込み、続いて逆にシートに身体がめり込んだ。今度は声も出ない。
ターディ一七は、急激に機首を上げて急減速・急上昇していた。機体上面が、引き延ばされた空気で白濁する。Su―二七の得意技、プガチョフズ・コブラのように、垂直を越えて機首を後ろ向きにするほど、深くは失速させない。そのおかげか、すぐに主翼が空気の流れを捉え、失速状態から復帰した。推力偏向ノズルを効かせて強引に横転、背面姿勢にしてから再び機首を引いて、急減速に追随できずにターディ一七を追い越した第二編隊の追跡にかかる。ターボラグの関係で、ここでアフターバーナーが点火して加速を開始。
ロシア機得意の、スーパーストール領域機動。
位置は第二編隊の後方至近。これが空中戦なら絶対的な"勝ち"の態勢。
「すご……」コックピットの中で踊りだしたバッグを、改めて抑えこんで優がつぶやく。
第二編隊機は、あわてた様子で左右へと散開しようとする。
「一、二」と小刻みに機首を動かしながら、ソーニャが数を数えた。
突然、優は前に押し出されるような感覚を覚えた。ターディ一七は、第二編隊を進路から外して、ゆるやかに旋回上昇。そして、右左に傾斜角を変更する。
「い、いったい何!?」
「ごめん、燃料切れで、アフターバーナーを止めた。最低帰投可能燃料っての? それと右後方に、イーグル」
振り向いた優の眼に、こちらへと機首を向けて接近してくるF―一五が入った。こちらも"勝ち"の態勢に持ち込んでいる。ただし、一機だけだ。
「戻ってくるのに、もっと時間がかかると思ったんだけど。どうやったんだろう?」
F―一五は、旋回しながらターディ一七の後ろを横切ると、優達を長機とした編隊を組んでくる。
そのF―一五は、単座のJ型だった。複雑にうねった胴体下面と左右主翼パイロンの下には増加燃料タンク、主翼パイロンのレールランチャーには短距離用らしいミサイル、胴体角のランチャーにも中距離用らしい別の型のミサイルを搭載している。
塗装は、正式塗装に使われる淡いグレーを下地にして、濃淡二色の青をかぶせたもの。
垂直尾翼の中央に、鎌首をもたげたコブラを図案化した部隊マーク。
「飛行教導隊だわ」と、優が航空自衛隊最強と言われる、部隊の名前を挙げた。そう言いながら、彼女は目を凝らしてコックピットを注視している。パイロットが何か手を振って合図しているようだ。
「本当? あの戦術なら、評判通りと言っていいみたいね」
「腕の方はね。来るのは週が明けてからって聞いていたけど、何しに来たんだか?――イヤな予感がする。ソーニャ、もういいでしょう、管制とコンタクトしましょう。黙っている必要、なくなったもの」
もう一機の第一編隊機と、回り込んできた第二編隊機も集まって来た。それらは、キャノピーがJ型よりも盛り上がった形をしている、複座のDJ型だ。合流してきた第一編隊機は茶色を、第二編隊機は先に立っている長機が黒色と白色、二番機が緑色を、正式塗装の上にかぶせていた。
「ん?」と、ソーニャは首を傾げたが、断る理由もない。「了解。硫黄島レーダー進入管制、ターディ一七、リクエストコンタクト」
[こちら飛行教導隊、コブラ〇六、ターディ一七どうぞ]通信に、コブラ〇六が割り込んできた。
聞き取りにくい超短波無線だったが、優はその声の主が誰かを聞き分けることができた。「あいつか〜〜〜っ!」
[ターディ一七、スコーピオン・レーダー、どうぞ]
「ターディ一七は有視界飛行で接近中、フライトプラン提出済み、レーダーによる航法助言を要請します、現在残燃料は一五分」
[おーい、ターディ一七、無視することはないだろう]再び、コブラ〇六が割り込んでくる。
優は、ソーニャが何か言い始める前に、送信ボタンを押した。「コブラ〇六、ターディ一七、現在、スコーピオン・レーダーと交信中」
[おい、ずいぶんと冷たいじゃないか]コブラ〇六が色をなした。
[ブレーク、コブラ〇六、管制交信への割り込みは許可していない――ターディ一七、要請を了解した、現在、貴機はこちらの北西二〇マイルを飛行中。そこからの直接アプローチを許可する。西の風、二ノット、気温二七度、高度計補正プラス二〇、オーバーヘッド・アプローチ。滑走路〇七に進入し、左へ旋回してダウンウィンド・レグに入れ。滑走路視認後、管制塔にコンタクトせよ。現在、ターディ〇八が滑走路へ最終進入中、後方のコブラ編隊以外の在空機なし]
「ターディ一七了解、オーバーヘッド・アプローチ、滑走路〇七、高度計補正プラス二〇、左旋回してダウンウィンド・レグ、管制塔にコンタクト」
[コブラ編隊、戦術航空航法装置二七〇度一五マイルで、待機経路に入るように]
[コブラ〇六了解、戦術航空航法装置二七〇度一五マイルで、待機経路]コブラ〇六の復唱には、不満そうな感情がにじんでいる。
「いい気味よ」
「知ってる人なの?」
「そう、沖縄の二〇四飛行隊にいた頃にね、どうにもそりが合わなくて――私の方だけだったけど」
「ん〜〜〜〜、なんとなく解る気がするかな?」
ソーニャは滑走路の中心線へ乗るために大きく右へ旋回した。コブラ編隊は、ターディ一七との距離をあけるために待機経路へと向かい、後方へと取り残される。
後席の優にも彼女達の目的地を見ることができるようになった。鮮やかな青色の中に浮かぶ、カエデの種のような緑色の小さな島。半世紀以上前の太平洋戦争における、最激戦地の一つ、硫黄島だ。
――数分後 硫黄島基地
駐機場の航空自衛隊側区画のさらにその一角に、スホーイSu―二七が入って来た。F―一五を一回り大きくしたような、全長二〇メートルを越える、大柄な機体、やや下を向いた大きなレドーム、大きなキャノピー、しなやかに主翼へと繋がるストレーキ、くさび形をした二つの空気取入れ口がその下に口を開けている、先端が斜めに削ぎ落とされたような形をしている二枚の垂直尾翼がピンとまっすぐに立っていて、エンジンの間からテールコーンが大きく後ろへと伸びている。
濃度の違う青色を何色か重ねた迷彩塗装だが、垂直尾翼には、迷彩効果など無視して、鮮やかな赤で"TRDI〇〇〇八"の文字が入れられている。機首にも同じ色で"〇〇八"の番号が書かれている。垂直尾翼の根元付近には、ロシア最大の戦闘機メーカーであるスホーイ設計局が開発した飛行機が、ロシア政府に採用された時に付与される試作メーカー記号、"Су"を図案化したコーポレート・インシグニアが入れられていた。
整備員の手信号に従ってブレーキがかけられると、待機していた他の整備員が腰をかがめながら近づいて、車輪止めをかませる。
エンジンが停止した事で機体各部の油圧が抜けて、フラップなどが下に降りた。
キャノピーが開いた。Su―二七のキャノピーは跳ね上げ式だ。乗っているパイロットは、ヘルメットとハーネスはロシア空軍が使用している物を、他は航空自衛隊の装具を身に付けていた。左胸に付けたネームタグには、ウィングマークと呼ばれる鳥をかたどったパイロット資格を示す記章と戦術無線呼出呼称の"ICHIRO"が刺繍されている。
コクピット脇に、乗降ハシゴが取り付けられた。
いつものように、ソーニャ達の乗るターディ一七は軽やかにタッチダウンした。減速しながら滑走路端へ滑走してゆくと、その勢いをあまり殺さないで、誘導路に入って来た。いつもの倍の速さで地上滑走して駐機場を目指してくる。
ターディ一七は、航空自衛隊用駐機場のさらに片隅に定められた一角へと入った。この機体本来の整備員たちが、岐阜と同じように彼らの愛機を迎える。
車輪止めが差し込まれ、エンジンを停止し、キャノピーが開かれた。
「ついた、ついた、最後は燃料残量警告灯がついてヒヤヒヤさせられたけど」優がまだ新しい、コンクリート舗装の上に降り立つ。
「ごめん」と、燃料を使った張本人のソーニャがあやまる。その口調に、先程の空中戦の時のような激しさはない。
「やだぁ、気にしないでよ」
優は、身体をほぐそうと、大きく伸びをして軽く体操。
「おかえり」二人と同じ、サソリのマークの入った帽子をかぶり、パイロットスーツを着た男が出迎えた。
「まあっ! "イチロー"ったら気が利いてるじゃない、あたしの荷物を運びにきてくれたのねっ」
「違うっ」とイチローと呼ばれた男は、優男型の顔をしかめて、優の言葉を否定する。
「は〜〜〜〜ん、と、い・う・こ・と・は、愛しい誰かさんの顔をちょっとでも早く見たくって、出てきたわけだ」イチローは優より頭一つぶん優より高いので、自然、下から見上げる体制になる。
「う……」と、イチローは視線を泳がせた。視線の先には、さり気なくソーニャがいるのは、優にとってはお見通しだ。
イチローにとっては残念ながら、ソーニャは彼に軽く会釈をしてその傍らをすり抜け、後ろに立っていた初老の男性――赤白青三色のロシア国旗とミグ設計局のマークを縫い付けた作業服を着ている――の前に立って敬礼をしていた。
いつものことではあるが、落胆しているイチローを見て、優は"いい気味"とばかりに笑った。
「機付長、ターディ一七、飛行を終了しました。機体、システムとも異常ありませんでした」
ソーニャが申告すると、機付長はクリップボードに挟んだ飛行記録を差し出した。ソーニャはそれを受け取り、記入を始める。
「燃料を、途中の航程でもう少し節約できていればなんとかできたな。惜しいところだった、ソーニャ・シンサキ」と機付長は、まったく表情を変えずに言った。
立ち直ったイチローと優は、顔を見合わせてにやりと笑った。機付長は、これでもソーニャをなぐさめようとしているのだ。
「それで、必要なしとして点検はしていなかったが、捕捉・攻撃コムプレスクはちゃんと機能したかね」
「はい、少なくとも捕捉・追尾については問題ありませんでした」
「荷重はどうだった?」
「計器を見た限りでは、制限を超えてはいないようです」
「機体構造の方は、念のために点検しておくとしよう」
ソーニャが機付長と話している間に、優はコックピットにとって返って、計器板用防眩ひさしの上に置いておいたバッグを回収した。乗降はしごの上で扱うには、ちょっと重い。
「手伝ってよ!」ちょいちょいと手招きしてから、イチローに向けてバッグを放る。
「な、何が入っているんだ?」受け止めたイチローが、腕への重量感に驚く。危うく落とすところだった。
「いいものよ、いいもの」
「お前さんにとってだろ?」
飛行教導隊のF―一五編隊が、硫黄島基地隊に割り当てられている駐機場へとランプインしてきた。硫黄島基地隊の整備員達が四機のイーグルを出迎える。
編隊長機がエンジンを停めると、ラダーが付けられるのももどかしく、コクピットからパイロットが飛び出してくる。右胸に飛行教導隊所属を示すドクロに赤星の部隊マークを付けた、オリーブグリーンの飛行服の上に、Gスーツ等の装具を付けたまま、優達の方に向かって走ってくる。
「うわ、来たよ」と優が嫌悪感をむき出しにした声を上げる。
「とうとう来たな、"フラッシュ"の奴」とイチローも嫌そうな声になる。
「知ってるの?」
「松島の訓練課程で一緒だった。俺の"イチロー"ってあだ名は奴が決めたようなもんだ。こっちは防大、向こうは高卒の航空学生、そのせいか教官を味方に付けて、やたら突っかかって来やがって……」
「おい、優っ! どういうつもりだっ!?」十数キロになろうかという装具を鳴らしながら走ってきた、そのパイロットが、大声を上げた。
「何の事を指しておっしゃっているんですか? 越智原一尉。私にはちょっと……?」と、慇懃無礼に応じる優の声は、かなり冷たい。
「恋人が珍しい飛行機に乗っているのにその話も聞けないのかっ!」
「航空管制に割り込んで世間話ができると? ささ一尉、地上に降りたのですから、ご存分にお聞きになればいいでしょう?」"恋人"という言葉にも反応せずに、平然と言葉を続ける。
越智原は、重い装具をつけて走ってきたため、切れてしまった息を整える。
ソーニャは、はらはらしながら優の方を見ている。
「こいつがMIGのテスト機か?」結局、越智原はターディ一七への好奇心を満足する方を優先させることにしたようだ。
「はい」と、優は職業的なスマイルを浮かべて答えた。「日本側名称はFTXあるいは戦闘機技術実証機、MIG側はI―二〇〇〇と呼んでいます。MIG―二九後継機であるLFI構想のための技術実証機を、日本が資金援助をして共同開発し、完成機から二機のリースを受けているものです。もっとも、技研硫黄島試験隊の私たちは、一七一八と呼んでますが」
「あの"カシアス"達をオーバーシュートさせた"プガチョフズ・コブラ"はすごかったな。あの後は、失速・減速で降下するのを狙ったんだが……。パイロットは女性と――」
「それは、この翼平面形"ツェントルプラン"のおかげでしょう」越智原の質問を押し流すように、優は話を続ける。
「ロシア中央流体力学研究所の提唱した形式で、低横縦比と高横縦比の二つの翼を組み合わせたもので、迎え角が四〇度を超えても失速しないと言う性質を持っています。だから、一般的に言う"コブラ"とは、若干違いますが」
「エンジンは何を積んでるんだ?」
「F三です。F三の―四〇二、アフターバーナー使用時推力四・八トン」
「F三? T―四のエンジンだろう?」
「圧縮機と燃焼系はほとんど同じです。タービンの高耐熱化と最適化、アフターバーナー、推力偏向装置の付加、ファン交換によるバイパス比変更で、超音速機用ターボファンになってます」
越智原に背を向け、優はとうとうと説明を続ける。そのすぐ後ろに立って、越智原は優にそろそろと手を伸ばしていく。「もともとは、FTXがTRDIの単独計画として構想されていたときに、要素技術として先行開発されていたも――」
「がっ!」と、越智原が叫び声を上げてのけぞった。
「どこにさわってんのよ! こんの、セクハラ野郎!」肘撃ちの体勢から身体を戻し、仮面を吹っ飛ばして優が叫ぶ。
