逍遥遊
この話は、元『私的ピュアな朝露、理由も無く物語』という題名だったものを改めたものです。
1
あの人、またわけのわからないことを言ってる。
――逍遥として帰る。
だって。
あの人、紫咲さんっていうんだったっけか、名前もよく知らないんだけれど、でも、なんだか私をバカにしている気がして嫌い。大嫌い、とまでは行かないんだけれど。
悔しいから、逍遥の意味を調べてみた。調べてみると『気ままにあちこち歩き回ること』とある。散歩? ぶらつき? 寄り道? 買い食い? 買い食いする紫なんとかさんなんてなかなか想像できなかった。いや、紫なんとかさんのことはよく知らないんだけれど。
ただあの人、どこか世捨て人みたいな雰囲気がある。『俗っぽさ』、っていうのが、ない。私とは大違いだ。私、どうも負けず嫌いな所があって、相手が正しいことを言ってるな、と頭では分かっていても、口ではもう理屈めいた反論で相手を言い負かしているんだから、嫌になってしまう。激情家? そう言えば体裁がよいかもしれない。理性のブレーキがない? それが適当だと思う。
あの人、どこか俗っぽさがない。どういう風に俗っぽさがないかと言うと、私の対義語としていえば感情を見せない。いつも喜怒哀楽を見せない。例えば、私、見た。あの人、父親が死んだ時も涙一つ見せなかった。父親の棺桶に付いて外に出ていく時、私見たんだけど、その白い、どちらかというと青白いのかも、その頬に、涙は濡れていなかった。
つまり親不孝な人。
私だったら泣く。絶対に泣くと思う。私の妹なんか、泣いて泣いて泣きまくる、と言っていた。それはさすがに、度を越しているなと思ったけれど、妹的にはそういうのを考えてちゃ駄目なんだよ、泣きたいと思ったら、泣く。そして泣いたら他人の目なんか気にしないで泣く。他人の目を気にするようじゃ、それは本当に泣いているとは言えないんだよ、と言ってうるさい。
かといってそんな妹も、そのまた妹には引いてしまうらしい。
私の妹の妹、父親が死んだら何日だって絶食すると言っていた。さすがにそれ、やりすぎだと思う。私も引く。けれど彼女は大まじめで、それでこそ本当の親思いなんだ、親を思う感情の発露なんだ、と言って、うるさいうるさい。昨日の夜なんてあまりにうるさいから、私耳栓をして寝てしまった。そしたら蹴られてしまった。凶暴な奴。
紫なんとかさんは絶対そんなことはしないだろうな、と私は何度もげしげし蹴られながら思った。あの人、怒りの感情が無いんだから。いや、私あの人のこと繰り返すようによく知らないから、本当はよく分からないんだけれど。ただそういう感じがするってだけ。それだけ。単なるイメージ。でもそのイメージを本気にさせる雰囲気を、あの人持っていた。
あの人、きっとトイレにだって言っていないんだ。霞を食べて、生きている。だってあの人トイレをする姿、私まったく想像できないもん。学校、ああ、高校――女子校。そこで彼女、トイレに行った姿目撃されてない。我慢してるんじゃないの、と見る向きあったけど、私そうは信じられなかった。あの人、我慢してる? そんなの、あの人じゃないなあと思った。それまた、私の勝手なイメージで。
きっとあの人、理性に依って立てば、きっとトイレはしているんだと思う。小をすれば大だってするんだと思う。人間なんだし。人間である以上アレもあればアレもあるんだし。アレがあればアレをすることは確実なのだ。確実、なのかどうかは分からないが。でもあの人、食事しているのかな。私、あの人がごはんを食べているのを見たことが無い。大丈夫なのかなあの人。そう思ってしまうのが、また俗っぽいのかもしれないが。
とりあえずあの人、トイレをするイメージが無い。そんな人なのだ紫なんとかさんて人は。
「――ここは一つ、尾行してみようよ」
そうにこやかに言うのは鵜堂さん。名は恵という。片側の髪をひもで縛ってテールにしている。そんな子だ。顔は普通に可愛かった。ちなみに彼女は普通にトイレをする。もちろんする。私とお花を摘みに行った仲だからそれは間違いない。
彼女明るくて行動的だ。いつも休み時間教室の机という机を練り歩いている。声をかけている。彼女喋らないと死んじゃうのだろうか。
で、その彼女がいつも通りに、休み時間に私の机の前に来てそんなこと言うものだから、私困ってしまった。
なんで? あの人、と。そこまで関わらなくてもと私思ったけれど、彼女鼻息荒い。
「あの人、私は嫌いだな。特に言う事が嫌い。言う事が嫌い。性格はまあ、可も無く不可もなくだから別にいいんだけど、消しゴムも取ってくれていい人なんだけど、言う事が嫌いなんだよね。言う事がね」
そんなに言う事が嫌いなのか。それはもうよく分かった。耳にタコができるくらいよく分かっちゃったから。で?
