スケッチブック
音の無い世界の中で、少女は白いページに鉛筆を滑らせる。
無音の空間で少女が描くのは、少女の好きなもの。
空、川、花、鳥、虫……。
少女は最後に見たものを目に焼き付ける為に、沢山のページを埋めていった。
自然以外描かれなかったスケッチブックには、一体何が描かれるのか。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
陽射しが激しく照りつける、夏休みのある日。
僕は今日発売の漫画を買うために、自転車に乗って本屋へ向かう。
けれど目当ての漫画は入荷しておらず、そのまま帰るのが悔しくて僕は散歩がてら来た道とは違う道を通って帰ることにした。
気が付けば僕はガードレールの無い川沿いの道を走っている。初めて見る景色は、別段珍しいわけでもないのに新鮮に思えた。
道の脇は背の低い草が芝生のように生えていて、その向こう側には小さな川がある。
そうした風景を眺めているうちに僕は川辺に座り込んでいる人がいることに気が付いた。
自転車のスピードを落としてよく見ると、そこには青いワンピースを着た髪の短い女の子がいる。
手には鉛筆らしき物を持ち、膝の上に乗せているのは……スケッチブック?
「あ……!」
ハンドルを握る手に違和感を覚えたのも束の間。車輪は既に坂へ踏み込んでいた。
僕は自転車ごと倒れ、坂を滑り落ちていった。
「いったたた……」
ようやく平坦な場所まで滑り終わった時には沢山の擦り傷と、擦ったせいか軽い火傷のような痛みがあった。
「そうだ、自転車が!」
僕は痛みを無視し、倒れている自転車の駆け寄る。
多少籠がへこんでいるのを除けば、自転車におかしい部分は見当たらなかった。
「ああ、良かったぁ」
僕は安堵して、その場で座り込んだ。
小川の方を見ると、先程の女の子の後ろ姿が僕の目に入った。
女の子はスケッチブックに絵を描いているようで、僕はどんな絵を描いているのか興味が湧いた。
「ねえ君、何を描いてるんだい?」
僕は女の子の背中越しに、そう語りかけた
しかし、女の子は何一つ言葉を返さなかった。
僕があんなに叫びながら落ちても気づかなかったようだし、かなり集中しているのだろうか。
それでも僕は絵が気になって、女の子の横に行ってスケッチブックを覗き込む。
「ちょっと覗かせてもらうよ」
白いページには優雅に泳ぐカルガモの絵が丁寧な線で描かれていた。
「わあ、上手いね」
今になってようやく僕に気付いた女の子はわっと驚いて、その拍子に握っていた鉛筆を川まで放り投げてしまった。
「ご、ごめん!」
女の子はぺたんと座り込んだまま、大きな瞳で僕の顔を上目遣いにじっと見つめてきた。
その女の子は、同級生の女子の誰よりも綺麗だった。多分、歳は僕と同じくらいだろう。
けれどその女の子には同級生はもとより、他のどの女の子からも感じ取ることのない神秘性を秘めてるように思えた。
「大丈夫。鉛筆、まだ他にもあるから!」
僕がぼんやり考えていると、女の子は明るい声でそう言い、ペンケースから他の鉛筆を取り出して見せてくれた。
そうして次に女の子は口に人差し指をあてながら首をかしげ、僕に質問をする。
「あなたはいつからここにいたの?」
「ほんの少し前から。ちょっとよそ見してたら、自転車ごとあそこまで転げ落ちちゃって」
僕が放置したままの少し籠のへこんだ自転車を指差す。
「それで怪我をしているのね。痛くないの?」
「ちょっと痛いけど、このぐらい大丈夫だよ。それより、君ってその、すごく絵が上手いね」
僕はなんとなく褒めるのが照れくさくなってしまい、横に目を逸らしながらそう言った。
しかし、女の子は何も答えてくれない。
もう一度女の子の方を見てみると、女の子は僕の顔から目を離していなかった。
その顔には困惑の色が浮かんでいるように見て取れた。
「ごめんなさい、もう一度こっちを見て言ってくれるかな?」
「あ、いや、絵が上手いなって思って……」
