第八話「嫉妬は用法容量を守り正しくお使いください」
「きゃーまた来てるう」
「かっこいーい」
黄色い声にどこか憂鬱な気分になりながらも、和はため息をひとつ吐いて重い足を進める。
遥が免許を持っている事、車を所有している事を和に打ち明けてからというもの、週末は彼の仕事が重ならない限り、和の大学へと訪れるようになった。別段、それに不満があるわけではないが、和の心は暗かった。
彼の行動そのものに何か不満があるわけではないし、正直な所迎えに来てもらえるのはありがたい行為だった。しかしいかんせん、彼は目立ちすぎるのである。和が何度も正門まで迎えに来ずとも、駐車場までこちらから行くと伝えているというのに、遥はそれに微笑んで否と答える。彼いわく、虫除け、なのだそうだ。和はそんなことをせずとも寄ってくる人間などいないと呆れ混じりに言えば、夏目は男ではないのか、と言われる。
彼の溺愛ぶりに、相変わらず頭が痛い和である。
彼女の口から再度深いため息が吐かれると、ふと視界が翳った。疑問に思い、和は視線を足元から前へと向ける。
「和。今日、来れない?」
目の前に立っている夏目は、首を傾げて前髪の隙間から和の瞳を見つめている。出会った頃は長くも短くもない前髪であったが、今は栗色のそれが目にかかる程に伸びてしまっていて、和は時がうつろいゆくせつなさを感じると同時に、感傷的であった心を一瞬で切り替えては眉間に皺を寄せた。
「今日……? どうしたの?」
夏目の言葉に応えつつ、和は右手を彼の顔へと伸ばす。夏目はそれに別段不快な顔をするでもなく、彼女が意図する事を知ってか知らずか、触れやすいようにと少しだけ身体を屈める。
「うん。倒れた」
ちょいちょいと夏目の前髪をいじり、懐からごそごそと何かを取り出していた和は、彼の言葉にぎょっと目を見開く。
「は!? 倒れたって……店長?」
夏目がこくり、と短くうなずく。
周囲からは、笹森さんは珍獣使いのようだ、と囁かれるようになった。
それは今のように、あまりにも言葉が少ない夏目を補うように和がひとつふたつ意見を言うようになってからのことだ。ほとんどないが、夏目とて和以外とも会話する機会がある。その際、笹森さんがいなければ会話の半分も理解できない、と周囲にぼやかれてしまうため、和と夏目は何かと行動を共にする事が以前よりも増えた。別段それに不満を抱いているわけではないし、和としては何故わからないのかが疑問なくらいだ。昔から言葉数が少ない人間を相手にするのに慣れているからか、他人の機微に敏感だからなのか、和にとってはむしろ周りの特別視するかのような反応のがうっとおしいくらいであった。それでも、遥の問題に比べれば些少な事であるし、不快な気分になるとまではいかなかったが。
「インフルエンザ。佳代さんが運んだけど、店が俺ひとりじゃ無理」
「はあはあ。なるほど把握した。んじゃ和泉君に声かけてくっから……夏目、もうちょい」
「ん」
懐から取り出したものを夏目に装着しようと、和は彼に近う寄れ、と指示を出す。それに短くうなずいた夏目は、少しあった距離を更に詰め、屈む。ふたりの顔は、もうほとんど間近にあった。傍から見れば、恋人同士が許す距離そのものであり、ちらちらと好奇の目でふたりを見る者も少なくない。
「おい」
短い声に肩を揺らした和は、目を丸くする夏目と視線が合った。お互いに一瞬固まってから横から聞こえた声へと振り向けば、そこには暗黒を背負った男が立っていた。
「何をしているのかなあ?」
「和泉君。あら、いつの間に?」
「……こんにちは」
顔を引き攣らせて笑う和と、のほほん、と無表情で挨拶をする夏目。そこに色気はなかったが、ふたりが至近にある事実だけで遥の内心は苛立った。
勢い良く腕を引っ張れば、和はひえ、と短い悲鳴を上げて遥の懐へとおさまる。遥は短く彼女の名を耳元で囁いた。
「和? 何を、していたのかな?」
「ひゃっ! ちょ、そこで喋らないで」
「質問に答える」
「夏目の前髪が目にかかってうっとおしそうだったからああああ」
涙目で言う和の言葉に誘われるように、遥は夏目へと顔を向ける。なるほど。確かに和の言うとおり、ヘアピンで夏目薫の前髪はきっちり留められていた。きっと和が施したのだろう。
しかしその言葉は、遥にとって満足のいくものではなかった。
「なぁんでそんな気働きをするのかなぁ? 必要? ねえそれって必要?」