「あの人、澄ましてる。なのに、今日あの人、なんて言ったか知ってる? 『逍遥として帰る』、だって。あの人いよいよ澄ましてる。気のゆくまま赴くまま、あてどなく歩いて帰るつもりなんだ。そうなったら、いよいよあの人、尊敬でもされちゃうんじゃないの? 私そんなこと耐えられない。あの人の言う事嫌いだから。尾行する。尾行して、あの人がボロを出す所を捕まえてやる。無心が為せる歩きじゃなくて、計画的な、作為的な歩きが感じられたら、このカメラでシャッターを切る。ああそうだ、トイレ。あの人がトイレに入った時とかも、シャッターを切らないと。なんだったら個室の上の隙間からカシャッ、としても」
犯罪だよそれは、と返したら、彼女憤慨してた。
「うるさい」
なんの捻りも無い悪罵で私一蹴されると、やむなく彼女の尾行に付いて行かされることになった。
ああ、バカなことをする。これこそ俗、じゃないかな、と。他人のプライバシーをなんやかやなんて、俗の極致じゃないか。
こんな罪な私を、妹たち、お父さんお母さん、許してください。心からのお願いです。
2
「A班、オッケイですか」
「オッケイです」
私道路の右側、そこの電柱に夕日の中、身を潜めてる。『古入商店街』と書かれたアーチ看板をくぐったすぐ傍の電柱だ。
はあ私なにやってるんだろ。恥ずかしいな、とかは別にないんだけれど(実はこういうの好きだ)、やっぱり俗っぽいのが気に障る。私意識しすぎなのかなあ。
手にはカメラがある。鵜堂さんに買ってもらったのだ。手ぶれしない、高速シャッターの優れモノらしい。エライことだ。ちなみに『B班』である鵜堂さんも同じカメラを手に左側の電柱に隠れていた。
その彼女の普通に可愛い顔にあるくりくりとした目がぱっちりする。何事かと思ったら彼女自分の肘に人差し指と小指をしきりに当てていた。ん、なんだ、と目をかっぽじってよく見ていたら、ああそういうこと。これは紫なんとかさんが動いたというゼスチアだった。尾行開始の前に用意周到二人で編み出していたものだった。私了解して両手に腰を当てる。これもゼスチア。了解のゼスチア。
前方を気をつけながら覗くと、あの人、民芸品を売ってる店を見てた。見世棚にあるダルマを手に取って、うんうん何やら頷いている。
私あのダルマが可愛いと思ってしまった。赤色素敵。ドングリマナコ素敵。でっぱら素敵。普通私だってダルマに心移りなんかしないんだけれど、あのダルマはゆるキャラの流れを受けてデイフォルメされた姿がなんとも可愛らしい。ああ、あの人が手に取るのもよく分かる。私やきもきしてしまった。あの人あのダルマ買ってしまわないだろうか。私買いたいと思ってしまったのだ。だからあの人があのダルマ買ってしまったら私非常に困る。どうすべきかどうすべきか。私まるでトイレに行きたいかのようにもじもじもじもじ。足をトンタタトンタタ踏み鳴らす。
すると私の想いがあの人に伝わったのかそれとも天に伝わったのか、あの人ついにあのダルマを買わなかった。ことりとまた見世棚に置いてその場から離れたのだ。
私しめたと思った。あの人が充分その店から遠くに行ったのを認めると、『古入の韋駄天』と言われた自慢の俊足を存分に披露してそのダルマの元に突っ走った。するとどうしたことだろう、ダルマを手に取った瞬間、誰かの手もがっちりそのダルマを捕らえていたのだ。誰だ、と思ったら鵜堂さんだった。信じられない、と私思った。だって鵜堂さんと私は同じ距離だった――いいえ、店は左側にあったから鵜堂さんがやや有利ではあった――からだ。ほぼ同じ距離であるなら、韋駄天の足を誇る私と同着なはずが無いんだけれど、現実彼女は私と同時にダルマを手に取っている。私驚愕してしまった。
「どうして」
私が不意にそんな言葉漏らすと、彼女不動明王みたいな恐ろしい顔して小憎らしい。
「愚問」
ああ彼女はダルマに恋をしていたのだ。恋をする少女は時だって超える。彼女時空移動して、つまりワアプして私と同着になったのだ。そういえば彼女は恋多き少女で、よくあっちやこっち、信じられない所に現れていたりしていた。昨日だって学校の外観にある時計に恋をしたとかで時計の上にへばりついていた。先生方たちが総出で布団出して危ない危ない言っていた。罪な人。いや、恋が罪なのだろうか。
ダルマは結局じゃんけんをして私がパアで勝利し、見事手に入れることができた。その場に膝を突いて道路をドンドドン叩いて悔しがっている彼女の姿を見ると不憫に思ったけれど、これも世の習いなのだ。強いものが弱いものを組み敷く。仕方ないのだ。そういう世界に生まれたんだから。そう言うと彼女涙と鼻水で一杯になった顔を上げ、私グウでパアに勝てる世界に生まれたかった、と切々と願望を語った。