「恋人同士のスキンシップ――」今度は、パンチがヒット。
「一度、デートしたげたくらいで、恋人面しないでくれないっ!?」
「上官をグーで殴るかっ、ふつー! そんなこったから、本土の飛行隊から飛ばされるんだよっ」
ソーニャとイチローが、あわてて飛んできて、優を押さえにかかる。
「いーのよ、"セクハラ野郎に鉄槌を"ってのが、あたしのモットーなんだから。殴られたくなけりゃあ、それ相応の行動をしなさい」
優は、ソーニャとイチローの手を振り切る。
「大体、何しに来たのよ。ウチとの空戦訓練は週明けでしょう、今日は土曜日よ、ど・よ・う。あんたが、何もない硫黄島にいそいそと来るなんて、おかしいじゃない」
越智原は、ダメージから立ち直った。「XAAM―五Bの実射を行うことになってね、こっちも演習でケツが押さえられているから繰り上げになったんだ。知らなかったのか?」
「聞いてないわよ」
「あ〜今朝、お前さん達が上がってから連絡が来たんだ、手違いで遅れたんだと。おかげで全員、休日は取り消し。隊長は代休をくれるらしい」と、イチローが優に教える。
「そういえば、鈴木"イチロー"もここにいたんだっけな。ロシア語使いさん、久しぶりじゃないか。スホーイの担当なんて、天職だろう?」
「俺は、浩介だ。大リーガーと一緒にしないでくれないか」イチローの声も、旧交を暖めようというものではなかった。
「で、彼女が、ターディ一七の尊敬すべきパイロットというわけだな」ソーニャに目を向けた、越智原の口調が変わった。「どうも、初めまして、戦術無線呼出呼称"フラッシュ"こと越智原泰臣一尉です。明日の訓練ではお手柔らかにお願いしますよ」右手を差し出す。
「こちらこそ初めまして、ソフィア・コヴァレフスカヤです。一七一八のテストパイロットを担当しています」ソーニャは、越智原の手を握り返す。
「これを機会に、ぜひにお近づきにならせていただきたいですな」越智原は、ソーニャの手を離さない、どころか両手でソーニャの手を包み込んだ。
「あ、あの? 大尉?」ソーニャが戸惑ったような声を上げる。
「いや、なかなかにあこがれますね、すばらしい手触りだ」
優とイチローが前に出ようとした。
「大尉、母基地と違う基地に着陸して、いろいろと手続きが必要なのではありませんかな?」と、二人よりも機付長が先に割り込んだ。
「なんだ、貴様は?」相手が自分よりも階級的に下と見て取って、怒りの表情に切り替わる越智原。
「あー、すまんがいいかね?」
その場にいた全員が、一斉に姿勢を正し、敬礼を行った。越智原だけは無帽だったので、三〇度上体を折る。一人だけお辞儀をしている光景は、ちょっとこっけいである。
航空自衛隊の制服を着た中年の男が立っていた。階級章は一佐を示す、二本の横棒と桜が三つ。
「要二尉、コヴァレフスカヤ君、到着したのなら報告に来て欲しかったのだが」
「申し訳ありません、郷中隊長! すぐ行きます」入隊したての新隊員のように、必要以上にしゃちほこばって、優が応えた。
「うむ」と、郷中はそれに応えた。「もう解っていると思うが、スケジュールの変更があったしな」
郷中は越智原の方に顔を向けた。「越智原一尉、君の乗機の方で君が来るのを待っているようだぞ、旧交を暖めるのは後にした方がいいのではないか?」
「はっ!」と、再び上体を折ると、越智原はきびすを返してF―一五の方へと駆け戻っていった。
越智原の方にあかんべえをしていた優は、イチローと顔を見合わせる。
向き直って、機付長に頭を下げる。「ありがとうございました、機付長――それから、隊長」
「報告が欲しいのは、本当なんだぞ」そう言うと、郷中は部隊事務所の方へと戻っていった。
機付長の方は、何の反応も見せなかった。
「越智原一尉に、私の使ってるハンドクリーム、教えて上げた方が良かったかしら? ねえ、優?」
さっきよりも大きなため息を、優はついた。「あんたって娘は……」
――定時後、部隊事務所
優は、部隊事務所においてある自分の机で、パソコンのキーを叩いていた。硫黄島試験隊は、運用上の要求がない限りは夜間の活動はしない。だから、今は優のいる一角といった、必要最低限の場所だけに明かりが点っていた。
孤島ということもあって、硫黄島の夜はすごしやすくなる。窓から、かすかに風が吹き込んできていた。
「優」と、ソーニャがマグカップを二つもってやってくる。「仕事の方はどう? 一休みできる?」
「ん、ありがと」手を休めて優はカップ――ちゃんと、マイカップだった――を受け取った。身体を背もたれにあずけ、一口含む。口の中にとろりとした甘みが広がった。
「ロシアンティーね」紅茶にジャムで甘みが付けてある。「ありがとう」
「ホントはね、こんな飲み方は行儀が悪いって、怒られるんだよ」と笑いながらソーニャが言う。机に体重を預けた。
「今は、作法の神様には目をつむっていてもらいましょ」もう一口。音を立てて吸い込む。
「仕事、大変ね」
「自衛隊の仕事は、自衛隊員がやらなきゃ。ミグやスホーイから来てるあなた達に手伝ってもらうわけには、いかないでしょ?」
「そうか……」ソーニャにしては珍しく、何かを口にしようとして迷っている様子だ。
自分のカップの紅茶が揺れるさまを眺めている。ふと、顔を上げて優の方を見た。「ねえ、夕方の隊長の話だけど……」
"これは、報酬の先払い?"軽口を言いかけて、優はソーニャの表情に気がついてやめた。
「明日の空戦訓練での"勝ち負け"によっては、硫黄島試験隊を解散させて、機体を飛行教導隊に引き取らせるって話の方、よね?」
「うん」
「心配いらないわ、そんなことができる可能性なんてほとんどないから」
「そ、そうなの? ほら、漫画なんかじゃ……」
彼女の父親が、日本の漫画やアニメの翻訳出版を手がけているのを、優は思い出した。
優は、ぷっと吹きだした。「漫画の中じゃあ定番だけどね。漫画と現実は違うわよ」
ソーニャは眼を白黒させているという感じである。
「あなたがいた、ロシア空軍は、巨大な官僚組織――お役所だったでしょ?」
ソーニャは無言でうなずいた。
「日本の自衛隊も同じ。いや、内局っていう"背広組"――わかる? そ――"背広組"を抱えている分、もっとひどいかも知んない。漫画描きが不勉強なのか、お話がつまらなくなるからかは判らないけど、そこら辺を描いた、漫画なんてほとんどないのよね。
お役所の論理として、部隊とか任務を新しく増やすのも大変だけど、一度、認めてしまったそれをやめるのはもっと大変なんだから。一度の空戦訓練の結果でどうこうなるもんじゃないって。安心しなさい」
「うん……」
「大体、そうそう硫黄島試験隊の装備を取り込むなんて、できるもんですか」と、優は肉食獣を思わせる笑みを浮かべた。
「ねえ、イチロー、あなたの同期に米空軍へ留学――というか委託訓練を受けに行った人はいるでしょ?」
ソーニャが振り向くと、そこに、イチローがたたずんでいた。
「お茶を……」ソーニャが立ち上がりかける。
「ここはセルフサービスよ」
「いつから、そうなったんだ?」
「つい五分程前かな?」
「あ、おかわりにと思って、余分にいれてあるから」
「あ、ありがとう」と、いそいそとイチローは給湯室へと向かおうとする。
「はい」優は、彼に自分のマグカップを差し出した。「ジャムは、スプーン四さじね」
「セルフじゃなかったのか?」
「やーねぇ"立ってるものは、親でも使え"よ」
肩をすくめると、イチローはマグカップをもって給湯室へと向かった。
「んで、さっきの話だけど……イチロー、その同期から空軍と自衛隊の制度で、根本的な違いなんて聞いた?」
「いやあ? そんな話は出てなかったなあ」と、給湯室から答えが返ってくる。
「河嶋准尉、F―一五の整備担当だった時に、コープノースだかサンダーだかの派米訓練に参加したって言ってたわよね、どうだった? 向こうでもやって行けると思ったんじゃない?」優は、ペットボトルを持って入ってきた、Su―二七を担当する自衛隊所属の整備員に、質問の矛先を変えた。
「はい、おっしゃるとおりです。担当機の機付長のお考えもありましたが、ノウハウの交換の意味もあって、F―一五の整備をお互いにやりました。書類の手続きなどはともかく、整備システムとして根本的に違うとは思いませんでした。多少、航空自衛隊の方が、予算的制約のきつい分、創意工夫の度合いが強かったくらいですか」
「ね?」と、優は、にっこりと笑いながらソーニャの方に向き直った。「解る? 我が航空自衛隊は、世界で一番、米空軍との互換性が高いの」
「安田一曹、スホーイの機体の整備の担当になって、整備マニュアルを読んだときに、違和感を感じたでしょ?」もう一人、Su―二七担当の整備員に聞く。
「"技術に国境がない"という言葉がうそっぱちっだと、実感させられました」
「基本操縦マニュアルも、そうだったな」給湯室からイチローが戻ってきた。
優は、礼も言わずにカップを受け取る。
「ご苦労様」とソーニャに声をかけられて、イチローは嬉しそうに笑った。
「ごちそうになります」と、マグカップをソーニャに向かって上げてみせる。
「マルコ、そろそろ電気を点けてよ。イーゴリ、輸出したT―一〇系列のマニュアルは、ロシア空軍で使っていた物からはかなり改訂されているんでしょう?」ぞろぞろと入ってきたロシア人の中で、ミグとスホーイのマネージャーに声をかける。
電灯が、ベースオペレーションの隅々まで照らしだす。
「はい、中尉。主にインド空軍への輸出実績を基にして、数次の改訂を行っています」
「ま、この位でいいかしら? ソーニャ、我が硫黄島試験隊の目的は、研究名目で優れたロシア機を運用して、いろいろと"違った見方"を航空自衛隊関係者に経験させることにあるわけよね?」
なぜか、ソーニャ以下、全員がうなずく。「……ったく」
「でも、そのロシア機ってのは、航空自衛隊がガチガチにはまりこんでいる、アメリカ空軍システムと相容れない。準西側に輸出して、そこに合わせているはずのスホーイでもそう。日本の血が入っているとは言っても、一七も機付長やマクシムが根本的な違いを言っていない以上、同じような物。
さて、そんなロシア機を、硫黄島試験隊のように一部隊単位で隔離してそれ専用の体制を整えるならともかく、他の航空自衛隊機と一緒に運営するとなったら、大変よぉ〜〜〜。アフターサービスや飛行試験支援という名目でここにいる、みんなの――」と、優は三々五々ベースオペレーションに集合してきた、各機のパイロット、機付長、管制官、整備支援の各部門長、幹部事務職員に手を振った「――ほとんどを、自衛隊員でまかなわなくちゃいけなくなるんだから。しかもお役所的に」
「うーん」
「安心しなさい、別の意味でもそんなのは無理。大体、戦技競技会ならともかく、この部隊で空戦訓練のの結果を云々すること自体がナンセンス! プレッシャーは忘れて、いつも通りに平常心でやりなさい。
大体、硫黄島試験隊ってそんなに負けてた? ニコライ」
「いや? 全体的な勝率としちゃあ、六対一でこっちが多いと思うんだ。勝ち方が悪くて、訓練効果が上がらないってんなら話は別だが」と、ロシア人の主任パイロットが答えた。
パンパンと、音を立てて優が両手を叩いた。
「さあさ、この話はおしまいよ。明日も早いわよ、さっさとしちゃいましょう」視界の片隅で機付長と隊長が、小声で会話しているのを優は見ていた。「隊長、お話し中すみませんが、そろそろお願いします」
「……君達は、こういう時だけは団結心を発揮してくれるんだな。私は、嬉しくて涙が出てくるよ」と、ベースオペレーションに集まった人数を数えた郷中の言葉に、笑い声が応えた。
「明日は、通常の訓練飛行ではなく、今日到着した飛行教導隊のF―一五、四機と空中戦訓練を行う。フライトは午前午後の二回。班長、機付長、搭乗割りと機体の割り当てをお願いします」
パイロットを統括する飛行班長の八坂三佐が、イスにかけたままで口を開いた。「明日の空中戦訓練は、午前午後の各一回、午前は〇九〇〇離陸、午後は一四〇〇離陸、ブリーフィングはそれぞれ、一時間前。高々度滞空管制機の離陸は〇七三〇」優が、その言葉の要旨をホワイトボードに書き込んでゆく。
「HALO、笹井、ネットワークは要。搭乗者は、午前がコヴァレフスカヤ、(ドーミトリイ)カミンテール、鈴木、(アンドレイ)ルブリョフ。長機、鈴木」
「午後は、カラムジン、ラジーシチェフ、ロモノーソフ、北。長機カラムジン、よろしく頼みます、主任」ちょっと、オペレーションがざわついた。
ニコライが大きくうなずく。
「ずいぶんやる気ですね、班長」と、パイロットの名前を書きとった優がまぜっかえす。パイロット的には、ほぼ最強の布陣できたからだ。
「念には、念だ。勝つにこしたことはない。一七一八を午前にしたのは、向こうの希望を入れている。一刻も早く一七一八とやりたいそうだ。機付長には、無理をしてもらうことになるが――」
「こんなのは、無理のうちに入らない」と、一七の機付長であり、整備員の長でもある彼はむっつりと言った。
パイプ椅子から立ち上がる。「今も言ったとおり、一七、一八の他は、〇八、一〇、一二、一五を出す。予備機一三。HALOは一九を出す。〇五、一一、一四の担当整備員は、各機の手伝いに回って欲しい。
ヘルメット照準装置、光学捜索追尾コムプレクス、機体構造の点検は念入りにするように」機付長は、ぐるりとベースオペレーション内を見回した。だれも、何も言わない。
うなずくと、彼は席に戻った。
それを待っていたかのように、パイロット一人が手を挙げる。「大佐、飛行教導隊は航空自衛隊最強のパイロット達だと聞きましたが、本当ですか?」
「飛行教導隊については、要君、君から説明してくれたまえ」
「はい」優は、ポケットから小型のPDAを取り出した。鈎の付いた棒をつかって、スクリーンを下ろし、その周りの明かりを消して、部屋を薄暗くする。