「バイト中とか邪魔だろうし本を読むから目は大事だと思ったんだよう! ごめんってば、夏目は完全に友だちだから無意識に至近距離になっちゃってましたあ! もうしませんっ!」
「よろしい」
ぎゅうぎゅうと抱き込まれた和の身体をやっと解放したかと思えば、しかし次には彼女の左手を取り手を繋ぐ事を忘れない。遥の行動に呆れながらも、ぐったりとした様子でなすがままになっていた和は、伝えなければいけないことがあったと力ない声で遥の名を呼んだ。
「今日、ちょっとどこかで時間潰しててもらってもいいかな」
「ん? 何か用事?」
和の言葉に遥が首を傾げれば、彼女は申し訳なさそうな顔をしてうなずいた。
「実はバイト先の店長がインフルエンザで倒れちゃってね。奥さんが病院に連れてってくれたりだとかの処理は済ませてくれたみたいで店長は心配ないんだけど、開店途中で倒れちゃったもんだから、店の片付けとか何も出来てない状態なの。佳代さんは店長につきっきりで手が離せないだろうし、夏目ひとりに片付けを任せるのは不安だから、ちょっと手伝ってきたいんだ」
「ああ、なるほど……」
和の言葉にうなずいてそれから夏目へと顔を向ける。微笑む遥の顔がしかし瞳は笑っていない事に、見つめられた夏目は気が付いていた。
「……心配なら、来ればいい」
「え?」
「和とふたりきりにするのが嫌だと言うのならば」
「いいの? 俺は部外者だよ」
「かまわない。あなたにはその権利がある」
夏目の言葉にそれじゃあ、とうなずく遥に待ったをかけたが、夏目は店長は気にしないだろう、と事も無げに言った。
内心でため息を吐いた和は、どっと疲れを感じたからか、これ以上ふたりを止めようとは馬鹿馬鹿しくて思えそうもなかった。
「へえ、ここが和の働いてる店?」
「そう。いかにも喫茶店ぽくて良いでしょう」
「なんかレトロという言葉がまず思い浮かぶ」
「間違ってないねえ」
くすくすと笑いながら、和が店の鍵を取り出すと開錠する。和と遥の後から夏目も店内へ入り、開店していると間違われないようにクローズの札と施錠を忘れない。夏目が無言でうなずくと、和も同じように首肯する。
「じゃあ、夏目は表の後片付けお願いね。私は裏で洗い物するから、汚れ物は全部こっち運んじゃって」
「俺も手伝うよ」
挙手をする遥に今日何度目になるかわからないため息を和が吐けば、開き直ったのか、わかった、とひとつ呟いて和は指示を出す。
「和泉君は夏目の補助。仕事内容は夏目から訊いて。ちゃっちゃと終わらせて帰ろう」
「え! 和、俺もそっち手伝う」
「洗い場そんな広くないから、とりあえず先に表をふたりでやってくれるほうが効率が良いの。もしも洗い物がしたいのならば私と替わる?」
「ふたりきりにするのが嫌だって言ったのにどうしてそうなるの!」
「夏目に洗い物させると食器がいくつか犠牲になるかもしれないから任せられないの。裏方作業全般どうにもだめなんだよ。ただ表の作業はなぜかそつなくこなすから。必然的にそっちを頼むしかないの」
和の言葉に遥が渋々了承すれば、彼女はとりあえず持てるものを持ってバックヤードへと引っ込んでしまう。遥はその先をしばらくみつめていたが、ひとつ息を吐き出しては振り返った。
「とりあえず、テーブルの上を拭いたりすればいいかな」
遥にこくり、とうなずいた夏目は、無言で彼にふきんを手渡す。遥はそれを受け取った。奥のテーブルから、ふたりで黙々と拭っていく。てっきりもっと食器類が置き去りにされているかと思っていたが、一応は下げていってくれたらしく、少々乱雑になっている程度で、汚れ物といっても細々としたスプーンやお冷が入ったままのコップがいくつか置かれているくらいだった。
向かい側で淡々と作業をこなしていく夏目が遥の視界に入り、彼はそれを観察する。
一重のすっとした瞳は、いつかライバルとして彼を通り過ぎた鈴木託斗を連想させたが、託斗の力強い瞳ともまた色が違う、と遥は考える。どこか不思議で、何もかもを見透かされているような錯覚を起こさせる。遥は、自分よりも綺麗だとは思わないが、彼のこの自意識に反論できる人間がいないのもまた事実だ、なかなかに整った顔をしているという感想を抱いた。彼よりも夏目の顔のが好みだという女性もきっと少なからずいることだろう。それを考えると、遥の心中はいろいろと忙しかった。
