第三話「またしても転がり始める日常」
「夏目君てさ」
「夏目でいい。よそよそしい」
「…………はあ」
半分ほど食べられてしまったおかずを見つめて残りを口にしつつ話の続きをすれば、苗字に敬称を付けるのはよそよそしい、と言われてしまう。和は、その言葉に思わず一瞬思考が停止してしまった。
なにせ交際して一年半ほどの男には、いまだにそのよそよそしい、と言われる形態をとっているのだ。和はなんとなく複雑な思いがする。
眉間に皺を寄せる和に不思議そうな顔を向ける夏目の様子に気付き、和はなんでもない、と首を振る。夏目はしばらく和を見つめていたが、やがて気にならなくなったのか、昼食の続きをとりはじめた。
「夏目って、学部はどこなの?」
「和といっしょ」
「……え、そうなの?」
「だってそこから出てきたでしょう」
指をさす方向へ和が目をやれば、確かに、とうなずく。彼が出てきた棟はまさしく和が所属する学部が利用する場所だった。図書室からもほど近く、和のような本の虫には正直ありがたかった。
しかし、とそこで疑問が浮かぶ。ひょっとしなくとも、彼は和を前から知っていたのだろうか。不思議に思い、再度質問すれば、うん、と短く夏目が返事をした。
「ガイダンスの時、席近かった」
「えっ」
「図書室で見かけて、和だって気付いたよ。名前は知らなかったけど」
「そうだったんだ」
パンを齧る夏目をまじまじと見つめて、和は改めて自身が美形に耐性ができてしまったのだと思わざるを得なかった。
夏目薫の第一印象は、全体的に色素が薄いことだ。色白で、髪も栗色に近い茶で、短くも長くもない真っ直ぐな髪は風になびくとさらりと綺麗に流れる。瞳はすっとした一重で、大人びた雰囲気を持つものの、口を開いた瞬間にぐっと幼い印象を抱かせた。
和は彼を見て、遥の従兄弟である優を思い出していた。どこまでもマイペースなところは、彼によく似ている。けれども優は活発な印象だが、目の前にいる夏目は物静かだ。そこが違うだけでも、ずいぶんと人間というものは違うのだな、と和は思った。
「猫みたいだよね」
「……?」
「夏目のこと」
「マタタビは好きじゃないけど」
「いや比喩だよ。素直にそのまま受け取ろうとしなさんな」
「?」
首を傾げる彼を見て、和はついに噴出した。
すべての講義を終え、腕時計を見ながら和は席を立つ。
今日は恋人である遥のマンションへ直行する日だ。冷蔵庫の中身はきっと空っぽなのだろうと思い至れば、そろそろ調味料なども買い揃えようか、と考えていた。週末に会うだけとはいえ、毎回外食をするのも忍びない。和も新生活で色々と気疲れしていたせいか、あまりきちんと遥の部屋で料理をしていなかったが、そろそろそういった世話を焼いてもいい頃合いだろうと思ったのだ。
『昔は絶対に和泉君の前で料理しないって思ってたくらいなんだけどなあ』
苦笑しつつ、すっかり彼に食事を取らせることが苦ではなくなった自身の変化をどこかくすぐったく感じる和は、正門へと歩き出した。遥の家から一番近いスーパーはどこだったか、と思案しつつ外に出れば、しかし彼女はどこか妙である、と思い始めた。
外が異様に騒がしい。もっと正確に言えば、正門付近が妙にざわついているのだ。和は眉根を寄せ、一瞬浮かんだ考えを鼻で笑って否定した。
そもそも、遥は今日仕事であると言っていたし、一昨日の電話でそれを嘆いてすらいた。だというのに、ここに居るのはありえない。さらに言ってしまえば、この広大な大学という場所で、いくら見目麗しい男性が立っていたって、あんなに騒がれるものだろうか。きっと遥よりも格好良い人間だって、探せばいるはずなのだから、高校ではあるまいし、やはり馬鹿馬鹿しい。
自身の考えを真っ向から否定して和が一歩前に出ると、横を通り過ぎた女性二人組が正門前の小さな喧騒について話しているのが耳に入った。
「ねえ、ちょっとあそこどうしたの?」
「ああ。さっき友達が言ってたけど、一時間くらい前からすっごいかっこいい男の子が正門に立ってるんだって!」
「え、まじで?」
「そうそう!そこらの芸能人よりかっこいいって~。さっき貰った写メ!」
「え、見せて見せて!うわ、ほんとだ!うっそ、これがあそこに立ってるの!?」
「そうだよ、早く見に行こう!」
「きゃー、行く行く!」