優がPDAを操作すると、不気味な、額に赤い星を埋め込んだドクロの絵が映し出された。
「これが飛行教導隊の部隊マーク。これを見ても解ると思うけど、この部隊はソ連戦闘機のふりをして、一般部隊の空中戦戦術を鍛えるために編成されたわ」
優が、PDAのボタンを押すと、スクリーンの映像は、航空自衛隊の組織図に切り替わった。航空幕僚長を脇に従えた防衛大臣をトップとして、さまざまな部隊がピラミッド状に連なっている。その線の一つが赤く変わった。
その線は、"航空総隊"と書かれた箱を通り過ぎ、他の部隊をはさむことなくそのまま"飛行教導隊"と書かれた部隊に繋がっていた。「そういう性格の部隊だから、空自の実戦部隊を束ねる航空総隊の直轄部隊という扱いになってるの――実態は違う部分もあるけどね」
優はさらに画面を切り替えた。今度は、パイロットスーツを着た男たちの顔写真が並んでいる。「これは、飛行教導隊の戦闘機パイロット達のデータ。今の所属パイロットは一八人、これを見て気づくことは? 自衛隊員は答えちゃだめよ」
ソーニャに自然と視線が集まった。
皆の期待に違わず、彼女は手を挙げた。「みんな、中堅以上のパイロットだよね、優」
「大正解! 自薦・推薦の違いはあれど、各部隊から実績のある、選りすぐりのパイロットを集めてるの。つまり、若手がいない。
ニコライ、ロシア空軍の戦闘機部隊でも、基本しか知らない若手を教育するのは、各飛行隊に任されているわよね?」
「ああ、そうでないと、飛行隊全体のレベルが維持できないからね。冷戦の終わった頃からつい最近までは、燃料不足でうまくいっていない所はあったから。悪名高いレシピノートは、その頃に編み出された苦肉の策さ」
「けっこう、それに時間取られたでしょう?」
「もちろん。こっちも飛べないから、時間が有効に使えない、物覚えの悪い奴は積極的に切り捨てなければならなかった。私にとっては聞いた話でしかないが、共産党にコネのあるパイロットがそれだと、えらい事になっていたらしい」
「まあ、今の硫黄島試験隊は、その必要がないから、密度の濃い訓練をしているわけだけど――」
「要君、あくまで飛行試験だ」と、郷中がツッコミを入れる。
「――あー、はいはい。飛行試験をしているわけだけど、それと同じ事が飛行教導隊にも言えるわけ。大体、長くて四年くらい在籍しているらしいけど、その間、航空自衛隊パイロットの年間飛行時間である約二〇〇時間全てを、空戦の訓練と指導にあてているから、技量が高いのは当然でしょう。
装備もね、優遇というか特別扱い。日本版中距離アクティブレーダーホーミングミサイル、AAM―四の配備がやっと完了したばかりだけど、教導隊専用機はそれに先行して、アメリカの中距離アクティブレーダーホーミングミサイルを装備しているし」
「自衛隊にしちゃあ、珍しいね」
「ロシア版AMRAAM搭載機のふりをするために必要だということらしいわ」
何人かがうなずいた。
「R―七七のメーカーは売り込みに来なかったのかい? あれはそもそも輸出を主眼にしていたから、喜んで売ったと思うがね」
「イーゴリ、商売熱心は結構だけど、ミグとスホーイを持ち込むにあたっての隊長の苦労を考えたら、そんなこと気軽に言えないわよ」
「要君のいう通りだ。売り込みには来ていたらしいがね。F―一五を装備可能に改造するための作業が多すぎて、とても話にならなかったそうだ」
「でまあ、装備面での優遇措置は、今度のXAAM―五Bの先行配備にも現れているわけだ」
画面がミサイルの写真になった。先を丸めた細長い円筒形の中央部に、前後に細長い安定翼が付き、さらに小さい翼が後端に付いている。先端は光沢のある黒、後ろは黒ずんだ銀。
「これが、飛行教導隊が積んで来ている、XAAM―五B。配備が始まっているAAM―五と同じく、CCD素子を使った赤外線画像誘導、パターン認識による発射後ロックオン機能、推力偏向方式による高機動性能を持ってる。
さらに、このB型ではロケットモーターの改良で射程を延長、視線追尾照準に対応、パターン認識はべつとして、ここまででやっとあんた達のR―七三に追いついたって所。それに加えて、データリンク装置――ADMを積んでいるので、発射母機以外の機や空中早期警戒管制機の情報で戦闘が可能になっているという、もうなんでもアリみたいなミサイルね」ミサイルの前の方に付いているアンテナを、指示棒で示しながら、優は説明した。
「そこら辺の戦闘機でも、MIG―三一のような共同戦闘が可能になるということか?」
「そうなるわね。将来的には、ミサイル間で連係動作をさせることも考えているみたいよ」
「弱点は?」
「探してみたけど、まだ解らない。試験で折れた事例があるから、強度がR―七三ほどじゃないのは確か。論理的に考えて、データリンクが弱いのも確かだけど、それを利用できるかどうかは不明。まだ実射テストの数が少なくて、どれだけの事ができるか/できないか、誰にもわかってないのよね。空中戦統裁は計画値を使うんでしょうよ。
原理的に、光量変化型閃光弾は有効。武器係は、従来型を詰めないようにしてよ」
「優、さっきの名簿の中で、誰が硫黄島に来ているんだ?」ニコライが、声を挙げた。
「いい質問」優は、画面を名簿に戻した。「今日、硫黄島に来たのはこの、越智原、井上、柏原、森、岩崎、畠山、滝上の七人。この中で一番腕がいいのが、越智原と言われてるわ。で、明日の長機は越智原だと思う」
「階級が逆じゃないか?」優の上げた六人には、越智原より階級の高い者が数人いた。
「教導隊は、任務に応じて、階級とは無関係に指揮権順位を決めるからね。向こうが"勝ち"に来ているようなら、越智原を長機に当ててくると思う。
でも、それがつけめでもあるんだけど――瞳?」
「出番なしかと思ったわよ、優」航空自衛隊の制服を着た女性が立ち上がって、CD―ROMを取り出した。「これ、頼まれてた航跡図」
「サンキュ、教導隊に言っても、データは絶対出さないだろうから、助かるわ」
脇に控えていたイチローが、手を伸ばしてCD―ROMを受け取った。それを傍らのパソコンにセットする。
優がPDAをしばらくいじった後、画面が名簿から、何色かの曲線が複雑に絡み合う図形に変わった。
「瞳が、硫黄島のレーダー記録から、ターディ一七の着陸直前の航跡を起こしてくれたのよね」
拍手が起こって瞳の作業に感謝の意を表した。
優は、しばらくその航跡図を眺めていた。と、うなずく。
「思った通り。大体は、みんなもソーニャから聞いていると思うけど、ここで――」優はターディ一七の航跡を指示棒で指した。慣れた眼なら、ちょうどそこでターディ一七の速度が極端に落ちていることを、読みとることができる。「――ソーニャが"プガチョフズ・コブラ"をかけて敵第二編隊をオーバーシュートさせたんだけど、第二編隊のさらに前にいた第一編隊の"コブラ〇六"こと越智原機が、急旋回してターディ一七の後ろに戻ってきていたのよ」
優は、航跡図の一角を拡大した。それにもとなって、位置と速度だけでなく高度も読みとれるようになる。
「見て、レーダー航跡だと折れ曲がっているようにしか見えないけど、高度がかなり上がってる。ターディ一七が第二編隊をオーバーシュートさせたとたん、反射的に急上昇しながら反転したんだと思う。
これって、このときのF―一五だと最善手なんじゃない? ゲンブ、イチロー?」
イチローは、隣にいた同僚の北とゼスチャーを交えて話し合っていた。
つかつかと、歩いていった優が指示棒を伸ばして、イチローをつつく。「ど・う・な・の」
「やめろよ」指示棒を払いのける。「今、北とも話したんだが、多分優の言うとおりだ。荷重《G》はかなりつらいものになるけど、単純に水平急旋回するよりも早いと思う」
「ん、なるほど。まあ、うちの連中が話し合わないと打てないような手を――」
「おいっ!」イチローは声を上げ、北は苦笑いした。
「――越智原は直感的にできるわけ。でも、見て。第一編隊の二番機は、その動きについていけてない」
優が指示棒でなぞったとおり、そこで第一編隊は二機に別れていた。二番機も、第二編隊の方に戻ろうと上昇旋回を始めているが、反転完了は越智原機にかなり遅れていた。
「これが、教導隊だから第二編隊の方に戻ろうとしているけど、管制官の誘導もないし、普通のパイロットならこのままはぐれちゃう所よね」
「教導隊は、これを弱点と認識しているのか?」
「どうかな? こんな事を頻繁にしていたら、越智原が教導隊にいる資格を失っているだろうから、認識していないと思う」
「いや、越智原の事だから、結果論としてそれが最適だと周りを納得させているのかも知れない」
「教導隊って、そういう所だっけ?」優は、航跡図を見直した。彼女自身が解説した通り、これが、教導隊にいる技量抜群のパイロットだから、二番機は遅れながらもついてきている。しかし、編隊をはぐれた後の、再集合の難しさや相互支援ができなくなった時の戦力低下は、同乗して空戦訓練に参加した経験から、優にも実感できる事だった。
――"教え導く"立場の人間がそんな事でいいのかしら? 確か、米軍には「それ」を教育するための、ゲームを利用した非公式カリキュラムがあるらしいけど……。
「おれ達に聞くなよ、"飛行教導隊"への転属を断った口なんだからな」視線を向けた優に、イチロー達は首を振った。
「その理由にした女の子に、ふられるとも知らないでね」と、ニカッと笑いながら、優がイチローをからかう。
「おいっ!」顔を真っ赤にして、イチローが声を上げた。
「優、よしなさいよ」さすがに、ソーニャが注意する。「ふられるの予想できるくらいなら、手を打てたでしょ?」が、さらにとどめをさしている。
「イチローに聞いたりした、越智原なら、二番機の技量は織り込んでいると言っているのかもしれないな」と、北が言った。
「私の経験で言わせてもらえば、それは危ないな」と、ニコライが口を挟んだ。「若い連中は、そういう織り込みをしないで、見た目の派手さに走る傾向にある。そういう行動をしたら、教育のためにわざとピンチに陥ってみせるくらいの配慮がいるぞ。それをゆる――」
「ん〜、とにかくドッグファイトになったら引っかき回して、引き離すようにしむけるという事になるよね? いつもの通りじゃないの?」とソーニャが言う。
「それはそうなんだけどね」盛り上がりかけた議論に水を差された感じになったので、優とニコライは苦笑いした。
郷中が再び前に出てきて、クリップボードを取り上げた。「この後に作業を抱えている諸君もいるだろうから、後は有志の諸君で話し合ってくれたまえ。ただし、翌日の業務に差し支えない範囲で頼む」話が長引きそうになって、いらいらしはじめていた整備員達がほっとした顔つきになる。
「さっきも言った通り、明日は二本、空戦訓練を実施する。二本とも想定は制空戦闘、つまりお互いが対等の立場で空戦する。ルールは無制限、ミサイルは中射程、短射程とも搭載、HALOによる中継をセッティングしたので、空中戦機動評価装置で全面的に訓練を統裁する。地面の反射波に機体を紛れ込ませる戦術も使えるぞ。もっとも、地面は平面扱いだがな」
うんうんとうなずくパイロット達。
「機付長、空中戦機動評価装置のインターフェイスとして、改良型デブリーフィング支援装置の搭載もお願いします」
「了解した」指示に、機付長はうなずいた。
「それでは、ひとまず解散とする。諸君、ありがとう」
書類仕事を終えた優は、机の下に放り込んでおいたバッグを引っぱり出した。その中にある、岐阜でマニア達に貢がせた品々の中から、包装紙にくるまれたせんべいの箱を取り出した。軽くため息をつく。
――しょうがない。
同じものをもう一つ取り出す。
帽子をかぶって部隊事務所を出ると、優は灯りの洩れる格納庫の方に向かった。
真新しい格納庫の中には、硫黄島試験隊が使用している一七一八の他に、航空自衛隊というか、技術研究本部がリースしているスホーイSu―二七SKM、複座型のSu―二七UBKM、そしてデータリンク中継用として二機の高々度長時間滞空機としてスケールドコンポジット・プロテュースが整備を受けている。全部で一二機と、一般的な戦闘機部隊に比べれば半分程度の数だが、世界有数の大型戦闘機であるSu―二七や、トンボのようなHALOが入っているので、中は手狭だった。
壁際のスポットクーラーからダクトを引いてきて、涼を確保しようとしているが、汗をぬぐう整備員達の動きからすると、それほどの効果はないようだ。
格納庫の隅に休憩兼事務作業場がしつらえてあるので、優はそこに向かったが、そこには先客がいた。
「あんた、なにしてんの?」
「え……? みんな大変だから、冷たい飲み物でも、と思って……」優の厳しい視線に、ソーニャはもじもじと体を動かした。
「ソーニャ、あなたの仕事は何?」
「えっと、一七一八のパイロットです」
「明日は、何時からフライトなの?」
「離陸、〇九〇〇です」
「起きていていいの?」
「優はどうなの?」
「私は、一本目と二本目の間に、機内で昼寝ができるもの」
「そっか……」視線を泳がせるソーニャ。「明日は優が一緒じゃないんだっけ」
「コラ、今日、岐阜までつきあってあげたでしょうが」
「それなんだが、要君」と、郷中がやってきた。「明日、コヴァレフスカヤ君の機に同乗してもらいたい。君の代わりに、塚本君にネットワークを担当してもらう」
「はひ?」と、声をあげる優。「いいんですか? 塚本は、まだ搭乗資格がないから遠隔操作をする事になりますし、HALOの一人乗務は禁止……」
「無人にして、笹井君には地上パイロットをしてもらうことにした。
君に、一七へ乗ってもらったほうが、いろいろと都合がいいだろうと、班長と機付長とで話をしたんだ」
――ソーニャは、後ろに人が乗ってないと始末におえない猛獣かい!?