「ほんと? ……ありがと」
二度目でようやくその言葉を聞き取ると、女の子は恥ずかしげに頬を赤らめる。
その仕草に僕は胸の脈拍がほんの少しだけ早くなったように感じた。
女の子はそうだ、という言葉の後に僕へ質問を投げかける。
「あなたの名前は何?」
「僕の名前? 道幸だよ、斎藤道幸」
「さいとう、みちゆき……うーん」
女の子は人差し指を顎に当て少し考える。
そうした後にペンケースから鉛筆を出し、別のページに変えたスケッチブックと一緒に僕に渡してきた。
「漢字、教えて!」
「わかった、ちょっと待ってて」
確かに、聞いただけでは字がわかりにくい名前かもしれない。
僕は言われた通り、スケッチブックの隅に『斉藤 道幸』と書いて渡した。
「道幸、道を行けば幸せ……幸せの道……素敵!」
「あ、ありがとう」
そんなことを言われたのは初めてだったので、なんだか嬉しかった。
女の子は、まだ僕を見つめたままだ。
「君の名前は、なんていうんだい?」
「私の名前は……」
女の子は僕からスケッチブックを受け取ると、僕の名前の隣に大きな字で名前を書いていた。
「『千石 風美』……君は、風美っていうんだね」
風美はこくりと頷き、僕に微笑んだ。
彼女の印象にぴったりとそぐう名前だ。
「道幸、もしよかったら……私と、お友達になってくれる?」
先程のように、風美は少し頬を赤らめながら、そう言った。
「もちろん、喜んで」
「じゃあ……」
風美は僕に向かって真っ直ぐ手を伸ばした。
「握手! してくれる?」
「え? あ、うん」
女の子に握手を求められるなんて初めてだった。
僕は一瞬戸惑ったけど、僕は風美の手を軽く握る。
すると風美が強く僕の手を握り返してくれた。
小さくて、とても温かい手だった。
「これで、道幸は私とお友達……」
風美はとても嬉しそうな様子で、見ている僕も自然と嬉しくなってくる。
何となく正面で向かって話すのが恥ずかしい僕は、川のほうを見ながら風美に言葉を投げかけた。
しかし、その言葉に反応はなく、ふと顔を上げてみると風美は困ったような顔をしていた。
「道幸。あのね……」
一呼吸置いて、風美がどこか無理して笑顔を作った。
「私、耳が聞こえないんだ」
「……え?」
「声も聞こえないから、相手の顔を見ないと何を話しているかわからないの」
僕は驚愕して、ちょっとの間言葉が出なかった。
ずっと会話していたのに、言われるまで全く気がつかなかった。
顔を見ないと、わからない。そうか、今まで風美は僕の唇を見て言葉を理解していたのか。
数秒の沈黙。時が止まったような気がした。
その間にも小川のせせらぎは絶えず僕の耳に入ってくる。
しかし、それすらも彼女には聞こえない。
胸にちくりと棘が刺さったような、鈍い痛みを感じた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
あの日から毎日、僕は河原へと自転車を走らせていた。
いつもあの場所で絵を描いている風美に会うためだ。
「こんにちは道幸! 今日もとってもいい天気だね!」
「うん、今日も晴れて良かった。今日は何を描いていたの?」
「お空だよ。でも、お日様以外何もないから困ってたの」
「風美、今日は空以外を描いた方がいいんじゃない?」
「そうかも、うーん……休憩!」
風美は屈託のない笑みを僕に見せると、両手を天にかざしぐっと伸びをした。
毎日風美は小川と向かい合わせになるように川辺で座り、色々なものをスケッチしていた。
黒い鉛筆しか使われていない絵も上手かったけれど、色鉛筆で描かれた絵も同じようにとても上手い。
丁寧に描かれたその絵の一枚一枚はまるで生きているかのようで、絵に詳しくない僕でも引き込まれそうな綺麗だと思った。
けれど風美は、自分が特別絵が上手いとは思わないらしい。
「昔、盲目のピアニストがいるなら全聾の画家がいてもいいって思ってた。でも、私には才能が無いんだって。
