第六話「時には中を確認しましょう」
案内されるままに大学を出て辿り着いた場所は、駅前の表通りから少し外れた場所にある一軒の店だった。和はその店を認めた途端、あ、と小さく声をあげる。
「……ここ、来たことある」
和の言葉に特に何か反応するでもなく、短く入って、と夏目が呟く。和はぽかんと口を開けて見上げていた顔を慌てて戻せば、うなずいて夏目のあとに続いた。
からん、と昔懐かしいドアベルの音が響くと、これまたどこか懐かしい雰囲気の店内が飛び込んでくる。木製の椅子とテーブル、ほどよい光が差し込む店内。ポスターは少しくたびれた様子で、外国の広告のようなものが貼られている。こじんまりとしたサボテンに思わず微笑むと、カウンターから声があがった。
「いらっしゃいませ。夏目君、お友だち?」
恐らくこの喫茶店の店主であろう男性に、夏目は肯定の意をこめてこくり、とうなずく。あんたちゃんと声出して返事しなよ、と和が呆れ混じりに呟くと、店主は愉快そうに笑い声をあげた。
夏目に連れられたのは、駅からほどほどに近く、しかしそこまで目立つ立地にない喫茶店であった。和の嗜好ともよく合っているこの店は、彼女も何度か訪れたことがある場所だ。
「ああ、何度かいらっしゃってくださってる方ですね。夏目君のお友だちでしたか」
「え? あ、多分、知り合ってからは一度も来てないと思います」
和は数える程度にしか来た事がなかったが、そういえば若いアルバイト店員がいたような、と反芻する。しかし、記憶にある顔は、夏目ではない人物であった気がしていた。恐らく、辞めてしまったという人物なのだろう。
カウンターに佇む男性は、恐らくは三十代後半から四十代程度の見た目をしており、柔和な笑顔が印象的な人物だった。特別に制服らしい制服はないのか、エプロン姿でこちらをにこにこと見つめている。
「店長。新しいバイト」
「え? あなたが?」
目を丸くする店長にうなずいた夏目に背中を押されて和が一歩進み出る。しかし決定的な返事をしたおぼえのない和は、いやいや、と慌てて首を振った。
「良かったらどう、と言われただけで、別にまだ決めたわけじゃないです」
「そうだったんですか。夏目君、別にそこまで急いでいないんだから無理強いしちゃだめだよ」
「でも、厨房は人手不足」
ぽつり、と呟いた夏目の言葉に、反応したのは和であった。てっきりフロアに出て接客をやらされるものと思っていたのだが、ひょっとすると足りないというのは裏方なのだろうか。
「……あの、厨房担当の方が辞めてしまったんですか?」
興味を抱いて訊ねてみれば、店長と呼ばれる男が困ったように微笑んだ。いつでも微笑を絶やさないような男性だな、と和は内心で呟く。
「実は厨房とフロアと両方担当してくれてた子が辞めてしまってね。フロアは、まあ、夏目君が前よりも日数を増やしてくれたから問題ないんだけど、厨房のほうがね……」
「夏目、料理出来ないの?」
「気合」
店長の言葉に和が夏目を仰ぎ見ると、是とも否ともとれない返答がかえってくる。和が呆れ混じりにため息を吐けば、店長がそれにもう一度微笑んでやる気はあるんだよ、と庇うようなことを言う。
「夏目君、頑張ってはくれるんだけど食材が悲惨なめに遭っちゃうばかりでね……」
「ああなるほど。……ということは、厨房を募集しているということですか?」
「忙しい時は、時々、表に出てもらう事もあるかもしれないけど……夏目君が居るから滅多にそういう機会もないとは思うよ。ええと……?」
「あ、自己紹介もなく失礼しました。私、笹森和と申します」
「ささもりさん」
頭を下げて名前を告げれば、同じように店長も頭を下げる。
「この店で店長をやっている長岡正です。ひょっとして笹森さんは、接客をあまりしたくないのかな」
「ええと、はい。正直、表に出るようなものはちょっと苦手です」
「厨房は大丈夫?」
「料理なら、一応の事は一通りできます」
「そうか、それは入ってもらえれば助かるなあ……」
即戦力になるし、と呟く長岡の言葉に、和ははっきりと返答しないままに話が進んでいってしまっていることに多少の焦りを感じたが、しかしここで働けるのならばそう悪い話でもない、と思った。何よりも接客ならば不安はあるが、厨房であるならば初めての仕事という不安はあるものの、やっていけるだろうか、と懸念するまではいかない。