「……わかりました、ご命令とあれば」優は、敬礼。
「うむ、では頼んだぞ」
優は、郷中の背中に、"あかんべえ"をした。ソーニャはうれしそうである。
今度は、汗をぬぐいながら機付長がやってきた。
腹立ち紛れに、優は盛大に音を立てながら包装紙を破り、中のせんべいを手近の皿の中に流し込んだ。「どうぞ、岐阜で手に入れたお菓子です。お口に合うかどうかわかりませんけど」
「お茶を入れたので、どうぞ」
「うむ」機付長は、ソーニャの差し出す露の浮いたグラスを受け取った。皿からせんべいをつまんで口に運ぶ。
「中尉、予定を覆されて腹を立てる気持ちは解らなくもないが、我々としては、明日の訓練には全力を投入するべきだと考えている。少佐の言っていた通り、念には念というわけだ」
「もしかして、硫黄島試験隊が解散することになると、本気で考えておられるのですか?」
「ユーイ・ヒロシヴィチ、君は政治的な障害があるから、硫黄島試験隊を解散させることはできないだろうと言っていたが、逆に、政治的な障害を克服してしまうとだな、どんな不合理なことでも通るという事を忘れていないかね?」教え諭すような口調で、着付長は優に言った。
「つまり、そういった根回しが行われている可能性がある、と?」
「私は、自衛隊の内部の事は知らないが、過去の我が国で行われた技術開発を考えると、そういった事はあり得なくはないと思う。ソーニャ・シンサキが噂を聞き込んできたと言うことは、あー、"火の無いところに煙はたたぬ"ということではないかな?」
「機付長に経験を持ち出されると、私には何も言えなくなっちゃいますよ。初陣が朝鮮戦争ですからね」降参とばかりに、優はおどけて両手をあげた。
「年寄り共のいらぬ心配であればいいんだが……。君のような、とがった言動をしていると、影で何かされる場合もある」
「ときどき、私たちの戦史課とか旧西側の航空史家に、機付長の存在を密告したくなるって話は、しましたっけ? きっと、迅速かつ丁重に拉致って、記憶を絞ってくれると思いますよ」
「それは困るな、まだそういう人に頼る生活はしたくない。日本人ほどではないが、私は整備の仕事が好きなんだ」
「わかりました、密告の必要がないよう、明日は全力を尽くさせていただきます。ソーニャ、機付長に任せて、私たちは寝ましょう。こんな時間だし」と優は、腕時計に眼を走らせた。
「任せておきたまえ」
「ちょっと、ソーニャ! もう給湯が止まる時間じゃない、急いでお風呂に入らないと!」
「お茶とお菓子は、みんなで分けてくださ〜〜い」優に引っ張られるソーニャの声が、ドップラー効果で格納庫に残った。
後で休憩になった時、若い整備員達が優にうらみの声を上げたのは、言うまでもない。
昔の硫黄島では水は貴重品だったが、今は電力を供給するコージェネレーションシステムに、海水淡水化装置が組み込まれているので、生活上の不便は感じない。もっとも、夜間になると電力消費量の減少に合わせてエンジンの出力が落ちるため、水とりわけ温水の供給量が減ってしまうのはどうしようもない。
「ぬる〜い」シャワーを浴びながら、ソーニャが文句を言った。
「ま、湯船のお湯はまだ熱いから、我慢しなさい」湯船につかった優が言う。
もう少し早ければ熱いシャワーを使えたのだが、タンクに残っていたぬるま湯のシャワーで我慢するしかなかった。温水供給時間に合わなかったのである。
自衛隊の女性隊員には、潜水艦と同じく、硫黄島での常駐勤務が認められていなかったのだが、いろいろとややこしい話があった末、優達試験隊のための施設増設にともなって女性専用の施設が建設され、その制限は撤廃されていた。ただ、決定が遅れたせいで、浴室は女子宿舎とは別の棟に設計変更で押し込まれる形になっていた。
原子力空母ニミッツの事例もあり、いろいろと心配をする向きもいたが、今のところは大きな問題なしにここまで来ている。まあ、ナニをするにしても、空母と違って硫黄島ではいろいろと不便が多いせいもあるのだろうが。
「だれかさんが、格納庫でのんびりお茶していなかったら、熱いのが浴びられたのよ」
「う〜」
優は、湯が流れてゆくソーニャの背中を見ていた。さすがに血のなせる技、透き通るような白い肌である。ちょっと、うらやましい。さらに言えば、ウェストのあたりがきれいにくびれていて、腰回りに余分なものはついていない。
「お先に」暗い気持ちになった優は、浴室から脱衣場に出た。
「ん」優に代わって、ソーニャが湯船に入った。
ソーニャが、調子が外れたアニメの主題歌を歌い出したのを聞いて、体重計に乗っている優の機嫌は、さらに急降下していた。すこしでも助けになればと、下着もつけずに乗ったのだが、そこに示された数字は認めたくない現実を示していた。
――うううう、運動をもう一セット増やさないと駄目?
肩をがっくりと落として、下着をつけはじめた。
「優、ここにいたのか」なんの予告もなしに脱衣場の扉が開いて、越智原がずかずかと入ってきた。
「……キャー――ッ!!」意識的に大声を上げて、優は手近の脱衣カゴやらなにやらを、越智原に投げつけた。
飽和攻撃をくらって、たまらず越智原は脱衣場の外へと退却した。
「何があったの! 優」バスタオルを巻いたソーニャが浴室から飛び出してくる。
「痴漢よっ!」
「違うっ!」扉の外から越智原の怒鳴り声。
「女風呂に土足で踏み込もうとしといて、そういうこと言うわけ?」
「中にいるのは、お前だろうが、別に――」
顔をのぞかせた越智原の顔面を、また脱衣カゴが直撃する。「その思いこみをなんとかしろっ!」
「まだとんがった態度取るつもりなのか? いい話があるんだがな」
「……はン、何を言いだすかと思ったら」越智原の話の行き先を察した優の声に、トゲが入り込んでくる。ソーニャの手が、優の肩に置かれた。
「お前の実力なら、こんな孤島でロシア人共の相手で遊んでなくても、もっとふさわしい仕事があるだろう。お前が希望するなら、口添えしてやれる」
ソーニャの手に、きゅっと力が入った。優は、その上に自分の手を重ねてやる。
「で? その代償は何になるっての? あんたとつきあえってのはまっぴらごめん。そんな冗談は、独り寝の時にでも言ってなさい。
お断りよ、私は、けっこうこの配置が気に入ってるんだから」
「何があった!」と、足音も高くイチロー達が駆けこんで来た。設計変更で、女子用の風呂をおしこんだのは、試験隊の宿舎だったのだ。
「ぐわっ!」と、越智原と同じく優の投げた脱衣カゴがヒット。
「あんたたちまで入って来るんじゃないっ!」
よろけたイチローに引っかかって、ニコライ達が転倒する。
「大丈夫?」と、ソーニャが彼らを助け起こそうとする。
「ソーニャ、よしなさいっ! 今はやめときなさい」
優の言う通り、鼻を押さえたイチローが慌ててソーニャから逃げ出そうとして、事態を悪化させる。
「ぶざまだな、イチローよ」越智原が、それを見下ろしながら冷笑する。
「お前ら、明日の空戦訓練は覚悟しとくんだな。お前さん達を徹底的に叩きのめして、こんな部隊を維持しておく価値など無いことを、証明してやるからな」
「ハン、硫黄島試験隊の解散を画策できるなんて、航空学生出身にしちゃ、偉くなったもんじゃない。誰かの入れ知恵じゃなきゃいいんだけど?」
「ど、どういう意味だっ! お前も防衛大学出身じゃなきゃ、上に立つべきじゃないとかいう考えなのかっ!」
「まさか、あんたが偉いってのが気に入らないだけ。それより、勝てると思ってるのが笑えるわ。今日の空戦で、ソーニャに手もなくひねられたくせに」
「それは、俺じゃない! 手もなくひねられる? "プガチョフズ・コブラ"か? あんなのは邪道さ、不意打ちだったからうまくいっただけだ。一対一ならともかく、複数機の空戦で役に立つものか。今日だって、オレが後ろを取ったじゃないか。
フランカーのような高性能機は、おれたちのような正統派のパイロットが使ってこそ生きてくるもんだ」
「まあ、その自信はいいだろう。それならそれで低性能のF―一五で勝ってみせてくれ。言っとくがR―七七のレンジは長いぞ」やっと混乱を脱したイチローが、越智原に言う。
「もとよりそのつもりだ。お前だけじゃない、ロシア人どもに使いこなせてるわけがないからな」
越智原は、ソーニャの方に顔を向けた。「どうも、お見苦しいところをお見せしましたが、明日はこちらも全力でかからせていただきます。
もしかしたら、契約途中でお帰りいただくかも知れませんが、今のうちにお詫びしておきますよ。もっとも、一七一八の件で口をきいてさしあげられるかもしれませんから」
そういうと、越智原は立ち去った。
「イチローっ! あんたの所に塩くらいあるでしょう、持って来てっ!」
「やめてくれよ、おまえさんの事だから、直接越智原の口にねじ込みかねん」イチローが真顔で言った。
「なんとまあ……聞いていた以上の個性だな」ソーニャの僚機、一八のパイロット、ドミトリ・カミンテールが言う。
「優、そんなに私たちの空戦って、駄目なのかな?」
「気にしなさんな、今までの連中と一緒よ。あたし達とやったことないから、でかい口を叩けるだけ。スホーイには、あのテの反応に対する小話があったでしょう? ニコライ」
「こんなのかい?