私鵜堂さんならきっと願えばその世界に行けるよ、と思った。もしかしたらもう彼女はとっくのとうにその世界に旅立っていってしまっていて、今ここにいる彼女は補完された別人の彼女であるのかもしれない、と私ちらと思ったけど、頭が痛くなるのでやめた。
「行こう」
彼女の手を取る。彼女手を取る。柔らかい手。上げた顔は普通に可愛い顔。片側テールの女の子。
ああどうなったって鵜堂さんは鵜堂さんで間違いなかった。私鵜堂さんを忘れない。
3
私とうとうあの人追い詰めた。あの人さっき公衆トイレに堂々と入っていったのだ。私歓喜した。そして同時に武者震いに打ち震えた。私今歴史が動くようなどでかいことに対面している。震える手でなんとかカメラを握りしめ、抜き足差し足トイレに向かうこと十メイトル。
こそり、とトイレの中を覗く。トイレ、中は薄暗い。電気が点いていない。商店街も最近はひどく景気が悪いから節電とか言っていたけど、その影響なのだろうか。私こういう時に節電を恨んだ。深入りすると、もっと暗くなった。すると驚いた。
なんだ、真っ暗闇じゃ、ないか。
嘘だ。入口からそんなに離れてないのに。外はまだ夕方、夕日さまがまだご健在であらせられるのに。その御光が差し込むことは確実。なのに中は本当に暗黒だったのだ。もう光に照らされ輝いているタイルなんて三平方センチメイトルも無かった。悉く暗黒だったのだ。私本当目を疑った。
私お化け屋敷は好き。あのおどろおどろした感じが、たまらない。ラストスパートのあのビシバシ感なんて、尚更たまらない。
でも、この暗黒はどうも勝手が違った。私得体の知れないものを感じて、少し後じさりしてしまった。 すると、
どん。
後ろが何かでつっかえた。ええ、何。なんでつっかえたの。後ろの入口出口、どうなってしまったの。私軽くパニックになってしまった。
死ぬの? 私死ぬの?
ああ死ぬんだったらカエルのケロちゃんにもっと優しくしてあげればよかった。ケロちゃん、今朝いつものコオロギじゃなくて、ジャイアント・ウェタっていうばかでかいコオロギを所望してきた。だから私、怒って贅沢言っちゃいけませんと軽く平手打ち喰らわせた。ケロちゃんそれからしんみりして、素直にいつものコオロギ食べていたけど、私が学校に出かける時も背中を見せて哀愁を漂わせていた。
私、ケチケチしないでジャイアント・ウェタ買ってあげればよかった。ジャイアント・ウェタあげたらケロちゃんどんなに喜んだことだろう。私ケロちゃんの笑顔が好きだった。なのに最近私ときたら俗々とそんなことでイライラして、ケロちゃんをあまり顧みなかった。私、最低だった。
死んで当然だったのだ! 私なんて!
――けれど、目を瞑って死を覚悟していても、なかなか迎えは現れに来ない。あれ? と思って恐る恐る目を開くと、
「何してるんですか?」
目の前にとんでもなく綺麗な顔をした紫なんとかさんが立っていた。
「わあ!」
私驚いたのってなんのって。心臓が鼻の穴から飛び出そうだったんです。私の心臓ノミの心臓だから。あの人、青白いほど白い顔を、真っ暗闇に発光してるかのごとく私に見せていたのだ。どういう原理? どういう現象? でも私は数々の疑問をこの際かなぐり捨てた。私使命があったのだ。
「紫……」
「紫咲薫です」
「あ、紫咲、さん。あの」
あ、私、私、紫咲さんとお話してる。もう学校始まって半年は経っているのに一っ言も喋らなかった私と紫咲さん。その二人が、今会話している。紫咲さんの声、改めて近くで聞くと、とてもいい音色していた。凛としていて、でも雅な音楽。和楽器を連想させる、そんな声音だった。しかし今は聴き惚れている場合じゃない。私重ねがさね使命があったのだ。
「ご、ごめんなさい!」
私、思いきって彼女のスカートの中に突撃した。変態? いや、違う。私変態じゃない。ただ私、彼女がトイレをしたかどうか確かめたかったのだ。トイレをしていたら、たぶん微かな匂いが漂っているだろうと思ったのだ。
けれど紫咲さん、
「に、」におわ、ない。
私動転してしまった。どうしたらいいんだろう。紫咲さんが完全消臭した可能性も否定できないが、こう短時間でできるものなのだろうか? ああそういえば水を流す音も聞こえたりしなかった。これも流していない可能性があったが、それならそれで何か匂ってくるはず。でも匂ってきたりしなかった。
つまり冤罪だったのだ彼女は。
紫咲さん、私の驚愕の顔を見て察したのか、両掌を見せて言う。
「私、お手々洗ってたの。汚れちゃって」
ああ!