中学生の頃、先生は私にそう言ったの。少しだけ自信あったんだけど、違ったみたい」
けど、私は好きだから描くの。そう彼女は付け足した。
この時、僕は何を喋れば良いかわからなくなり、風美から顔を背ける。
けれど風美は僕が顔を背けると、「お願い、顔を見せて」と不安そうに言葉を漏らした。
それから僕は意識して、できるだけ風美の顔を見て話すようにした。
風美が自分の好きな物や景色を話してくれたり、僕の話で笑う姿を見ると、なんとなく僕まで幸せになれた。
ちょっと前には短い時間だったけれど、風美と河原の近くで二人乗りもした。
背中に感じる温もりが、僕にちょっとしたときめきを提供した。
僕が何を喋っても、後ろに座る風美には届かない。
しかし風美は、それでも僕に沢山の喜びを伝えようとしてくれていた。
「道幸の背中、見た目より広いんだね」
「うーん、そうかな?」
「私、自転車初めて! 天気が良くって本当に良かった!」
「そっか、風美は自転車初めてなんだ。また乗りたいなら僕が何度でも乗せるよ」
「このままどこか遠くに行けたらいいのになぁ。道幸と一緒に、スケッチブックとお弁当持って」
「いいね、ピクニックみたいで! 風美は弁当とか作れるの?」
「道幸、ありがとう。私、今とっても楽しいよ!」
「風美が楽しいなら良かったよ……本当に」
僕は風美には聞こえないのにこうして言葉をかけては、全く噛み合っていない会話をした
何度か耳が聞こえなくなった理由を聞こうとしたが、僕には聞く勇気が無くて聞くことができなかった。
それでも、風美がぎゅっと僕の背中を抱きしめてくれることが嬉しく思えた。
夏の暑さを忘れる位に、毎日が幸せに満ちていた。
いつからか、僕は風美に、生まれて初めての恋をしていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
蝉の鳴き声も減っていき、夏休みも終わりに近づいた頃。
僕は夏休みの課題もせず風美に会いに行き、日が傾くまで風美と一緒に過ごした。
夏休みが終われば、風美としばらく会えなくなってしまう。
それはとても寂しくて、想像しただけで心にぽっかり穴があいてしまうような感覚に襲われた。
空の色が変わり始め、僕らの影が濃く長く後ろへと伸びていく。
今や僕らには橙色の夕日が沈み、夜の闇に消えていくような短い時間しか残されていない。
僕と風美はいつものように川辺に座って、他愛もない話をしていた。
「……ねえ、道幸」
「何だい風美?」
「私、スケッチブックには好きなものを沢山描いているの」
「うん。いつも、風美の絵は素敵だよ」
「それで、今度は私、道幸を……あれ?」
ぽつん、とスケッチブックが小さな雫で濡れた。
呆然としている間に徐々にその粒は増えていき、僕と風美、そしてスケッチブックを濡らしていく。
「……雨だ!」
風美の言葉は、空から降り注ぐ無数の粒に遮られてしまった。
「私、傘持ってきてない……スケッチブックが濡れちゃう……!」
スケッチブックを抱えこみ、風美は焦って走り出した。
途中ではっとしたように振り向き、僕に叫ぶ。
「道幸、帰ろう! 続きは明日言うから!」
「うん! ……あ、風美、鉛筆忘れてる!」
しかし、風美は既に傾斜を上り向こうへ走っているところだった。
僕はペンケースを拾い、自転車を止めてあるところまで急いで走る。
そしてひしゃげたかごにペンケースを入れ、自転車の鍵を差し込む。時間がかかってしまった。
僕はなんとか自転車に乗って風美を追った。
黒い雲は次第に大きくなり、ザァザァと音を立て雨が降り注いでいく。
風美は外見に見合わず足が速い。
市街地が見えた時、風美はスケッチブックを雨から守ろうと下を向いて走っていた。
その時。
角から曲がってきた軽自動車が、風美の目の前に迫っていた。
「風美! 車が!」
車が鳴らしたクラクションも、僕の叫び声も聞こえない。
僕は自転車のペダルを全速力で漕ぐ。
間に合えっ……!