Su―二七がコブラをやってみせた時に、西側のジャーナリストは我々に聞いた。
"あの機動には、どんな戦術的意味があるのか?"
続いて、クルビットをやってみせた時に、西側のジャーナリストは我々に聞いた。
"あの機動には、どんな戦術的意味があるのか?"
Su―34が機内にトイレを備えていると聞いた時に、西側のジャーナリストは我々に聞いた。
"その装備には、どんな戦術的意味があるのか?"
――ミグの諸君には、こういうのはないだろ?」
ニコライに言われて、ドミトリがうなずく。
「ミグとスホーイの確執はおいといて、そんなものよ、ピントを外しているか、妙に貶めるような評価が多いのよね」
「うん、日本は、我々が戦闘機を公開しはじめた頃は、なかなかにいい線をついていたんだが、最近は良くないよな」と、ニコライ。
「隊長に雑誌のスクラップを読ませてもらったが、実際に乗ってる人くらいだったな、まともなことを書いているのは」イチローが言う。
「そうそう」
「優もイチロー君も、乗ってるじゃない」ソーニャの指摘に、優もイチローも詰まった。
「すみません……」
「はいはい、あたしも信じてました」優は"お手上げ"とばかりに両手を上げる。
「彼もそういう評価をうのみにしているんだろうなあ、"コブラをした途端、相手に僚機がいたら、それに撃墜されてしまうだろう"と言うのをね。ふつ〜、こっちにも僚機がいるって思わないのかな? 我々だって頭があるんだ、二対一なら逃げる算段をするし、"プガチョフズ・コブラ"を使うなら、その得失を生かせるように戦術を組み立てる」
「ドミトリの言う通りだ。ま、我々もその点については宣伝につとめていたわけではないけどね」ニコライが、イチローをひじでつついてニヤリと笑った。「君たちは別だが」
「越智原があそこまで自信過剰でいてくれるなら、こっちにとっては好都合ってものよ。明日は思い知らせてやろうじゃない!」優は、ソーニャの尻を、音を立ててはたいた。
「ところで――」優は、イチロー達に剣呑な視線を向けた。「あんたたちっ、いつまでここにいるつもりなの? 警務隊を呼ばれたい?」
イチロー達は、慌てて女風呂から退散した。
翌日曜日朝、機付長達は見事に飛行機を仕上げてきた。健闘をたたえて、パイロット達は朝礼で、彼らに拍手を送った。
当たり前だが、訓練なので飛行前の打合せは、空戦訓練に参加する全員が集まって行われる。
試験隊の部隊事務所に飛行教導隊の関係者がやってくると、昨夜の越智原の言動が伝わっていたので、静かな敵意が彼らに向けられる。
だが、越智原自身はそれを気にした様子もない。
飛行前の緊張もあって、極めて事務的に、淡々と打合せが行われて行く。
顔合わせのあいさつが行われた後、気象状況、管制状況――朝一番に行われるモーニングレポートでも伝達されるのだが、確認として――訓練のタイムスケジュール、空中戦の場となる空域制限、ルール、訓練開始への手順、無線の手順、緊急時の手順等々の確認。書類が配られ、重要な事項については、各人が太ももに取りつけるニーボードにメモを書き込んで行く。
最後に、硫黄島試験隊の重要な装備である、新型デブリーフィング支援装置について、飛行服を着込んだ優が簡単に説明する。
「これは、米軍が使用している空中戦機動評価装置を、より機動的に、安価に実現しようという試みのなかで生まれました。
短射程ミサイルの訓練弾を改造して、GPS受信機、ジャイロ、データレコーダー――までは、飛行教導隊で使用している従来のデ|ブリーフィング支援装置《DBSS》と同じですが――これらに加えて機体情報収集装置、模擬信号発振装置、データリンク装置を追加しています。
各機に搭載した新型デブリーフィング支援装置のデータリンク装置と硫黄島にあるサーバーがHALO経由で、ある種の無線LANによるネットワークを造ります。
これで、各機のやりとりした情報に基づいてサーバーから送った指令に従って、模擬信号発振装置が搭載機側の電子機器に、"物事が実際に起きているかのような"反応を発生させるのです。
搭載機の電子装備や、そこに組み込まれたソフトが対応しているかによって、その反応の度合は違いますが、飛行教導隊の皆さんの機体には、整備のご協力で対応ソフトを追加しましたので"自分の眼で見る以外のあらゆる反応"を模擬できます」
ブリーフィングを終えると、ソーニャと優は装具を付け、駐機場に引きだれた一七へ歩く。本土は秋だが、南の島である硫黄島にふりそそぐ日差しは強く、装備を着込んで歩くだけで、優の顔からは汗が吹き出してくる。機体の周りで待っている整備員達も、Tシャツ姿になっていた。
「暑い〜」
一八を操縦するドミトリが、合流してきた。
「もう、帰ってからのシャワーが恋しくなってるよ」ドミトリも、滝のように汗を流している。
「装備、ほどきたい〜」優は、隣をあるいているソーニャの方に眼を向ける。「よく我慢できるわね、あんた」
「そうかな……?」ソーニャには、首を傾げた。「まだ、大丈夫だよ」
「う〜、早くコックピットに入って、エアコン〜〜」
イチローが追いついてきた。表情はそれほど暑そうではないが、汗は吹き出していた。「がんばりましょう」そう言ってから、顔が赤くなる。「これからもずっと、一緒にやって行きたいですからね」
足を速めて、自分に割り当てられた機体のほうへと別れて行った、イチローを見送ってソーニャがぽややんと言う。「イチロー君、顔が赤かったけど、やっぱり暑いのかな」
優は、暑さを一瞬忘れて、吹出した。
「いやいや、イチローも前途多難どころじゃないな」ドミトリも笑っている。
イチローは、彼の僚機をつとめるアンドレイ・ルブリョフに言葉をかけると、自分に割り当てられた、ターディ〇八に走っていく。
「うわ〜〜〜〜〜暑そう」と、優はイチローを見ている。たとえ緊急発進だったとしても、こんな時に走るのはごめんだ。
その間に、ソーニャはターディ一七の飛行前点検を始めていた。機首左側から始まって、右回りに異常がないかを、熟練した眼で調べてゆく。
異常なし。
「一七機付長、ソフィア・コヴァレフスカヤ、機体を受領します」機付長の前に立って敬礼する。
「機体を引き渡します」敬礼を返した後、機付長はクリップボードに挟まった整備記録を差し出した。
定められた場所にサインを書きこみ、ソーニャはクリップボードを返した。
「行きますか」それを待っていた優は、乗降用はしごに脚をかけ、コクピット後席へ乗り込む。ソーニャもすぐに前に乗り込んだ。
優は、二人の後からはしごを上ってきた機付長から、ノートパソコンを受け取った。計器板の上に追加されたラックにそれを固定する。次に、シートベルトを締めて、自分の身体をロシア製のK―三六型射出座席に固定する。ヘルメットをかぶり、マスクをつけ、マスクとGスーツのホースを接続。
バルブを開いて、冷たい酸素が出てくることを確認すると、いったんマスクを外した。
もう、慣れたものである。
「中尉、注意してくれ」と、いつもの真面目くさった機付長の言葉。
「もちろん、ソーニャの足は引っ張らないわよ」と、これもいつもの優の答え。
「通話装置チェック、優?」ヘルメットのレシーバーからICSを通したソーニャの声。
優はマスクを顔に押し当てた。「こちら優、こっちはオーケー、受信に問題なし」
「そっちの声も良く聞こえる、オーケーね」
機付長は、下に降りるとはしごを外した。
「スコーピオン・グランド、ターディ一七、エンジン始動許可を求めます」
[許可する、ターディ一七]即座に、許可が返ってきた。
内蔵した補助エンジンを始動、その動力をエンジンスターターに導く。外部電源供給切断。
地上の整備員と、"エンジン始動"についての手信号を交わす。
右エンジン始動、油圧ポンプが作動を始め、自重で垂れ下がっていたフラップや尾翼が正規の位置に復帰する。
左エンジン、始動。ソーニャは、右手をコクピットの中に引き込んで、操縦桿を握った。
舵を動かしてみて、動作を確認。
[一七、作動に問題なし]機付長が、有線通話装置で話しかけてくる。
「一七、了解」
ヘルメットを通してさえ、他の機のジェットエンジン音が聞こえてくる。
教導隊のF―一五もエンジンを始動したらしい。空気取り入れ口が、動いていた。
[編隊長よりターディ編隊、点呼を取る。ターディ〇八、イチロー]編隊長を務める、イチローが点呼を取る。
[一〇、バルトリーヴ]とアンドレイ。
「一七、ソーニャ」とソーニャ。
[一八、エダーマエ]とドミトリ。全員が、戦術呼び出し符号を併用して返答した。以後は、編隊内の通信ではこれが使用されることになる。
[出発準備は?]
[ターディ一〇、完了]
「ターディ一七、完了しています」
[ターディ一八、チョークをはらえばいつでも行けるぞ]
[〇八了解、出発する]
ソーニャは、手信号を整備員達に示した。「チョークを外してください」
[了解、ソーニャ・シンサキ、武運を]機付長が、同じ手信号を返す。
機付長の下で一七を担当する整備員達が駆け寄って、タイヤにかませていた車輪止めの黄色い棒を取り外した。それを機付長に差し上げて示す。
機付長は、一七に駆け寄ると有線通信装置のプラグを機体から引き抜いた。手信号でソーニャに出発をうながす。
[ターディ、出発を許可します。滑走路〇七へ]
[〇八よりターディ、〇八の出発から所定の間隔をとって続け。滑走路〇七]
[一〇]
「一七、滑走路〇七」
[一八、了解]
ソーニャは、操縦桿に取り付けられているブレーキレバーを一度手前に引き、ゆっくりと力を抜いてブレーキをゆるめた。
一七がするすると動きはじめる。方向を変えて、イチロー達に続く。
コクピットのそこかしこから、白い湯気が噴きだした。それはキャノピーの中で渦を巻き、溢れ出す。優がエアコンを全開にしたせいだ。
「うー」優は手をかざして冷風を導こうとしているが、それだけでは満足できていないらしい。
滑走路手前で、最後の点検とともに、射出座席やミサイルの訓練弾に付けられた安全ピンを取り外す作業を待つ。
「キャノピー閉めるよ」
「ん」
作業が一足先に終わったので、優は、左前にあるレバーを押し込んだ。油圧が抜けて、キャノピーが降りてくる。
やっと、冷気が顔にあたるようになった。
優は、ほっとため息をつくと、パソコンのスイッチを入れた。
液晶画面に、ざっと起動画面が流れた後、空戦訓練での審判役をはたす、空中戦統裁ネットワークに自動的に接続された。そこに現れた表示を一瞥し、異常のないことを確かめた。「こちら優、つかもっちゃん、どう? そっちは?」
優は、データリンクを利用した音声メッセージを、部隊事務所にいる塚本へ送った。
[要さん、いったい――ああ、地上のアクセスポイント経由なんですね]商用ではないので、あまり音質のよくない声が返ってくる。
「そそ、後はよろしく頼むわよ、離陸したらHALOのサービスエリアに入るまでは切れてるからね」
[了解です、おまかせください]
優が話している間に、イチロー達のほうの作業も終わった。イチローのSu―二七を先頭に、滑走路へと入っていく。
[ターディ編隊、離陸を許可する]
[ターディ〇八、了解。〇八よりターディ全機へ、離陸する。一〇、バーナーに点火するから遅れるな、マーク!]