「あのー、実は、アルバイトを元々どこかしらではするつもりだったので、履歴書を持ち歩いてるんです」
和の言葉に、長岡は目を丸くすると、見せてもらってもいいのかと質問してくる。和はそれにうなずいて、鞄から取り出した。
「厨房だったら、是非こちらで働かせてください」
「本当に? こちらとしては助かるけど」
「はい」
長岡の言葉に最終的にはうなずいて、結局この日、和は「空間」と呼ばれるこの喫茶店に雇用される事が決まった。
「え、アルバイト?」
「そう、アルバイト」
遥が住むアパートの傍近くにあるスーパーにて、彼が買い物カートを押しながら和と遥は会話をしている。働き始めてまだ数日だが、仕事は特別大きな失敗をすることもなく、なかなかに楽しい時間を送っていた。
遥には黙っているのも後々に面倒であろうし、何よりも今までのように毎週末をゆっくり過ごせるかもわからないので、話しておかなければならなかった。基本的には平日の朝方か夕方からが多く、出勤する人間が大体の客層の為、逆に休日は客足が遠のくのだと長岡は話していた。土日勤務も基本的にしなくて良いと言われていたが、緊急時には頼むかもしれないと言われ、和はそれに了承した。
「どんなところ?」
「んー、喫茶店」
「! それって和が接客するってこと」
「いや厨房だから」
「……そうなんだ」
あからさまにほっとしたな。
内心で呟いて呆れの息を吐きつつ、人参をかごに放り込むと、遥は和の行動を目で追って、話の続きをする。
「それって和の大学の近く?」
「うん」
「今度行っても」
「やだ」
遥が言い切る前に和が即答すれば、遥がみるみる不機嫌になる。しかしそれには何も答えずに、和は必要な食材を次々と放り込んでいく。今夜は和食にするという言葉を訊いていたので、遥はちらと中身を確認しながらも冷たい恋人へと恨みがましい視線を向けた。
ずっと相手にせずに無視を決め込んでいたが、いいかげんその醸す空気がうっとおしいと感じたのか、和は結局降参して遥へと振り返った。
「別に私が席に案内するわけでも注文取りに行くわけでもないんだから来たってどうしようもないでしょ」
「そんなことないよ。どんな人が働いているのか確認できるし」
まだ多少拗ねた様子の遥の言葉に眉を顰めてどういうこと? と訊ねる和に、遥は当然であるかのように答える。
「同僚が男性か女性か確かめられるし、店長がどんな年齢なのか確かめられるし」
「はあ?」
「だから」
「いいよ繰り返さなくて。馬鹿じゃないのって言うのも疲れる内容だっただけ」
つまりは。
遥は、浮気、本気でそういう種類のものを心配しているわけではないのはわかるが、の相手になるような人間がいないのか偵察したい、と直接的な表現をしてしまえばそういうことなのだろう。その言葉に和は呆れざるをえない。
「だってこじんまりとしたところなんでしょ?なんとなく交流は深まりそうだなと思って」
「ああ、まあねえ……確かに私含めて四人しかいないけど」
長岡にあとから紹介されて知ったが、彼には既に妻がおり、休日は夫婦で店を切り盛りしている為、滅多なことがない限り土日はアルバイトを必要としていないのだと話された。平日にも夫婦で働けない理由は、妻の佳代が店の仕入れやその他の雑用などをこなしているらしく、店に出られないのだそうだ。長岡自身も開店中以外は妻と二人三脚で行っているらしいが、そうして役割分担をしているらしい。
しかし、ひとつ困った事がある。それはいわずもがな、夏目薫の存在であった。
和もそうだが、彼から送られる好意が男女の色っぽいそれではないと重々承知しているし、何よりも遥自身が彼女の交友関係にまで口を出すつもりはない、ときっぱり言っていた。しかし和にとっては許容できるものでも、彼がどこからどこまでをゆるしてくれるのかなどわからない。
とりあえず部屋に帰ってからにしよう、と和は心の中でうなずいた。
「え、夏目君の紹介?」
「うん」
「てことは夏目君も」
「いっしょに働いてる」
