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第五話「不安の種を植えるつもりはないものの」

「遥ぁ、次って授業とってる?」

「……とってないけど」


 遥、と名前を呼ばれて、当然それは自身の名前であったため、遥はそれに答えたものの、頭の中に疑問符が浮かぶ。目の前の人間がどこの誰であるのか、まったくもって思い出せないのである。首を傾げつつ相手の出方を待つが、その瞳のいやらしさから、大方の予想はついていた。

 大学の食堂で昼を済ませ、そのまましばらく仕事の確認作業でもしようと思っていたが、遥は小説家である父の仕事を手伝っている、今しがたどこから現れたのか、目の前の女性につかまってしまった。

 女性は、恐らくは遥と同い年と思われ、とても挑発的な格好と体型をしていた。長い髪は揺れ、カットソーからは鎖骨をのぞかせ、スカートの短さは下着が見えるのではないか、とぎょっとしてしまう。遥は、どんなに時代は変わってもこういった典型的な誘う仕草を見せ付ける女性というものは消滅しないのだろうな、とぼんやり考えていた。


「私も次なくて暇なんだー。どっかいこ?」


 疑問系でありながら、行くことを断定するような物言いに、遥は思わず渇いた笑いを浮かべてしまう。しかしそれをどう勘違いしたのか、目の前の女性は了承ととらえたのか、腕を引っ張り遥を立たせようとする。強引すぎる手口に呆れながらもやんわりとその拘束を解こうとした。


「……和泉君て、あなたよね?」

「え?」


 遥がゆっくりと見知らぬ女の手を退けたと同時に、どこからか静かな声が彼の耳に届く。遥が座っていたのは窓際のカウンターのような席であった為、声の主は遥の真後ろに少しの距離を開けて立っていた。纏わり付いていた色香を漏らすように歩いている女も、同じように後ろを振り向く。遥の位置からちらりと女の様子を見れば、しっかりと嫌悪感を露にした表情を見せていたが、やがて、女性の様子を確認すると、安心と馬鹿にしきったかのようなそれに形を変えた。

 はっきりと言ってしまえば、遥を和泉君、と呼んだ人物は可愛くも綺麗でもなく、声の印象と同じように地味であったのだ。


「和泉は俺だけど……何か」

「さっきの講義。終わったとき先生から預かってしまったのよ。これ、再提出するようにって伝えて欲しいって」

「え……この前の課題? ありがとう。期限とか言ってた?」

「なるべく早くって」

「そうだったんだ、わざわざごめんね。……というわけだから、俺は君とは出かけられないよ、悪いけど」


 再提出だと言われた紙の束を受け取って、先ほどまで遥を誘っていた女に苦笑を見せる。すると女は不機嫌を露に声をあげた。


「そんなの別に今日中じゃないならそこまで急がなくたっていいじゃん、行こうよぉ」


 甘えたような声を出す女に、そろそろ面倒だと思ったのか、遥はきょとん、とした顔をしたままに、可愛らしく首を傾げてみせる。


「……ていうか、君、誰?」

「! は、遥」

「知らないし興味すらない女と出かける趣味って俺にはないんだ、ごめんね」


 課題ってやっぱり大事だし。

 言ってにっこりと微笑む遥に憤慨したのか、顔を真っ赤に染め上げて肩をいからせながら女は去っていく。ピンヒールの音が妙に小気味良く、あの音は嫌いじゃない、とどうでもいいことを考えつつも遥はそれを特になんの感情もなく見送った。


「……なんだ、別に困っているわけじゃなかったのね」

「いやいやとんでもない、助かりました」


 言って、遥は受け取ったばかりの束を目の前の女性に手渡す。女性は、黙ってそれを受け取った。

 ピンヒールを鳴らして去ってしまった彼女は気付いていなかったが、先ほどの話はすべて女性の機転によるものだった。紙の束は確かに提出するレポートの一種であったが、そこに書いてある表紙の名前は遥のものではなかった。しかしそれを尤もらしく手渡せば、誤魔化せるのではないかと思い彼女は実行したのだ。


妻沼(つまぬま)さん。ありがとう、助かったよ」

「いいえ。とんだおせっかいだったわね」


 遥は確認した表紙の名前を目にし、呼ぶ。返事をしたということは、恐らくそれが彼女の名前で合っていたのだろう。そのまま立ち去ろうとした彼女に、遥は少しの好奇心をくすぐられた。

 