編隊離陸の体勢を整えるために停止していた、〇八とアンドレイの一〇が轟音を轟かせて滑走を開始した。あっという間に離陸すると、右に旋回してゆく。
ソーニャも、一八のドミトリに手信号で、指示を送った。ブレーキを離して、滑走路に入る。
滑走路に入ったところでくるりと向きを変え、一瞬減速して、一八の入ってくるのにタイミングを合わせると、スロットルを通常最大推力にセットした。
優は、ぐっとシートに押しつけられた。今まで乗ったことのある、どんな車よりも強い加速。振り返ると、ドミトリの一八が遅れずについてきている。コックピットの中の、彼のと視線が合った。
優は視線を前に戻すと、ヘッドレストに頭を押しつけた。
ソーニャが機首を上げ、一七は一八を従えて離陸した。イチロー達の後を追って、右旋回する。
「よおしっ! いっちょやるか」と、ソーニャの声。
――うわ、もうスイッチがはいってるよ。
試験隊が離陸するのを、滑走路脇のところで待機しながら越智原はほれぼれしながら見送っていた。
あの美しいSu―二七もそうだが、一七一八も素性がよさそうな飛行機だ。硫黄島に出発する時に、ある空将補から示唆された通り、あれを自分達のものにすれば、飛行教導隊はさらに強くなれる。
整備員が、ミサイルやらなにやらの安全ピンを外して、捧げ持っている。
素早く、その安全ピンを数え、問題がないことを確認すると、越智原は"ごくろうさん"と言いたげに頭を動かした。
心配そうな表情を浮かべる整備員に、越智原は、首を"問題ない"という感じに頭を左右へ振って見せた。
越智原機と僚機である二番機が左翼パイロンに搭載しているのは、外側がXAAM―五Bの試験弾、内側が搭載訓練などに使われるダミーだった。昨日、越智原が優に言ったように、この空戦訓練が終わったら、このミサイルの実射訓練を実施する予定だったため、ミサイルの耐久性を見る意味からも、新田原基地を出発するときに実際に撃つ試験用ミサイルを積んでいたのだ。
三、四番機は同じ場所に、AAM―五Aのキャプティプ弾という、訓練用にミサイルの赤外線センサーだけが本物という、訓練用ミサイルを積んでいた。
航空自衛隊は、空中戦の訓練中にミサイルを誤射して、高価なF―一五を撃墜してしまった事故を経験している。このため、訓練に出る機体には実弾は搭載しない、という規則が存在していたが、この試験弾は、ロケットエンジンはもっているものの、目標を破壊するための炸薬を収めた弾頭部がダミーになっているので、実弾と言うべきかどうか、ちょっとした議論になっていた。整備の手間を減らすべきだと言う越智原の主張が通って、実弾とは解釈しなかったのである。
念のために、越智原は操縦桿の引き金に差し込んである安全ピンを点検した――きちんとささっている。
だが、越智原も彼の乗る越智原機の機付整備員も、キロ単位と表現されるべきF―一五内部のすべての配線を、自分の眼で確かめた事はなかった。
[教導隊、離陸を許可します]
「越智原、了解。コブラ、離陸する、続け」
[二番機]
[三番機]
[四番機]
越智原以下、飛行教導隊のF―一五も離陸して、訓練空域に向かった。
「ん?」空中戦を統裁するためのデータを処理する、コンピューターの端末を操作していた塚本は、画面の片隅に表示しておいたウィンドウに、変化が現れていることに気づいた。
空中戦のための、データリンクのネットワークへアクセスしている機器を表示するウィンドウに、一つ、接続している機器があることが表示されていた。
「あれ?」だが、塚本がそのウィンドウを手前に持ってくると同時に、アクセスしているとの表示は消えてしまった。
塚本は、記録を参照するなどしながら、そのアクセスについてしばらく首をひねっていたが、優達のSu―二七や一七一八が搭載しているADBSSのアクセスが表示され始めると、画面にメモを書いた付箋を貼り付けて、当面の仕事に戻った。
[こちら優、ターディ編隊のネットワーク接続状況は良好。訓練開始準備完了、後は教導隊を待つだけ]と、薄暗い硫黄島のレーダー管制室にある、戦闘時レーダー管制官用の席で、瞳は優の声をレシーバーから聞いた。
瞳の前のディスプレイには、優達試験隊の編隊、越智原達教導隊の編隊そしてHALOの位置、高度、速度、進路が表示されていた。
教導隊は、硫黄島を示す図形のすぐ近くにいて、大きく旋回を繰り返している。
「こちらヒトミ、ターディ編隊へ、教導隊との距離はまだ不十分です。もうしばらく巡航してください」
[〇八、了解、ターディ編隊、もうしばらく巡航するぞ]
[一〇]
[一七]
[一八]
もう一回、教導隊編隊が旋回を行った。
「距離の確認をお願いします」瞳は、少し離れたディスプレイの前に座っている、飛行教導隊所属の戦闘時レーダー管制官に声をかけた。
二人いる、管制官の片方が瞳に返答する。「所定の距離だ、教導隊の連中を出発させる」
「お願いします」
ディスプレイの中で、教導隊の四機編隊が南西の試験隊編隊に向かって進路を変更した。
「こちらヒトミ、ターディ編隊へ、教導隊がそちらへ向かいます。反転してください」
[ターディ〇八、了解、ターディ編隊、反転を開始]
「これ以後のレーダー管制は、混乱を避けるため、ロシア語で行います」
ぎょっと、教導隊の管制官が瞳のほうを見た。
その気配を感じて、瞳は見えないように笑った。どうやらロシア語は不得手だったようだ。こちらの情報を取ることができなくてご愁傷さま、だ。
ディスプレイで、優は教導隊のADBSSがネットワークに接続されたのを確認した。
[こちらターディ〇八、反転を完了した]
[こちらヒトミ、戦闘を開始してください]
「始まったわね」
「ん、いくよ!」元気に声を上げると、ソーニャはドミトリに手信号で指示を与えた。
[ターディ編隊、戦闘を開始!]
イチローの指示があると同時に、ソーニャとドミトリは一七一八を急降下させた。
水平飛行を続けるイチローとアンドレイは、横一線に並んでから間隔を開き、お互いの間に若干の高度差を付けて戦闘用の編隊へと移行する。
[ヒトミです、教導隊は方位四五度、真正面です。〇八と同じ、戦闘編隊が二つです]
「レーダー探知開始」イチローは、レーダーを最大出力で作動させた。
すぐに、レーダーディスプレイに教導隊の編隊が探知された表示が現れる。ヒトミの言った通り、二組の戦闘編隊を組んでいた。
「レーダー、探知目標を攻撃対象に指定」そう言うと、操縦桿に取り付けられているスイッチ類を操作する。ディスプレイの表示がそれに応じて切り替わった。
アンドレイの方も、攻撃対象指定を行った。お互いがデータリンクで結ばれているので、同じ目標を攻撃してしまうような無駄は生じない。
「〇八、|中距離ミサイル発射開始!」
イチローは、操縦桿の上に並んでいるスイッチの一つを押した。ヘルメットのレシーバーに、電子音が鳴る。同時に、兵装状況を表示させているディスプレイから、R―七七ミサイルが一発分減った。もう一度、スイッチを押すと、兵装状況を表示しているディスプレイの周囲にあるスイッチをいくつか押す。
「一〇、第二次攻撃だ」
[了解]再び、二発のミサイルを発射した。
「さて、どうする、越智原よ」
イチローは、前方はるか遠くに眼を向けた。発射したミサイルは、あくまでシミュレーションとしての存在なので、現実には存在しない。
その、越智原の方も、イチローに負けず、攻撃対象指定を行っていた。
「機動目標用射程ギリギリで攻撃する」と僚機に声をかける。
警報音が鳴って、レーダー警戒装置が反応した。それ専用のディスプレイには、すでに、試験隊機からレーダー索敵を受けていることを示す表示が出ていたが、それがミサイル発射を示すものに変わった。
「何っ! もう発射したのか!」
[越智原、回避するか?]
「まだ、早い!」
先手を取られたか! と、越智原はほぞをかんだ。R―七七ミサイルの射程距離が、F―一五の積んでいる中距離アクティブレーダーホーミングミサイルの射程よりも長いことは、知識としては知っていたが、本当に最大射程ギリギリで撃ってくるとは思っていなかったのだ。
もっとも、当たる可能性は低い……はずだ。射程距離ぎりぎりということは、こちらの回避行動に着いていくだけの余裕はないはずだからだ。
「コブラ全機へ、アフターバーナー点火、距離を詰めてぎりぎりまで中間誘導する」
[二番機]
[三番機]
[四番機]
僚機の返答を確認し、さらに一拍置いてから越智原はスロットルを押し込んだ。軽く引っかかりがあるが、それを越えて押し込む。
アフターバーナーが点火した時の振動の変化が伝わってくると、F―一五が加速を始めた。
レーダー警戒装置が警報音を鳴らしている。今までの訓練にはない緊張感に、越智原は酸素マスクの中で、唇を湿らせた。
「向こうがアフターバーナーを点火した」と、赤外線追尾装置の表示を見てソーニャが優に教えた。
「思った通り。越智原なら、攻めに出るわよね」
「これは、あれだね、チキンレース。楽しくなってきた」
優達、一七一八の編隊は、低空に降りていた。降下を利用して加速したので、イチロー達からかなり先行している。Su―二七ほどではないが、R―七七を積んでいることになっているので、攻撃も可能だった。「注意が、前から飛んでくるミサイルの方に偏っている時に、下から攻撃を受けたら、どうなるっかな?」
「タイミングはちゃんとしないとダメよ」ソーニャがやろうとしていることを察して、優は注意をうながした。「味方のミサイルに当たることだってあるんだから」
「解ってる」
永遠と思える時間が過ぎて、やっとF―一五の搭載する中距離アクティブレーダーホーミングミサイルの射程に入った。
「越智原機より、教導隊全機へ、中距離ミサイル発射開始!」
越智原はそう号令すると、操縦桿の上のスイッチを押し込んだ。
それに応えて、計器の表示が変化する。
これで、条件は五分にできた。と、越智原は、落ち着いて計器の表示を確認する。
[教導隊機、こちらフラッグ、一四〇度、低空から敵機が上昇してくるぞ! 数は不明]と硫黄島のレーダー管制官から通信が入った。
それと同時に、レーダー警戒装置に、レーダー索敵を受けているとの表示が現れた。
[二番機、ミサイル発射の警告を受けている!]
[四番機、ミサイル発射の警告だ]
「回避行動を開始! 二番機続け! 電子妨害を許可する」
越智原は、電子妨害装置のスイッチを入れると、スロットルレバーに付いているレーダー欺瞞片・閃光弾散布ボタンを押しながら、左へと急旋回した。
レーダーディスプレイの敵機の表示が消えた。急旋回に対応できなくて、レーダーが追尾できなくなったのだ。
飛行教導隊の編隊は、二機づつ左右に分かれた。全機が電子妨害装置を一杯に効かせている。
「アウト、だねっ」とソーニャが言った。ソーニャ達が放ったR―七七は、あさっての方角に飛びつつあるという表示がディスプレイに出ていた。状況から考えて、電子妨害に惑わされたと考えられた。
「どうするの? イチロー達のミサイルで編隊を乱したところを引っかき回すんじゃなかったの?」ソーニャの言い方に、残念そうな響きがなかったので、優はつっかかるような言い方になった。
「それも考えなくはなかったけどね、こっちの方がイチロー達のためになるよ、うん」
レーダー警戒装置のディスプレイから、教導隊機のレーダー電波が消えた。
続いて、最初に発射したR―七七に内蔵されたレーダーが、目標を捉える事に成功したという表示と、第二次攻撃で使ったR―七七が、教導隊機の電子妨害電波を探知したとの表示が並んだ。
そう、第二次攻撃のR―七七は、目標の出す電子妨害電波をたどってゆくモードが選択されていたのだ。
「一〇、回避に入るぞ。ソーニャのおかげで思ったより早く離脱できる」
[了解]
「第二編隊を攻撃する。越智原は、希望通り、一七一八に相手をしてもらおう」
イチロー達が回避行動に入ったことをレーダー管制官から知らされても、越智原には悔しそうにうなるしかできなかった。ミサイルを回避しようとして、旋回を継続していたからだ。レーダー警戒装置のディスプレイに、一発のミサイルがこちらを攻撃対象指定、それともう一発が三番機を狙っている様子が表示されていた。
早い内に回避行動をしなければならなかったことで、最初に飛んできていたミサイルに追尾する余裕を与えてしまったのだ。
旋回を切り返して、ミサイルに機首を向ける。
二番機を狙うミサイルが、何度も放出してきたチャフ――レーダー電波を反射して偽の目標を作り出すアルミ箔――にごまかされて、進路をそらした。
残るは、自分の方に飛んでくる一発だけ。回避のタイミングをはかる。実際には存在しないミサイルに対して回避行動を取るというのは、非常にやりにくい。岐阜基地にある空中戦シミュレーターなら、視覚も模擬できるのだが。
ミサイルの出す赤外線に反応する、ミサイル接近警戒装置が警報音を鳴らし始めた。
「三、二、一……ナウ!」
越智原は急旋回を行った。
接近警戒装置の警報音が止まった。
「越智原より、教導隊機、チェックイン」
[二番機]
[三番機]
[四番機]
全機、無事というのはいい。だが依然、試験隊機のレーダーに捕捉されている。レーダー出力が大きいためか、電子妨害が有効に機能していない。
「二番機、こちらを確認できるか?」
[越智原へ、一六〇度、二海里に視認している。三〇〇下]
「了解」越智原は、二番機と合流するべく旋回を始めた。米粒のようにしか見えないが、相手の位置を確認する。
[フラッグより越智原へ、敵は依然接近してくる、近いほうは一五〇度、六海里付近。遠いほうは一四〇度、一〇海里]
「コブラ〇六よりフラッグ、付近とはどういうことだ?」
[レーダーの反射が弱い、うまく位置を読み取れないんだ]
近いほうが、あのミグの試作機か。ステルス性能もそれなりには持っているということか。編隊を乱して接近戦を挑んでくるつもりだったのだろうが、そうはいかん。
[ミサイル接近警報!]突然、第二編隊の方からの、符丁混じりの通信が割り込んできた。
[三番機、緊急回避!]