「風美っ!」
止まらない車、鳴り続けるクラクション。
「……えっ?」
風美が顔をあげた時にはもう遅かった。
スケッチブックとともに、彼女の体は数m先へと吹っ飛ばされた。
「あっ……ああぁ!」
僕は自転車を放り投げるように降りて、風美の元へ駆け寄る。
車は一瞬止まったが、そのまま逃げて行ってしまった。
僕は濡れた道路の上でぐったりとしている、風美の軽い体を抱き上げる。
「みち、ゆき……」
「ああ、僕だよ風美……大丈夫かい?」
「は……ぁ……」
震えながら苦しげに荒い息をしているが、風美は確かに生きている。
しかし目を閉じ、どんどん四肢の力が抜けていくのがわかった。
「風美! 風美……? う、あ、あああぁっ……!」
辺りは既に、黒い闇に包まれている。
天から降り注ぐ雨が、冷たいナイフのように僕達の体に突き刺さった。
狂いそうな意識の中、僕は携帯で救急車を呼び、風美を抱き締めていた。
その後の事はよく覚えていなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
事故から三日後。
この周辺では一番大きな病院の待合室で、僕は風美との面会時間を待っていた。
医者曰く、風美の意識は無事に戻ったらしい。
僕は心底安心して、風美の笑顔がまた戻ってくれる事を期待した。
しかし、事故が原因で大きな障害を負い、精神状態がかなり良くないとも医者は付け加えた。
それでも、風美が生きているなら。
きっと僕と話せば、またいつものように笑顔を見せてくれる。
自信家のようになってしまうけど、そんな確信があった。
面会時間まで、あとどのぐらいだろうと思索していると、隣に座っている女性が僕に話しかけてくる。
「こんにちは。あなた、道幸君よね。私、風美の母親です」
「ああ、どうも……」
少し痩せた風美のお母さんは、無理して笑顔を作っているようだった。
この事故が、相当堪えているのだろう。
「風美からお話はよく聞いてます、うちの子と仲良くしてくれてありがとうね」
「こちらこそ、風美……さんといつも一緒にしゃべったりしてて、本当に毎日が楽しくなって」
「ふふ、良かったわ。道幸君、風美が言ってた通りいい子みたい」
風美のお母さんは小さく笑った。
その笑顔はどこか風美の面影があり、やはり親子なんだなと実感した。
「……あの子は、六歳の時に交通事故で聴力を失っているの」
聴力を失った理由。
今まで勇気が無くて、風美に聞けなかったことだった。
「六歳で、ですか」
「ええ。それから普通の小学校から聾学校に移ったのだけど……手話も覚えようとしないし、あまり周りの子と馴染めなくて。
友達ができたってはしゃぎながら教えてくれた日は、すごく嬉しかったわ。ありがとう、道幸君」
風美のお母さんが風美とよく似た顔で微笑む。
「……それなのに……」
しかし、その顔は一瞬にして歪んだ。
「それなのに、また事故に遭うなんて……これじゃ、幸運と不運が吊り合わないわ……」
風美のお母さんの声が震えた声になっていく。
泣きかけていた事に気づいた風美のお母さんはハンカチで目元を拭くと、また小さく笑って席を立った。
強がるように明るく笑う姿は、やはりどこか風美と重なるところがあった。
「そろそろ私、風美に会ってくるから……またあとでね、道幸君」
そして立ち上がると、僕にお辞儀をして病室の方へ向かっていった。
風美は大丈夫だろうか。
僕の心の中は、その事で埋まっていた。
ぼんやりと考えているうちにも、時計の針は進んでいく。
ふと気づけば、面会が終わったのか風美のお母さんが僕の目の前にいた。
そして幽霊のようにふらふらとした様子で、僕に話しかけてきた。
「道幸君……私から言いたくはないけど、風美の事を忘れた方がいいわ」
「嫌です。僕は……風美から、まだ最後まで聞いていない言葉があるんです」
「行かない方が、きっと幸せよ……だってあの子は、もう……」
ぽつりと漏らし、風美のお母さんは泣きながら病院を去って行った。
最後の方は聞き取れなかったが、僕は風美に会う事をやめようなどとは思わなかった。
僕は立ち上がり風美の病室へ向かう。
そしてノックしようとすると、中から風美の声が聞こえてきた。
「……して。私を……て」
僕はノックも忘れ、個室になっている病室に入る。
窓一つ無く薬品の匂いが漂う白い部屋は、どこか隔離された小さな箱のようにも思えた。
「風、美……?」
「死なせて。私を死なせてください」
風美はただ淡々と、『死』という単語を繰り返していた。
僕はベッドで横たわる風美のそばへ寄る。