ご都合主義にもほどがある仔細な説明をしてくれた女性その1とその2に感謝の念を持つと共に、思い切り肖像権の侵害に抵触している事実に和は眉根を寄せた。高校時代でもはやそういった感覚は彼にとって麻痺しているのかもしれないが、それでも和が不快感を覚えるのは仕方がない。
ここでいう不快感の中身が嫉妬ならば女性らしくはあるが、あいにく和にそういったかわいらしい感情はない。あるのは、純粋に個人を侵害するその無遠慮な行為に対する嫌悪と、遥に対する苛立ちだった。
無料で餌を提供するなど、なんという詰めの甘さであるのか。遥は高校時代、ファンクラブなるものが存在した経緯からか、彼の写真はかなりの収益を生み出していた。非常識にもほどがあるが、和は一部それに協力し、写真を提供していた張本人だ。交際を始めてからはさすがに金銭的な享受を施されるのは憚れるため、無料提供をしていたものの、やってしまっていたことには変わりはない。卒業間際にそれが明るみに出てしまったときは、お仕置きと称されあれやこれやとされてしまったが、当の本人である遥は実はそれほど気にしている風でもなかった。恐らく、いちいち気にしていたらきりがないほどにそういった経験が豊富なのだろう。
しかし、和はそれが気に入らなかった。
有料で提供するのならばまだしも、いや、それも非人道的であるといえばそうなのだが、ファンクラブ統率のもと、きちんとした常識の線が引かれ、それらは行われていた。素人、と言ってしまうとなんともおかしな響きを含むが、とにかくそこらへんの有象無象に写真を撮られるのとは、まったく違う意味を持つのだ。それを許す遥が、和には信じられない。どこまで出回るのかがまるでわからないではないか。最終的には、和をも巻き込まれてちょっとした騒ぎになるかもしれず、和は何よりもそれが嫌だった。
終着点がそこになるあたり、自分勝手なのは変わりがないな、と和は自嘲したが、彼のことを心配するのもまた事実だ。遥は、目立つ自身を自覚しきちんとそこに立ってはいるが、それを利用してもっと目立とうと思うような自尊心は持ち合わせていない。たとえばそれをいかして芸能人になるとか、そういった性質が彼の中にはまるでないのだ。だからこそ、今回のように悪目立ちするような事はなるべく避ければいいのに、と思う。
和は内心、まあ、時代性もあるのだろう、とひとりごちた。
外に立っていることで誰かに写真を撮られ、それが電子メールに添付され、更にそれが限られたネットワークの中で出回る。その騒ぎを聞きつけて新たなネットワークにそれが飛び火し、といったところなのだろう。偶然に偶然が重なり一騒動を起こしてしまったのだろうが、にしたってやはり無自覚が過ぎる。和は、遥によく無自覚だ、と注意を受けていたが、それは遥とて同じ事だ、と目の前の一件を受けて思わざるを得なかった。
まあ、ここまで考えておいて、目の前の騒動が本当に遥の起因するところなのかはわからないのだが、和はもう確信を持って淡々とそれを眺めていた。
「……違う出口から行くか」
駅からは多少遠回りになるが仕方ない、と考えて、和は踵を返す。あの中に飛び込むなど、自殺行為に他ならないし冗談ではない。そう思い至り、和は当然のように反対方向から出ようと歩き出した。
「和、帰らないの?」
「! 夏目」
ちょうど一歩を踏み出したところで話しかけられ、和は目を丸くする。なぜか彼は和の腕を掴まえて問いかけてくるので、和は帰るけど、と声をあげる。
「じゃあ、ほら。こっちのが近いよ?駅使うでしょ?」
「いや、そうなんだけど。ちょっとあっち側に用事があって」
「あっち側は住宅街だけで何もない」
「別にいいでしょう、どんな用事があろうとも!」
「うん。でも用事嘘でしょ?」
「嘘であったとして、夏目に関係あるの?」
「駅までいっしょに帰る」
最後のそれが言いたかっただけか!と叫べば、そうだ、と夏目が返す。それならば、と和は踏ん張って夏目に再度声をかけた。
「いっしょに駅まで行くのはいいけど、あっちから行かせて!正門に近付きたくないんだよっ」
「遠回りになるよ」
「遠回りがいやならひとりで帰って!」
「それはだめ」
「じゃあ、あっちから行こう!」
「……わかった」
うなずいてくれた夏目にほっと息を吐いて、和は今度こそ歩き出す、はずであった。
「誰、それ」
低い、低い声音に和は反射的に身を強張らす。しかし、逃げ出す事は出来なかった。もう、声の主に腰をがっしりと掴まれているからだ。