「何っ!」
右前方で、赤外線ミサイルの誘導を妨害するための閃光弾の光が生じる。
[二番機、ミサイル接近警報! 緊急回避!]目の前で、二番機が急旋回を行った。こちらも、ぱらぱらと空気取り入れ口近くの胴体下面にある、発射口から閃光弾をばらまいている。
越智原の耳元でも、ミサイル接近警戒装置の警報が鳴った。
「越智原機、ミサイル接近警報! 緊急回避!]自分も、僚機達と同じ宣言をして、急旋回。
しかし、レーダー警戒装置の表示には、R―七七ミサイルがレーダーを使っているような表示は出ていない。電子妨害の作動を切り替えようとして、越智原は思い至った。
「電子妨害電波逆探知モードかっ!」
[フラッグより、四番機、撃墜!]
[四番機、了解、離脱する]ついに、教導隊機に撃墜判定を受けたものが現れた。
越智原は歯をかみ鳴らした。
[一七、教導隊第一編隊は分離している、相互距離は五・二マイル]
「了解、ヒトミ。行っけい!」ソーニャは、アフターバーナーに点火して上昇を開始した。
急旋回でミサイルを回避して、速度を落とした茶色のF―一五DJ二番機が前方に降下してくる。速度を取り戻そうというのだ。
絶好のチャンス。
「一七より、一八が攻撃」位置関係から、ドミトリの一八の方が攻撃しやすかった。
[一八了解!]
「こちら優、一八、むこうの僚機は二〇秒くらいで戻ってくるわよ」ディスプレイの表示を見て、優がソーニャとドミトリに警告する。
[問題ない]一八が教導隊二番機に迫る。
だが、レーダー管制官の警告を受けたのだろう、教導隊二番機は、こちらのほうへと機首を向けてくる。ただし、間合いを外そうとして、一八に正対はしてこない。
「あれは良くない、中途半端が一番良くない」一八の後方に控えている、ソーニャがコブラ〇三の機動を評する。
「そうなの?」パソコンでADBSS用に流されている各機の状態を見ながら、優が聞き返した。
「そう、短射程ミサイルを撃たせないほど、大きく逃げているわけでもないし、主導権を取ろうとして、自分から攻めているわけでもない。迷っている感じ」
ドミトリは、スロットルについているスイッチを切り替えて、R―七三ミサイルを選択した。右目の前に降ろしてある、ヘルメットディスプレイに照準表示が写しだされる。その片隅に、R―七三ミサイルのセンサーと、ヘルメットディスプレイが連動している印の光点が浮かんでいるのを確認する。
照準表示を教導隊二番機の後部に合わせた。相手のジェットエンジンの排気が出す赤外線を探知したセンサーが、レシーバーに安定した発信音を流す。
「……撃って来ないね」と、シートのグリップを握り締めた優が言った。対進に近い状態だから、推力偏向装置を持つ、R―七三やAAM―五のようなミサイルの威力を発揮できるシチュエーションだ。そして、その条件は互角のはずなのだが。
「使いこなせてないなら、ますます好都合よ」
[ターディ一八、短射程ミサイル発射!]
それを受けて、教導隊二番機が、閃光弾を放出しながら機首を上げ、こちらの方に旋回する。
空中戦統裁コンピューターが、ミサイルの動きをシミュレーションして判定を出した。教導隊二番機の回避成功。
ドミトリの一八は、F―一五DJ二番機とすれちがう。
ドミトリは、すかさず上昇をかけて速度を高度に変換しながら、教導隊二番機を追いかけるために機体をひねる。
[一七、一八、ヒトミです。越智原機が、三マイルを切ってきたわ、気をつけて]
「一七、了解」優は、顔を上げて越智原機を探す。ADBSSであらかじめ場所を調べていたので、眼の焦点が合うようになったら、すぐに見つけることができた。こちらに向かって降下してくる。
「ソーニャ、四時、上方!」
「見えてる。一八、一七は離脱してコブラ〇六をやります」
「ダー、一七、カバーをよろしく」
[越智原、気をつけろ。あんな進路交叉角で撃ってくるとは]
「くそっ! やつらのミサイルのほうが高い性能のはずがないんだ!」
越智原は焦っていた。四番機と組んでいた三番機が、Su―二七に追われて逃げ回っているという連絡が、当の三番機とレーダー管制官から来ていた。しかし、まずは、二番機をミグから引き離さなければ。
さすがに、二対一の格闘戦で、F―一五がSu―二七に勝つ見込みがあると考えるまでは、越智原は傲慢にはなっていなかった。
一七一八どもが、編隊を分離した。一機が、こちらへと向かってくる。
「馬鹿め」と、越智原はつぶやく。援護を放り出してどうするつもりだ。
越智原は、短距離ミサイルを選択した。こちらに向かってくる敵機に機首を向け、照準器の中に捉える。目標位置を示す記号が、照準器の中に入ってきた。一瞬、記号が消えて、また記号がつく。レーダーの反射が安定していない。
越智原は、素早く決断すると、ミサイルをセンサー視野固定モードに切り替えた。照準器の中に、古典的な十字線が表示される。
機首方位を調整して、敵機をその中心に捉える。
ヘルメットのレシーバーから発信音。
もう、厳密な照準合わせは必要ない。越智原は、方向を変えて一七一八との間合いを外そうとする。ぎょっとした、一七一八が機体上面全体で、白濁した空気を引きながらこちらに機首を向けていた。ただし、スピードはひどく遅い。
"横プガチョフズ・コブラ"と言われる、"フック"だ。コブラのような急速な引き起こしを、旋回中に行う機動。だが、あれほど豪語していたのに、そこに速度の落ちた敵機を撃墜してくれる僚機はいなかった。もう一機との戦闘で、あさっての方にいたのだ。
どっと汗が噴き出した。越智原は反射的にトリガーを引いて、短距離ミサイルを発射した。
ミサイル接近警報が鳴った。向こうもミサイルを撃ってきたのだ。
越智原は閃光弾を放出しながら、ミグの方に機首を向けようとして急旋回する。
しかし、F―一五の閃光弾発射口は胴体下面にある。これは、F―一五開発時のアメリカ空軍戦闘機の主な脅威が、地対空ミサイルだった事が大きく影響している。そのため、せっかく放出した閃光弾を越智原は、自分の機体で隠してしまった。
一七も閃光弾を放出するが、こちらの方は垂直尾翼の前に発射口が付いている。一七から発射された閃光弾は、いったん、機体を覆い隠すように広がると、きらきらとまたたきながら、落ちてゆく。
空中戦統裁コンピューターは、ターディ一七へ飛んだミサイルが外れたと判定を下した。逆に、越智原の閃光弾はなんの効力をも持たず、ミサイルは依然として有効との判定になった。
ミサイル接近警報が、さらに一層の接近を告げる音に変化した。
越智原は、さらに旋回をきつくする。荷重が高まる。ミサイルが命中寸前の音になった。
最接近!
[フラッグより、越智原、ミサイルの近接信管が作動、破片のいくつかが命中した。 撃墜には至っていない]
越智原は、撃墜されていないことで、安堵した。すぐに気を取り直して一七一八を探す。意図的な失速である"フック"を行ったことでスピードを失ったことから、降下して加速、離脱しようとしていた。自分のミサイルがこちらを撃墜したと思いこんでいるらしい。
チャンスである。ここで、二番機の援護に向かえば……。
だが、垂直尾翼の"〇〇一七"を見て、越智原は誘惑に負けた。旋回を切り返して、ターディ一七の追跡にかかる。アフターバーナーに点火。
越智原機のようなF―一五戦闘機は、愛知県にある三菱重工業の工場でメーカー整備や改修を受けることになっている。その工場に不心得者がいて、工場内の機体に損傷を与えるという事件が多発した事があった。越智原機には、未だに明らかになっていなかったが、その犯人により、分解整備を受けている時に、操縦桿に連なる電線の束の中へ、先を研いだドライバーが差し込まれていたことがあったのである。
それによって傷ついていた電線の絶縁被覆が、振動などを受けているうち、ついに破れ、芯線がむき出しなってしまっていた。
「どういうことよ!」思わず瞳は立ち上がって怒鳴った。「ずるじゃない」
コンピューターの出した結果は「至近距離でミサイルが爆発、破片が命中して操縦機能に障害発生」というものだったのに、レーダー画面の中で、越智原機は急旋回してターディを追跡にかかったからだ。。
「君も聞いていただろう、ちゃんと伝えたぞ! ずるとはなんだ!」
「ええいっ」気を取り直すと、瞳は座って管制を再開した。
「ターディ一七、こちらヒトミ、二六〇度、八マイルに越智原機が接近しつつあります。気をつけて!」
「ヒトミ、ターディ〇八は?」
[三〇〇度、二二マイル、高度一万フィート]
「どうするの? かなり距離があるわよ」
[一七、一八は教導隊二番機から離脱した。できるだけ早く、そっちを援護にかかる」
[一七から、一八は四〇度、一〇マイル、一八から一七は二二〇度]すかさず、ヒトミから進路の指示が行われる。
「ええいっ! どっちも越智原の向こう側じゃない!」優が毒づく。
「悪いわね、一八、できるだけ引き回してみる」と、ソーニャ。
[ターディ〇八、ヒトミより、教導隊三番機撃墜!]
[了解!]
「やるじゃん、イチロー」と優がつぶやく。
[ターディ〇八、ターディ一七と合流してください。ターディ一七は越智原機に追跡されています。進路は、一三〇度方向へ]ヒトミはイチロー達に指示を出した。[途中に、教導隊二番機との接触があり得ます。注意してください]
コクピットのレーダー警戒装置が、越智原機のレーダーに捕捉されているとの警告を発する。
「ソーニャ、こっちはもう短射程ミサイルの射程距離に入ってる」
加速の良さで、いったんは、越智原機を引き離したが、じわじわと近づいてくるのだ。
ソーニャは、ぐいっと、機体を傾け急旋回を行った。
越智原は、急旋回したターディ一七を追って旋回する。だが照準器の中に、ターディ一七を捉えられない。こちらが、機首の向きを修正しようとするのを、読んでいるかのように逃げ回るのである。
[越智原、フラッグより、Su―二七がそちらに接近してくる。三二〇度、距離一〇マイル]
越智原の焦りは強まっていた。離陸前に考えていたことと違って、状況は非常に不利になった。三番機も撃墜されたために、いまや二対一で、敵の方が有利だ。
ここで、向こうが合流する前に一機でも戦力を削いでおきたい。
[二番機より越智原、何をしている?]二番機に乗っている後席パイロットが、越智原に質問をしてきた。援護に来るはずだった越智原が来なかった事で、合流が遅れるどころか、このままでは圧倒的な敵勢に挟まれようとしているからだ。
「くそっ! 向こうが誘っているのは解っているんだ」いまや、イチロー達のレーダーにも攻撃目標指定を受けているとの警告が出ていた。ここで、ターディ一七を撃墜しても、離脱は至難の業だろう。
「くそっ! 女の戦闘機パイロットなど、認めん!」
優の乗っているターディ一七が機首を上げて上昇を始めた。速度が落ちてくる。
「コブラを狙うつもりか?」一瞬、警戒して自分もスピードブレーキを開いて速度を落とす。
越智原の予想は外れ、ターディ一七は横転して降下を始める。
その横転がほんの少し長くなって、ターディ一七は一瞬、照準器の中を横切る。
越智原はそのミスを逃さなかった。十字線をターディ一七に合わせる。後ろから追っているだけに、レシーバーから今までにない、安定した発信音が聞こえてくる。
距離は遠いが、やむを得ない。越智原は、ミサイルに任せることとして、引き金を引き絞った。
引き絞った引き金は、安全ピンのおかげで一段目のスイッチが入ったところで止まった。
その流れた電流が信号に変換されてF―一五の中を駆け回ると、スイッチング回路が起動して、照準器の所に設けられているガンカメラが始動し、映像の記録を開始する。また、同時に、右パイロンに取り付けられているADBSSが信号を拾って、空中戦統裁コンピューターに情報を送った。
そして……被覆のはがれた部分から漏れた電流が、別の電線に入り込み、コンピューターはそれを別の信号として解釈した。
短距離ミサイル発射信号。
内部電源作動、操縦翼固定解除、ロケットモーター点火、ミサイルの金具を固定していたラッチ解放、データリンク終了、誘導計算開始、アンビリカルケーブル切り離し。
一連のシーケンスが流れた後、XAAM―5BはF―一五を離れ、飛翔を始めた。推力制御によって、すぐにターディ一七へ向けての飛行に入る。
白煙を引くミサイルが視界に入ってきて、越智原は即座に何が起こったかを悟った。
「こちら越智原、エマージェンシー! ミサイルを誤射! 訓練中止! 訓練中止!」
越智原の警告は、周波数の関係で地上のレーダー管制室と、教導隊の僚機にしか聞こえなかった。そして、優達のコクピットで鳴り響いたミサイル接近警報は、ADBSSのシミュレーション結果だと思われたのである。
優とソーニャがそれを知ったのは、ターディ一八、ドミトリからの警告だった。
[ターディ一八より一七、コブラ〇六がミサイルを発射!」
「なんでそんなことが解るのよ?」
ミサイルの発射は、あくまでコンピューターシミュレーションの話であって、それをドミトリが見ることは出来るはずがない。
[白煙を引いた何かがランチャーから離れるのを見た、誤射じゃないのか!]