そもそもが、遥の愛しい恋人は一重の瞳がお好みで、遥のようなはっきりとした美形は好みではない。遥は、なぜ和は整った顔が心底好きだという人種ではないのだろうと今更ながらに悔やむ。そうすれば、いつか自身のもとを離れてしまうかもしれないという懸念が少しでも晴れたかもしれないのだ。
そんな事を考えていれば、自然と彼を睨むような形になってしまったのだろう。視線を感じた夏目は、目が合った遥に首を傾げた。
「……俺が、うとましい?」
あまりにも真っ直ぐな夏目の物言いに一瞬かたまってしまったが、遥は首を振って苦笑をもらす。
「君自身がどうこうではないんだ、ごめん。これはね、なんというか条件反射みたいなものかなぁ」
「……条件反射」
反芻するように呟いた夏目に、遥は手元を再開させてうなずく。
「俺はね、いつだって和がどっかいっちゃわないか心配なんだよ。それにひどく心が狭くて。俺の知らない彼女の世界が広がってくと嫌だとどうしても思っちゃうんだ。すべてを知りたいなんて傲慢だし無理なんだってわかってるんだけどなあ」
好きなんだよねえどうしようもないくらい、と笑って話す遥に、夏目はますます首を傾げる。
「……和は、あなたを好き」
夏目は、手を動かしながら会話する遥を真っ直ぐにみつめて、自身は直立不動のままだった。きっと、発言しながら何かをするというのがひどく苦手なのだろう。遥はなんとなく、手を動かしたまま話を聞くのは失礼だろうかと考え、そんな彼にならっていったん手を止めた。夏目の言葉に小さく微笑む。
「俺の目からみて、あなたと恋仲だという事実自体が、すべてを物語っていると、思う」
「……というと?」
「あなたのような面倒臭い相手を恋人にすえるくらいには、和はあなたのことを愛しているんじゃないだろうか」
どこまでも無垢な表情で呟かれた言葉は、遥の中心を綺麗に撃ち抜いた。その衝撃たるや、呆然として身動ぎひとつできなかったほどである。
「あなたがそうやって不安がるのも、わからなくはないけれど。和は、ふわふわしている」
「…………ふわふわ。ああ、自由ってことだね。でも、俺の目からすると夏目君もそうみえるけど」
「俺は、ぼんやりしているだけ。でも和は地に足がついているのにふわふわしている」
わかるようなわからないような。
遥は夏目の言葉を噛み砕きつつ、言わんとしていることをあれこれ考えてみるが、どれも会っているような合っていないような気分だった。言葉数が多いぶん、きっと遥には気を遣って会話してくれているのだろうとは思うが、妙に抽象的なのでなかなかむずかしい。
「彼女の傍は、安心する。すべてをゆるしてくれる気分になる。だから、甘えたくなる」
呟かれた言葉に、遥は一瞬眼光を鋭くして夏目を見やるが、夏目はのほほん、とつづけた。
「でも性的に興奮はしない。ふしぎ」
またも直球すぎる彼の言葉に、遥は脱力した。
「……夏目君」
「女性として和を愛するのは色々大変」
「心中察していただけて非常にありがたいよ」
いまだに、夏目にどこか嫉妬めいた感情を抱く自分はいるものの、制御くらいは出来そうだ。そう考えて、いちおうは色々と気を遣ってくれたのであろう彼の数々の発言に改めて御礼を言う。その言葉を受け取った夏目はこくりとうなずくと、片付けを再開した。
「夏目、近いうちに前髪切りなよ。そのピンあげる」
「ん」
片付けが終わり、夏目と和たちは店の前でわかれた。遥が車を停めている場所と駅は反対方向なのだ。短く返事をした夏目は、少しけだるそうにゆっくりと歩いていった。
「……夏目君って本当不思議な人だね」
「まともにきちんと会話しようとすると頭痛するからやめときな」
「もうちょっと早く教えてほしかったよ」
苦笑する遥に、和も同じように笑って応えた。
しかし、その次の瞬間、ふいに遥が近寄ったかと思うと、一瞬にしてまたもとの距離に戻る。
「……真っ赤。かわいい」
「……な、な」
「俺をさしおいて他の男にプレゼントなんてしたお仕置きだよ」
続きは帰ってからね。
微笑んで耳元で囁きつつ、和は左手を握られる。
「プレゼントってピンのこと!? あれはプレゼントいわない!」
「自分のものを他人に譲渡したんだからプレゼントだよ」
道端でキスをされたという事実に羞恥しながらも、帰ってからがもっと怖いと考える和の足取りは重かったが、あまりに渋れば抱えて連れて行くという遥の言葉に慌てて歩みを進める彼女だった。
遥の愛の重みは、いまだ健在である。