「風美、僕だよ。道幸だよ」
しっかりと顔を覗き込んで言った。
それでも、全く僕に気付かない様子で言葉を繰り返しているばかりだった。
「先生、死なせて、私を死なせて、死なせてください、死なせて」
「医者じゃなくて僕だよ、風美」
「お願いです、死なせてください、私を死なせて、死なせて……」
風美は何度も、死を望む発言だけを繰り返す。
虚ろな目には、涙が溜まっていた。
いくら風美に呼びかけても、僕の存在に気づかない。
僕がいくらはっきりと口を動かしても、風美は僕に対していつものあの明るい笑顔を向けてくれない。
ただ死だけを待ち望むそれは、生きる気力を失くした廃人のようだった。
……もしかして。
「もしかして風美……僕が、見えていないの?」
「死なせて、死なせて」
返答は無い。
ただ濁った黒い瞳で虚空を見つめ、同じ言葉を連呼するだけだった。
まさか、目まで……?。
「死なせて、死なせて、死なせて、死なせて、死なせて……」
涙が絶えず流れ、風美のまぶたは真っ赤に腫れていた。
彼女は今、何も見えない、何も聴こえない、完全な闇の中にいる。
「死なせて……死なせて……死なせてぇ……」
言葉に出すのが疲れてきたのか、風美の声は段々か細い声になっていった。
「……風美」
僕はぎゅっと風美の手を握りしめた。
すると、風美の死への懇願がぴたりと止んだ。
「……みち、ゆき?」
「……っ!」
「この手、道幸だよね? 道幸、ここにいるの? 本当に、道幸なの?」
「ああ、いるよ、僕だよ……!」
僕は風美の手を強く、強く握る。
すると風美は弱々しく握り返してくれた。
「道幸……私、目も見えなくなっちゃった……道幸が見えないよ……道幸の言葉がわからないよ……」
やっぱり、そうだった。
「風美……僕も、風美が苦しんでいるのがつらいよ……」
風美には、僕の言葉はもう届かない。
しかし、僕は風美のそばにいたかった。
「道幸、つらいよ。目の前にいるはずなのに、見えなくて……道幸の言葉が、何もわからないの……!」
「風美……」
僕は、風美の手を解いた。
「道幸……いなくなっちゃうの? やだ……やだよぉ……」
風美は子供のように泣きだした。
「いなくならないよ」
僕は、風美の顔に自らの顔を近づけた。
そして、風美の唇にそっとキスをした。
「ん……」
長い間、互いの唇を合わせていた。
完全に音の無い空間。
僕と風美の時が止まった。
「僕は、風美の事……愛してる」
「私、道幸のことが……大好きなの」
この時、僕と風美の言葉はちぐはぐにならなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
こうして、長いようで短い僕の夏休みが終わった。
僕は風美のお母さんに頼んで、風美の鉛筆とスケッチブックを受け取った。
スケッチブックは事故の時にびしょ濡れになってしまったが、しっかり乾かして同じものを持っていった。
学校が終わった後、僕は風美の病室へ通うようになった。
風美は、もう目で何か見ることができない。
しかし、僕が鉛筆を持たせてスケッチブックを台の上に載せると、風美は絵を描いてくれるようになった。
「今は、私の大好きな人……道幸を描きたい」
風美はそう言って、僕を描いてくれるようになった。
絵は以前のように美しい絵ではなくなってしまい、ごちゃごちゃとした線の塊になった。
でも、風美は頑張って、僕を描こうとしてくれている。
真剣に、それでいて楽しげに鉛筆を紙の上に滑らせる彼女を眺めるのが、僕の楽しみになった。
「うん……? ちょっと僕にしては鼻が高すぎるかも」
僕は風美の手を掴み、僕の鼻あたりに誘導する。
「あっ、いけない! 次はもっと低くするね」
「あまり低くし過ぎないでね? 楽しみにしてるよ」
そして、僕は風美の手にキスをしてみる。
風美が驚きでその場で飛び跳ねた。
「……もう」
「ごめんごめん」
僕は笑っていた。
風美も笑っていた。
きっとこれからも僕が口で喋っても何も通じないだろう。
しかし、心は通じる。
僕は、風美を優しく抱きしめた。
「あっ……」
えんぴつが床に落ちて転がる音がした。
しかし、僕は風美を離さない。
諦めたのか、風美は僕を抱き返してくれた。
「……大好き、道幸」
「僕もだよ」
僕は、これからも風美のそばにいる。
そして、この笑顔を守っていきたいと心から思った。
これから風美のスケッチブックには、どんな絵が、どんな世界が描かれていくのだろう。
僕はそれが楽しみだった。
END
読んでいただいてありがとうございました。
ハッピーエンドです。