「もしかして、昼これから?」

「……まあ、そうだけれど」

「よければおごるよ、お礼に」


 遥がにっこりと微笑んでそう申し出ると、妻沼は眉間に皺を寄せる。


「……ナンパ?」


 遥が腹を抱えて笑ったのはそれから数瞬のことであった。

 パスタとサラダのセットを頼んで戻って来た遥に、妻沼は淡々とした口調で悪いわね、と言いそれを受け取る。彼女は、特別そんなに良い事をした覚えはないので必要ない、と拒んだのだが、遥が押しきる形で結局お昼をもつことになった。遠慮はしていたものの、妻沼はそうなってしまえばなったでもう開き直っているのか、今は特に申し訳ない、という空気を醸してはいない。わざわざ遥が買いに行くという申し出にも戸惑いを見せている様子だったが、割り切ってしまうタイプなのかもしれないが、反応がとにかく新鮮で、面白い、と遥は純粋に思った。


「妻沼さんはさ」

「さんはいらない」

「え?」

「あなたみたいな男にさん付けで呼ばれるとなんだか背中がかゆいわ。妻沼で結構よ」

「……じゃあ、妻沼」

「なに」


 クリームソースのかかったパスタを豪快に食しながら、遥の言葉に相槌を打つ。こくり、と水を飲み込んで、二口目、そのまた次、とお腹をすかせた様子で目の前のパスタを食べ続けていた。遥はその様子に妙に好感を持てた。異性の目を気にしてちまちまと物を食べる女に嫌悪感があるわけでは決してないが、あんな風に食事をしていて楽しいのだろうか、とこれまでの出会いでそう考えることがたびたびあったのだ。


『和も、すごく欲望に素直な食べ方なんだよな。そこがまたかわいくて』


 ふふ、と思い出し笑いをしながら妻沼を視界に留めつつ、遥は頬杖をついた。先ほど疑問に感じたことを質問しようとと口を開く。


「どうして助けてくれたの?」

「……知り合いに、和泉君ほどではないけれどやっぱり顔が整ったのがいてね」

「俺も呼び捨てでかまわないけど」


 自身だけが呼び捨てなのも何か妙だと思い提案してみたが、それに何か反応を示すでもなく、妻沼はそのまま会話を続けた。


「そいつは断るのがとにかくへたで、いつも私が助け舟出してたの。だからその癖かしら。和泉くらいかわすのが上手ければいいのにって思うんだけどね」

「へえ」


 さりげなく訂正された呼び名に微笑みつつ、遥は妻沼の言葉に相槌を打つ。しかし、ある程度、異性に好かれる種類の人間であればそういった類の対人能力は自然と身につくはずだが、彼女の話を訊くかぎりではそういったものが一切欠如しているらしい。それでは、いつもそばにいるならば苦労も絶えないであろう、と遥は多少、同情めいたものを覚えた。


「そりゃあ、そのひとの恋人は苦労しそうだね」

「和泉の恋人も、じゅうぶん苦労しそうだけれど」

「俺の恋人は、そんなことを苦労だなんて思わない程度には素敵だよ」


 堂々と惚気るんじゃないわよ。

 やはり淡々としたその物言いに、遥は再度、笑いを誘われた。


「ねえ、笹森さん、お願い!」

「いや、意味わからないんで」


 面倒だ、と顔中でその言葉を表現しつつ、和はきっぱりと申し出を断る。

 遥が正門で派手なパフォーマンスをしてみせてから、三日が過ぎた。周囲の反応は予想外というよりも、予想通りすぎて腹が立つくらいだと和は思っていた。

 講義が終われば、その合間を縫って何人もの人間に声をかけられるのだが、その声をかける人間の目的がみな同じなのには呆れを通り越してどこか笑いすら浮かんでしまう。


「別に新歓の飲み会なんて部外者連れて来てもわからないから!」

「いや、そのサークルとやらに入るつもり一切ないんで」

「入らなくてもいいから!」

「飲み会とかそういうの苦手なんで」

「じゃあ彼氏だけでも連れて来てくれない!?」

「いや、いいかげんにしろよおかしいだろ」


 あまりにテンポ良く言い返されて、最後も思わず声にしてしまったが、言われた相手は不愉快そうに眉を顰めている。いや、その表情はおかしいだろう、と再度声を上げそうになったが、さすがにそれはしなかった。

