少女コントローラー
女の子は可愛ければなんでも許される。
放課後の教室に残っていたのは、私だけではなかったらしい。
「ねぇ、あなた、キスってご存知?」
私は読んでいる本から顔を上げた。そこにはすらりとした両足をスカートから晒すクラスメイトの狩屋さんが、艶然と微笑んで私を見ていた。私は、まるで愛の女神エロースみたいに完璧な微笑を浮かべた狩屋さんの顔を数秒間見つめた後、何の話? と聞き返した。
「あなた、キスってご存知? と聞いたの」
狩屋さんは完璧な微笑を崩さぬまま、もう一度同じ台詞を繰り返した。私は情けないことに、『キス』という予想外かつ肉体的な単語に戸惑って、返事につかえてしまった。それでもどうにか、もつれる舌で、そういうことはテレビとか小説の中でしか見たことがない、小中高とずっと女子学校に通ってきたから、経験などはもちろんない、と返答した。
「そう。それは悪くない回答だわ」
狩屋さんは私の不格好な返事に、満足そうに頷いた。私は彼女の話が長引きそうな気配を察して、手に持っていた本に栞を挟んで閉じた。「恋とはすでに狂気なのだ」という台詞がちらりと見えた。
「ねぇ、ところで私、とっても不思議に思ってることがあるの。聞いてくださる?」
私は彼女の栗色の髪の見つめ、その感触を想像した――きっと柔らかい
だろう。
それから、彼女は、ねぇ、というのが口癖であるのかも知れない、とぼんやりと思った。
「あなた、キスってどうしてするんだと思う?」
狩屋さんは可愛らしくそのちいさな頭を傾けて、実に無邪気に質問した。その姿は他愛のない算数の質問をする少女のように可憐で、私はまた返答につまった。わからない。
「よく考えてみたら、変だと思うの。口を口を重ねるって、何の生産性もないわ。突き詰めて言えば、それは人間が生物として生きていく上でなんの意味も無い行為なの。でも人は一切の疑いなしにそれをするわ。そうするのが当然と言わんばかりに。ねぇ、やっぱりこれっておかしいわよね?」
私は自信なく、そうかもしれない、と答えた。実際そんなことは考えたことも無かったし、今だっていまいち飲み込めない。ただ、狩屋さんが言うならそうなんだろう、と思ったので同意したのだ。狩屋さんは私の相槌に気を悪くする風もなく続けた。
「でね、私はこう考えたの。キスって、それ自体を目的として行われる行為なんじゃないかなって。好きだからとか、気持ちいいからなんて理由じゃないの。それがキスであるから、もっと言えば、私たちが人間という生き物であるからキスをするんだわ。ね、どうかしら? 私が言っていること、へんかしら?」
私はかなり迷った末、とてもいい考察だ、と述べた。それは本心だった(もっとも、私は彼女の言ったことの内容はほとんど理解できていなかったが)。それでも、私の知らない、知りたくもないような生々しい行為が、彼女の言葉で語られるととても美しく、幻想的なものに思えたことは素晴らしかった。そして、彼女はなんと不思議な人なのだろうと思った。初めて彼女のことをもっと知りたいと、そのときはじめて感じた。
「同意してくださって、嬉しいわ」
狩屋さんは美しい。笑顔が愛らしい。陽に照らされた髪が綺麗。肌が雪のように白く、その唇は血のように赤い。
知りたい。彼女は、どんな味がするのだろう。
「ね、だから私、あなたに教えてほしいの」
何を? 私はそのとき狩屋さんの耳を見ていた。
「キスの目的。人間の本能。あなたの輪郭」
私はよくわからなくなってきて、瞬きした。視界が徐々に溶けていく。私はまだ、彼女の意図が飲み込めていない。
「ねぇ、教えてくださる? あなたが、わたしに」
狩屋さんが笑っている。天使のように。あるいは悪魔みたいに。
「この世で一番気持ちいいこと、したいわ」
放課後の教室は不安定だ。自分の意志さえおぼつかない。二人だけの密談は危険。私の心が奪われていくようだ。
「教えて、あげる」
とうとう、私は言った。確かにそう言った。興奮にぼやけた頭で、もう戻れないということだけを理解した。
「とっても素敵ね、あなた」
狩屋さんの艶やかな唇が微かに震えた。笑ったのかもしれなかった。私は従順な犬のように、ゆっくりと目を閉じた。
そして、やわらかな感触が、唇から神経を通り頭の中心に深く、ふかく突きささって、じんわりと全身に回っていった。それは言いようのない体験で、確実に私の身体を変異させてしまった。それは目で見たようにはっきりと確信できた。
「ねえ、キスってとても美味しいのね、そうよね?」
私は彼女の夢見るような声に、曖昧に頷いた。唇にまだ残っている体温が、誘うように疼いてやまない。
「ねえ、狩屋さん」
「何かしら?」
狩屋さんの目は綺麗だ。澄んでいる。でもどうしても見透かせない。
「私、知りたい、もっと……その、人間の本能、とか」
狩屋さんは目を細めて微笑んだ。猫のような笑顔。見透かされているのは私の方なのだろう。
「よろしくてよ、夏島さん」
彼女が私を呼んだその日、私は生まれ変わった。私はもはや少女としての無知を失ってしまったが、代わりに新しい私を手に入れた。
それがいいことなのか、わるいことなのかは、誰にもわからないけれど――
それでも、私はあなたに恋をする。