時間帯によっては店長とふたりだけだけど、と和が話せば遥は眉を顰める。長岡が既婚であることは先ほど伝えた為、この不機嫌はきっと夏目に向けてのものなのだろう、と和は冷蔵庫に食材を入れつつ横目で遥を見やる。冷蔵庫を閉めたのと、それは同時だった。
ぐい、と引っ張られ嫌な予感はしていた。前に住んでいたところよりも手狭な今の部屋は、一部屋だった。一応は台所スペースがあるので、他の一人暮らし用の部屋よりは贅沢といえるだろう。リビングらしき場所から部屋までは間仕切りがあり、遥は和を引っ張ったままその仕切りを開いた。
六畳の部屋は、ベッドまでの到達時間が早い。和は顔を青くしたまま、なんとか踏ん張ろうと力を込めるが、遥が腰ごと和を引っ張るので抵抗もむなしく早々にベッドの上へと投げ出されてしまった。多少乱暴に扱われても特別驚きはしないが、逆に慣れたということもない。わかりきっている結末に抗うのはある種、無駄といえなくもないが、和は素早く起き上がろうと体勢を立て直す。
「和」
しかし、当然の如く肘に力を入れたと同時に遥が和の上へと覆いかぶさった。和はそれに引き攣った笑みを浮かべれば恐る恐る彼と視線を合わせる。
「……なんでございましょう」
「もちろん俺は、男友だちを一切作るな、なあんてそんなこと、言わないよ?」
「ぞ、存じております」
あまりにも輝かしいその笑顔が恐ろしく、和は上ずった声でやっと答える。その間に遥は肘をついていた和の両腕を取り、手首を掴んでベッドに縫い止めてしまう。その手際の良さに和は声にならない悲鳴をあげる。
「でも、俺が和にたいして心が狭いっていうのも、理解してくれないと困るなあ」
「存じておりますううううう」
だからもう勘弁して! と半泣きになる彼女を見下ろして、遥はあくまでも表面上だが爽やかに見えた笑顔を酷薄なそれへと変化させた。
「和が夏目君に揺らぐだとか、そんな事は思っていない。でもね、物理的な距離っていうのはどうしたってあるし、彼に嫉妬してしまう俺の気持ちもやっぱり受け入れてほしいって思うんだ」
「それは……わかってるつもりでは、あるんだけど」
「じゃあなんで同じ職場で働きだしちゃうの」
ぐぐ、と近付く遥の顔はもうほとんど和との距離がない。和はそれに慄きながらも、上ずった声で質問に答える。
「単純に、店の雰囲気も好きだし、店長さんは良いひとそうだし、夏目ともそれなりに気心が知れるようになったから精神的負担が少ないかなっていうのはもちろんあったよ、あったけど!」
「けど?」
「土日は、ほぼ勤務しなくていいって言われたから、週末の時間を、今まで通り過ごせるかなって思って」
だんだんと小さくなる声に、遥は目を見開きかたまる。和は気のせいでもなんでもなく頬が熱くなっているのを感じれば、なんとか隠す術はないものかと考える。しかし彼女の腕は遥に拘束され自由が利かない状態だ。結局は羞恥に悶えるその顔を彼にさらしたままになっていた。
和はしばらく瞳をさまよわせながら、やがていまだ驚愕の表情をする遥に視線を合わせる。
「……本音はさ、週末毎回会わなくてもっつーのはいまだにあるよ? いや、可愛くない彼女で申し訳ないけど。でも、和泉君が寂しいって言ってくれるのはうっとおしい時もたくさんあるけど、嬉しいと思うし。会わなくても大丈夫っていう気持ちと、会いたくないっていう気持ちは別物だし」
会えば、その時間は私だって嬉しいんだよ。
そう小さい声で照れ臭そうに囁く和をしばしながめていた遥であったが、やがて我に返ったのか、突然和の腕を引っ張ったかと思うと自身といっしょに彼女の身体も起き上がらせる。
「和泉君?」
訝りながら和が疑問の声を上げれば、次には遥が和を抱きしめた。強い、けれど壊してしまわない程度の力を込めて。
「…………和」
遥の囁き声に、和はぴくり、と反応すれば、小さく返事をする。
愛してるよ。
言って、口付ける遥の唇はひどく熱くて、和はこれから始まる情事がどうなってしまうのかと考えると背筋が粟立った。こんな風に自分を変えたのが目の前にいる恋人なのだと思うと、和は恥ずかしく多少腹立たしいという感情もあった。けれど結局、それを上回る喜びがあるから受け入れてしまう。
『晩ごはんのしたく、どうしよう』
頭の中で最後に過ぎった言葉は、実に色気のないそれであった。