私、一生の不覚! 冤罪で、私年頃の少女のスカートの中に頭突っ込んですうはあすうはあしてしまったのだ! 最悪なことこの上ない。腹を切ったとて、果たして彼女は赦してくださるだろうか? 私はもう何も分からなくなって、ただただ絶望していた。
でも彼女、紫咲さん、にこりと微笑んで(笑顔!)、
「手、洗わないの?」
と仰ってくる。私意味が分からなかったけど、自分の手を見たらよく分かった。赤色に染まっている。なんでと真っ白になったら、紫咲さんくすりとして私の背負っている大量物資の一つを指差す。それは赤いダルマさんだった。
4
「……塗りたて、ってそんな。しかも赤色」
ふうふう、と息を吐いて私、便座の上で濡れている手を乾かす。蛍光灯はパ、パパ、と光りはしたが頼りない。その薄暗い中、手洗い場は赤い液体に染まっていた。私と紫咲さんの落とした絵の具が流れ切っていないのだ。
点滅する蛍光灯。赤。これじゃあホラーじゃないか、と私びくびくしてしまう。
外はいつの間にか今度こそ暗闇。商店街はなんだか活気が無く、灯りは少なく物音もあまりない。うら寂しいものがあった。
「孟加拉さん」
ちょっとお話しよう。そう言われて便座に小さく座っていた私と、紫咲さんを隔てる仕切りが、しゅんっ! と消えた。紫咲さんが丸見えになる。
「え、……と」
「私、つねづねこんなことを考えているの」
私の驚愕をよそに、紫咲さん、淡々と無表情に物語りをする。
「――私、時々この町から出て、どこか遠い遠い、遥か彼方に飛び立ちたくなるの」
鳥が羨ましくなるの、と紫咲さん。は、はあ、と私取り敢えず拳握り締めて相槌を入れると紫咲さんまた口を開く。
「孟加拉さんは、そんなことない?」
そう言って私の目を見つめてきた。私、どう返事をしていいものか困ってしまった。
夜の瞳に夜の髪。髪の毛はとても長い。ストレイトで、さらさらさらさらしている。彼女の夜色の髪の毛、彼女の白すぎる肌によく似合った。
「わたし」
わたしは。
妹たちとよく喧嘩をしたりするけど、そこまで嫌なことはない。朝食。家族と一緒に食べ。登校。赤信号になる前に滑り込み。学校。授業中は眠ったりして涎の湖を造ってしまったりするけれど、休み時間は友だちとおしゃべりして楽しい。楽しい。下校。夕食。家族と、団欒。それから、妹たちと遊ぶ。疲れて寝る。
楽しいけど、紫咲さんはそうじゃないんだろうか。紫咲さん、マイペースで悠々自適、不満なんてないと思っていたけど。ううん。きっと、私のような俗な人には計り知れない考えがあるんだろう。それに私。
時折そんな生活を平凡だと思い、満足できなくなる。でも、もう一歩が踏み出せるわけがなくて。それで今日も同じ、いつもと変わらない日々を送る。はずだったのだ。そうだ! そうなんだ!
「私、紫咲さんとこうしてお話できたから、捨てたもんじゃないと思うよっ!」
私、紫咲さんと話してみたかった。クラスの人たちとどこか違う、彼女の雰囲気にちょっと憧れていた。その彼女に、私、今日話せた。
だから、人生、捨てたもんじゃない。
すると紫咲さん、目を細めて(細めて!)、
「私も。だって、孟加拉さんとお話できたから」
にこりと微笑んだ。綺麗。綺麗だった。眩しくて、仕方なかった。
なんで私とお話できて良かったの?
だって孟加拉さん、私と好きなもの同じだから。
紫咲さんそう言って目の前に置かれている、私が買った大量の商品を指差した。
ああこれ、全部紫咲さんが手に取ったものたちだったっけ。
そうか、そういうことだったんだね。
5
「ね、孟加拉さん」
二人して夜道を歩いていると、紫咲さん話しかけてくる。私なんでも元気に返事をしようと思って、意気込んだ。
「――なに?」
「私、超能力が使える幽霊なんだけど、それでもいい?」
「うんっ! ……って、ええ!?」
今宵は満月、綺麗なお星空。