優は振り返ったが、ロケットモーターは白煙がでない段階に切り替わったのか、もう見えなくなっていた。
ディスプレイを見ると、いつの間にか、ミサイルの位置を示す表示が出ていた。
[訓練中止! 訓練中止! 訓練中止! ターディ一七、越智原機がミサイルを誤射! 回避してっ!]悲鳴に近い、ヒトミの声。
「ソーニャ! 本当に撃ってるわ! 緊急回避!」
「了解!」ソーニャは、スロットルレバーに取りつけられている、レーダー欺瞞片・閃光弾散布スイッチを入れて、右へと急旋回。
垂直尾翼前にある発射口から、閃光弾を打ち出しながら、ソーニャは旋回する。広がった閃光弾は、チカチカときらめいて、ミサイルのセンサーが焦点を合わせることを妨げるとともに、ターディ一七という赤外線源を、一時的に覆い隠す役割をした。
ディスプレイの中で、ターディ一七の後方を通り過ぎていくかに見えたミサイルが、自分達に向かって旋回を始めた。
優は、どっと汗が吹出すのを意識した。
「うそ! ミサイルが、こっちを再捕捉!」
「再捕捉って……さっきの閃光弾でよけられたんじゃないの?」
「わけが解んない、でも、こっちに飛んでくるのよ! さっきまで、あさっての方に飛んでいたのに!」
ソーニャは、迷わず、アフターバーナーに点火した。少しでもミサイルを引き離すのと急旋回で避けるための運動エネルギーを稼ぐのだ。
優の身体は、加速でシートに押しつけられる。それに抗して、パソコンを操作しようと手を伸ばす。
「優、ロール!」ソーニャが、機体を横転させた。
振り回されて、優はキー操作をミスした。
「くそっ! くそっ!」イチローは、アフターバーナー全開で飛んでいた。「越智原の奴!」
[〇八、間に合わん。 それに武装がないぞ]後ろに取り残された一〇のアンドレイが話しかけてくる。めったにない口数の多さだが、イチローには、それに気づく余裕はなかった。
「体当たりをしてでも止める!」
イチローのレーダーに、ミサイルも補足された。だが、距離が遠く、間に合わない。
実弾があれば!
「引き起こすよ!」再び急旋回。
荷重がかかって、優は手を上げていられなくなる。
「これで!」ソーニャはミサイルを視認しようと後ろを見る。が、それらしいものは見当たらない。「ミサイルはどこ?」
「は、8時方向、すこし上、二マイル。まだ、こっちを追っかけてる」ディスプレイを見ながら、優は声を絞り出した。
「優! どうやってミサイルを見てる? 私より目が悪いはずだろ!」どうしてもミサイルを捉えられないので、ソーニャが怒鳴った。
「ミサイルの位置はディスプレイに……わかった!」優は、猛烈な勢いでキーを叩きだす。
「何?」
「ネットワークよ! ネットワーク! あのミサイルを誘導しているのは、私たちなんだわ! ADBSSの位置情報とかレーダーの情報が、ネットワーク経由でミサイルに流れているのよ!」ディスプレイに、XAAM−五Bのアクセスしている事を示す表示が出ていた。
「じゃあ、どうすればいい?」
「このままじゃ、映画のミサイルみたいに何度でも戻ってくる! なんとか引き伸ばして!」優は、無線の周波数を、緊急用周波数に切り替えた。「ターディ一七より全ステーション、レーダーの使用を停止しなさい、ADBSSも切って! 早く!」
[ターディ〇八了解、ターディ――]
「一八了解」
「一〇了解!」了解の言葉が錯綜した。
優のパソコンに表示されている、ネットワークへの接続者リストが次々と消えてゆく。残ったのは二発のミサイルと教導隊機。
どこまであいつらは世話をかけるのっ!
「優! まだ?」
ミサイル接近警報の音調が、切迫感を高めて行く。これ以上は待てそうもない。
「もうちょっと待って!」ネットワーク側から切断しようと、キーボードを叩き壊さんばかりの勢いで、優はコマンドを入力してゆく。
「優!」
「あと、ち・ょ・っ・と――終わり! やってちょうだい!」
ソーニャはありったけの閃光弾を発射し、急旋回に入る。
命中寸前目標を見失い、ネットワークからいっさいの情報が入ってこなくなった結果、XAAM―五Bはロケットモーターが燃え尽きて、海に落下するまで、そのままの進路を保とうとしていた。
後で、優は同じ防衛技研でミサイルを担当している友人から愚痴られることとなったのだが、実射試験で使用するデータ計測装置は正常に作動しており、データリンクを通じて状況を送信しようとしていた。だが、最後に優がすべてのネットワークを切断したので、データは失われてしまったのだった。
XAAM―五Bにとっては、全ては正常な作動だったのだ。
ミサイルの落下した、小さな水柱を視認したという通信を、ドミトリが送ってきた。
「こちらターディ一七、XAAM―五Bを回避しました。以後の指示をお願いします」
優は、パソコンから引きちぎった、通信用のコードを放り出して、シートに身をうずめた。やれやれ、なんとか生きてるみたい。
ソーニャ達は、最優先での着陸を許可された。
部隊事務所前に機体を止め。ソーニャと優が地上に降り立つと、期せずして、その場の全員が拍手で二人を迎えた。
「ソーニャ、よくやったぞ!」機付長が、ソーニャの肩を叩き、汗が付く事もおかまいなしに、優の髪をかき回す。「もちろん、優もだ」
「いたい、いたいですよ機付長」
ひとしきり二人を歓迎した後、機付長は、一歩下がって敬礼した。姿勢を正して、ソーニャと優も答礼する。
「機付長、ターディ一七、飛行を終了しました。機体およびシステムには異常ありませんでした」
「了解した。荷重のほうはどうだったかね?」飛行記録を、機付長は差し出した。
「計器を見るかぎりでは問題なかったようです」
「念の為に、点検を密にやっておこう。よく、無事に機を持って帰ってきてくれた」
ソーニャから、飛行記録を受け取った機付長は、まわりを厳しい目つきで見回した。今にも、ソーニャ達に飛びつこうとしている部下達に顔をしかめる。
「何をしとるか! 自分達の担当の機体を迎えない気か!」
くもの子を散らすようにその場から整備員達が離れたところで、優は、ぺたんと腰を落とした。
「優?」
「さすがに、今回は、ダメかもって思ったわ。ホント、あんたと飛んでると、退屈しないわね」
「そう? そういつもいつも事件が起こっているわけじゃないよ。トラブルの印象が強いからじゃないのかな?」
ターディ〇八が、ランプインしてきて、そこからイチローが飛び出した。文字どおり、高いSu―二七のコクピットからはしごもなしに飛び降りたのだ。
「大丈夫でしたか!」そのまま、一直線に、ソーニャ達の所に飛んでくる。
「あ、ええ、大丈夫でしたよ。ミサイルは外れてくれましたし」優が立つのに手を貸しながら、ソーニャはイチローに言った。
「本当に、外れてくれて良かったです。ソーニャさんが無事で良かった」
「そんな、心配しなくても、ちゃんと機体は持って帰ってきましたから」
「コラ、あたしには、なんにもなしかい」と、イチローを見上げて、優が言った。
続いて、飛行教導隊の四機が、駐機場に入ってきた、教導隊の整備員達がそれを迎える。
冷ややかな眼で、試験隊の人間はそれを見ていた。
「で、人を殺しかけといて、一言もナシなの?」手順は手順ということで、班長の指示でデブリーフィングは行われた。
「俺のせいだというのか?」越智原が、鼻を鳴らした。
「少なくとも、引き金を引いたのは、あんたでしょ?」
「おお、そうさ、だが安全措置は取っていた。不可抗力的な何かとしか言えないだろう? それとも何か、この段階で何か言える事があるのか、機体を調べもせず?」
越智原の言葉に反論することはできず、優は退かざるを得なかった。
「ずいぶんと、ぜいたくな戦闘をしてくれるじゃないか、イチローよ」越智原は、空戦訓練の話題をふった。
「はあ?」
「我々、四機に対してミサイル八発かい」
「もちろん、必要な措置だったと思わないか? Su―二七の搭載ミサイルは一二発だ、三分の一だよ」
「で、ステルス機で忍び寄って撹乱するというわけだ。奇策だ、とてもまともな戦術とは言えないな。これが巡回教導なら、お前ら全員一からたたき直される事を薦めるね」
「ずいぶんな言われようですな、大尉」ニコライが口をはさむ。「空中戦の要諦は、相手の意表を付くことにあります。これは、お国の偉大なエース、坂井中尉もおっしゃっておられた事ではありませんかな?」
「お前らは、坂井三郎の名前を出すな、イワン・ゴジェドフの話でもしていろ。プロバガンダで固めたな」
さすがの、ニコライも鼻を鳴らした。
「あの、大尉?」今度は、ソーニャが口を開いた。「あなたがおっしゃるほど、あなたがたが、まじめにやっていたとは思えないんですけど?」
「なに?」教導隊の全員が、ソーニャに厳しい視線を向けた。
「先日、私たちと空戦訓練を行った、米海軍の|第一〇二戦闘攻撃飛行隊《VFA―一〇二》の皆さんは――今回と同じ、四機=四機の設定でしたが、想定ミサイルを一機あたり、一四発積んで来られました。その中で、二四発を連続して、私たちに発射されてます。主導権を取るために」
「それが?」
「大尉は、編隊長として、主導権を取るために最大限の努力をされました?」
「どういうことだ?」
「確か、F―一五の搭載可能な中距離ミサイルは一機あたり四発です。編隊全体では一六発。各一機で四発を発射されていますが、これはまだ四分の一ですから、まだ充分にミサイルはありました。それに、発射のチャンスも。
私たちの第一波のミサイルの後なら、距離も詰まってきていましたから、もう一度発射できたのではないでしょうか? 全機が発射できたとは思いませんが、確か、F―一五にも同時多目標攻撃能力があったはずですから、イチロー君達の編隊に攻撃することは可能だったでしょう。彼らをいったん遠ざけておけば、こちらの第二波をよけた後に体勢を立て直す時間が取れたのではありませんか?」
「う……」越智原は何も言えない状態である。
「どうですか? 大尉 全力を尽くされていましたか?」
月曜日、試験隊の業務は行われる事になった。代休をまとめて、四連休にしようという事になったからだ。
朝、優が部隊事務所に顔を出すと、そこのソファの一つに、越智原がだらしなくすわっていた。
「何しに来たのよ」
越智原は、立ち上がった。
「ああ、昨日の不時発射で、F―一五は飛行停止処置が取られる事になったんだ。俺達は、一度、輸送機で新田原に帰る事になったのさ」
「んで?」
「ああ、今回はいろいろあって中断したが、次こそ見てろ! お前らの部隊の存在価値がない事を証明してやるからな、覚悟してろよ!」
入り口の所に立っていた、イチローを押しのけて、越智原は部隊事務所を出ていった。
「なんとまあ……昨日、ソーニャにやり込められて、しおしおになっていた奴の言動とは思えんな」
「あたしは、あの、鳥頭で自己中なのがどうしても、耐えられないのよっ!」
「おはようございます、コヴァレフスカヤさん。また、空戦訓練に参りますから、その時はよろしくお願いしますよ。いや、いや、今度こそ本気でかからせていただきますから、覚悟しておいてください」
外から、越智原の声が聞こえてきた。
「はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
「う〜〜〜ん、越智原の奴、昨日のことを受けて会話をしてるな。ソーニャを気に入ったかな?」
「何っ?」
「あんたも、うかうかしてられないわね」にやりと笑いながら、優はイチローを見上げた。
ソーニャが部隊事務所に入ってきた。
「おはよ、ソーニャ」
「優も。イチロー君も」
「おはようございます」
「そこで、越智原大尉に会ったよ。今日の内に輸送機で帰るんだって……あ、ハンドクリーム教えてあげるの忘れてた」
優は、大きくため息をついた。「ホントにあんたって娘は……」
END
この小説はあなたの一時の楽しみになりましたでしょうか。いーのです。
この作品は、2003年に同人誌で発表されたものを改稿しています。
元々はシリーズ作品として製作するにあたって、キャラを掴むためにスケッチ代わりに始めたものでした。実のところ、この作品を書き上げても、まだ掴めた実感は持てていません。私自身の評価では、まだキャラが硬い感じを受けます。
本来ならそういった部分を改善し、ロシア系の部分には更なる検討を加えるべきなのかもしれません。
しかし、X-2の地上滑走テストが開始された今、これを発表しておかなければ、決定的に陳腐な設定と化してしまうと思われたため、見切り発表とさせていただきました。
ではでは、よろしくお願いいたします。