「……なんで、ここに」
「和が見えたから」
「正門までかなり距離あるのに、あんた視力そんなに良かったっけ!?」
「和ならどんなに遠くても視界に入ればわかる」
「こわっ!」
嗅覚に続いて視覚までも!?と叫ぶ和に、遥はゆったりと笑いかける。彼にとって、和の嘆きは二の次で、目の前にある問題こそ重要だと考える。そう、彼の前に立つ見知らぬ男だ。
「……避けていた理由は、これ?」
夏目の言葉に、ぴくり、と遥が片眉を動かした。みるみるうちに眉間に皺が寄るのを感じれば、遥は低い声で愛しい恋人の名を呼んだ。和が、それに反応すれば大袈裟なまでに肩を揺らす。
後ろからもはや抱き竦められている事実に拒絶反応を示せないほど、今の和は混乱していた。どうこの場を切り抜けようか、そればかりに思考を費やしている。
「避けていた理由ってなにかな?ああ、そういえば、反対方面に歩いてたね、なんでかな?」
「え、あ、その」
「面倒事はごめんだから、他の出口から帰ろうと思った?」
「ぐ」
「まあ、そうだろうね、わかっていたけれど」
悪い子だね。
耳元で囁かれ、和は脳がしびれる。よくわからないめまいと共に、顔が赤くなるのだが、理由がわからずにいた。羞恥心なのか、また別の某かの感情なのか。和はまさしく混乱の極致である。
遥は、その様子にある程度は満足したものの、いまだわかっていない男の正体をきちんと話してもらうまでは、ここから立ち去ろうという気にはなれなかった。
「で、もう一度質問するね。この人は誰かな?」
「と、図書室で知り合った夏目薫君です」
「……お友だち?」
その質問に、和は首を傾げる。恋人でないことは確実であるし、となれば、友だちというのがいちばんしっくりくるのかもしれない。しかし、和には目の前の男が何を思っているのか把握できていないし、一方的にそう思い込むような図々しさもなかった。
「俺と和は、図書室で知り合って、今日はお昼を食べた。今はいっしょに駅まで帰ろうとしていた。そういう関係」
「! へえ」
和って呼ぶんだ。
口では言わなかったものの、短い返答で言外にそういいたいのだと彼女にはわかってしまう。遥は、呼び名というものに酷く敏感で、彼の父親を彼女が下の名で呼んだときも、彼女が誰かに名を呼ばれるときも、何かのスイッチが入るかのように怒りを滾らせる。和は、それにいつもならば呆れて返せるのだが、今は状態が状態なだけに、これ以上暴走しないか戦々恐々としていた。
そんな遥を知らないからか、それこそ何も考えていないのか、夏目は淡々と言葉を続ける。
「あなたとの言うところの友だちというので、いいとは思う。俺は特に、彼女を見て性的に興奮しない」
「ちょ、夏目!」
明け透けな物言いに驚いて名を呼ぶと、遥が腰にまわしていた腕の力を強めた。和は慌てて遥、と彼の名を呼ぶ。急場しのぎではあるが、普段苗字で呼んでいる彼を下の名で呼ぶことは、ふたりにとって特別を意味していた。現に、遥が一瞬反応を示したことを和は確認した。ほんの少しではあるが、怒気がやわらぎ顔から力が抜けたのだ。
「……友だち、っていうんなら、俺は口出しする権利はないよ。恋人っていう立場ではあるけれど、和の友人関係にまでとやかく言いたくはないから」
遥はそこでいったん言葉を切ると、でも、と鋭い双眸で夏目を見やる。
「夏目君がそこから動いたのなら、俺は絶対に容赦しないから。それだけは覚えておいてほしい」
「……わかった」
うなずく夏目に、遥はふ、と微笑んで、今しがた口にした言葉を謝罪する。夏目はそれにも淡々とかまわない、と言った。
「それじゃあ、和。お仕置きは帰ってからね」
「え?ぎゃあ!」
微笑む遥は、腕の中から彼女を解放したかと思えば、次には和を横抱きにする。狼狽して暴れようとすれば、遥はあろうことか和の唇を自身のそれで塞いだ。それは深いものではなく、一瞬のものだったが、和を刹那かたまらせるにはじゅうぶんだ。
「これよりもっとすごいの、ここでされたくなかったらおとなしくしてくれる?」
耳まで赤くして閉口する彼女に気を良くしたのか、遥は微笑んで夏目にわかれの挨拶をすると、そのまま歩き出した。
正門へと真っ直ぐに進んで行く遥の行為を、死刑台に引っ立てられる罪人のようだと感じれば、和はとにかく顔を埋めて羞恥に耐えるしかすべはないと思い、遥の胸に顔を押し付ける。そんな彼女の行為に、彼が歓喜しているとは気付かずに。