 つまり、某かの形で遥ないしその周囲の男にお近付きになりたいという女性で溢れかえっているのだ。最初は控えめに断っていたものの、いいかげん面倒になって和はきっぱりとした物言いを余儀なくされるようになってしまった。

 友人が欲しいとは思っていないが、それにしたってこうも不興を買うようなことだってやりたかったわけではない。それなのに結局は遥のとばっちりでこういった状況にならざるを得なくなっている事実に、和はどこに怒りをぶつけたら良いものか考えてしまう。

 遥がもちろん悪いのだが、遥にああいった態度をとらせてしまったきっかけを作った自分にも、あの日は問題があった。そう考えれば、和は怒りの持っていきようがない。

 最終的に口汚く罵られ去っていく女性達を見ても怒りは沸かないが、この状況がとにかく面倒だった。とにかく、このまま様子を見てから決めるほかないが、この状況が続くのならば対策を考えねばならない。さてどうしたものか、と頭の中であれこれと考えてみたのだが、どうにも馬鹿馬鹿しいことしか思い浮かばない。


「……いっそ開き直るべきなのか」

「和」

「! 夏目」


 図書室にて開きっぱなしの本を前にぼんやりとしていた和に声をかけた夏目は、そのまま和の隣へと腰かける。一連の動作を見守ってから、和は重たいため息を吐いた。

 頭の中であれやこれやと先ほど思い付いた対策を具体的に形にしてみるが、出来ればあまりやりたくはない。そう思い至ってしまえば、口から出るのは憂鬱な空気だけである。そんな様子の和を見て、夏目は大丈夫、と声をかけた。


「疲れてる」

「まあねー……でも大丈夫」

「そう? 派手な彼だから、何かと大変そうではある」

「……まあねえ」

「少し意外。何故、あのひとを選んだの」


 首を傾げる夏目に、和も同じように首を傾げれば、うーん、と悩むような声を上げる。


「なんだろうなあ。とにかく、いっしょにいようと思ったから、かな」

「そう。それは良い事」

「そうね。夏目は?いないの、そういうひと」

「和」

「……は?」

「いっしょにいたいから、いっしょにいる」


 首を傾げ、どこまでも純粋な瞳で見つめられてしまい、和は一瞬慌てた自身が恥ずかしかった。いくら鈍いと言われようが、直球で言葉にされてしまえば誤解もするというものだ。しかし瞬時に、今のはそういった意味合いではないのだと理解した。


「いや、そういうことじゃなくてさ。夏目の言う性的な意味でいっしょにいたいひとは?」


 どうかとは思う言葉選びではあったが、これだけわかりやすく言わなければ、夏目の場合満足のいく回答が得られないということを短い月日ながらも和は既に知っていた。


「うーん、いない」

「そうか」

「そう」


 ふうん、と呟く和を、夏目は無言で見つめる。その視線がどこか居心地が悪いと感じれば、なに、と彼に問うてみる。


「……仕事を探してるの?」

「え? ああ、これか。うん、そうなんだ」


 和が開いていたのは、求人雑誌だった。街中に置いてあるそれらを気付いた時には持って行っていたのだが、どうにもしっくりくるような職種が見つけられずにいた。何に挑戦してみてもいいだろうと思う一方で、少しでもやりたい種類のものを選ぶべきだろうがさてどうしたものか、と悩んでいる。本屋などは求人数が少ないのか、やりたいと思ってもあまり広告自体がのっていない。そうするとその他の仕事になるのだが、特別に興味を抱くような何かがあるわけではなかった。


「選り好みするつもりもなかったんだけど、なんか迷っちゃってねえ」

「じゃあ、うちに来ればいい」

「え?」

「俺が仕事している店。ちょうどひとり辞めてしまって、ひとを募集してた」

「夏目の働いてる店?」


 目を丸くする和に、夏目はこくり、と首肯する。和はあまり夏目がアルバイトをしている所をイメージできなかったので、どんな職場なのか、少なからず興味を抱いた。


「どんなお店?」

「気になるなら今日、来れば良い」

「良いの?」

「かまわない」


 夏目の言葉に、和は甘えることにした。まだそこで働くと決めたわけではなかったが、とにかく彼がどんな様子で仕事をするのかという所にはおおいに興味がある。和はあれこれと想像してしまいそうになる。隣に座る夏目は、特に面白がるような仕事ではないから、と釘を刺す程度には、和は妙な笑みを湛えつつあれこれと想像をしてしまっていた。








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