第二話「不変と変化」
『和ぃ、会いたいよう……』
電話越しの情けない声に、和は思わず眉を顰める。恋人からのラブコールにもかかわらず、彼女は特に甘い言葉を囁くでもなく、会いたい、と呼応するでもなく、呆れのため息をひとつ吐き出した。
「あのさ、一週間前会ったじゃん」
『一週間も会ってないんだよ!?』
電話口で嘆く遥に、和は再度ため息を落とす。
それぞれの大学生活が始まって、ようやく一ヶ月が経過しようとしている。もうそろそろ大学生活というものにお互いが慣れてきた頃だ。
しかし、和は実家生活ということもあり通う場所が変わっただけでそこまで劇的な変化はないものの、遥は家自体を引っ越している為、あれこれとなかなか生活が安定しない。元々が生活力というものがあまりない遥は、家の中をあまり汚さない。というのは、食事などはほぼ外食で済ませ、家には寝に帰る、というのが彼の中で普通であるからだった。掃除や洗濯はこまめではなくともやるにはやるが、こと料理に関してはほぼやらないに近く、台所は完璧な美しさを保っているような状態である。
和は、遥が高校生時代に暮らしていたマンションの様子を思い描けば、きっと変わらぬ生活をしているのだろうと内心思っていた。それでも、自分の生活をかえりみず彼の世話を焼こうと思わないところが、彼女らしい。
とはいえ、死んでしまう、とのたまう遥に従って、毎週末は遥の部屋に訪問しているのも事実なのだ。月曜日の朝まで居てくれ、と毎週末言われながらもそれを振り切り金曜日の午後から土曜日の夜までしか滞在しないのは、和が自身の体調を考えてのことだった。
遥の溺愛ぶりを察すれば、高校時代からの友人はそれだけで、ああ、と呟き頷いてくれることだろう。
彼の和への執着心は、はっきりと言ってしまえば異常である。いつか彼が言っていた、彼女を失うのならば何をするかわからない、という言葉はきっと真実なのだろう。それでも和は、彼が何があろうとも心変わりなどしない、とまで自惚れる事はない。彼女いわく、人間の心とは非常にうつろいやすく、努力を怠れば簡単にそれまで構築した関係など崩れてしまうのだそうだ。であるからこそ、和は遥に横柄な態度を取ることをせず、都度あらゆる努力をしてきた。まあ、彼女の出来得る範囲で、ではあるが。
つまりは、とにかく彼の家で、彼にあらゆる行為をされてしまうのを黙認、ある程度の抵抗はするが本気で拒みはしない、しているということも、その努力の内には入っていて、和にとって現状は最大限の譲歩とも言えるのだ。こうでもしなければ、次の日が億劫で仕方なく、毎週月曜日は講義を休むはめになってしまう。そんな事になればなんのために大学へ進学したのかわからない。和は毎回それを口にし、ふてくされる遥と共に、遥はどんなに和が拒もうとも彼女と共に彼女の家へと送って行く、帰路に着いていた。
『でも、今週末は会える時間減っちゃうんだよ!?』
「ああ……アルバイトが重なるって言ってたもんねえ」
遥は、出版社にて雑用という名のアルバイトをしている。きっかけは小説家である父親を〆切から逃亡するたびに追いかけるという構図を繰り返しているうちにであった。会社側から本格的にサポートにまわってくれないかと頼まれてから、遥は雑務と父親の仕事の手伝いを仕事にして金銭を稼いでいる。
金曜日には仕事があるらしく、家に帰るのが少々遅い時間になるらしい。遥にとっては情けない声で恐らくは血相を変えつつ電話をするくらいの衝撃ではあるが、和にしたらその程度の話、で終わるくらいのものだ。それに、と和は独白を続ける。
実は、和も大学に入ってからアルバイトなるものを始めようか、と考えていた。
外で仕事をせずとも、彼女はあらゆる事柄で合法的に、時には合法的ではあるが褒められたものではない手段でこつこつと貯金を蓄えてきたのだが、和はここら辺でアルバイトをやり始めるのも悪くはないだろう、と考えていた。外での実務経験は、これからあらゆる面において決してマイナスにはならない。しかしそうなれば、ますますふたりが共に出来る時間は減るわけであり、遥が良い顔をしないだろうと予想する。
和は、決して遥に許可を取ってからなどとは思っていなかったが、何よりも事後承諾になってからのあらゆる事柄が面倒で仕方ないと考えていた。
『金曜日、なるべく早く帰って来るからね!』
「何言ってんの。ちゃんと仕事してきな、別に逃げも隠れもしないんだから」
苦笑する和に、遥はもう一度会いたい、と告げてからあらゆる愛の言葉を口にし、やがて電話を切った。
「……大丈夫なのかなこんな調子で」
息切れするのは彼が先なのだろうか。
ひとりごちながら、和は風呂に入ろうと自室をあとにした。
大学の図書室は、当然だが高校とは比べ物にならないほどの規模を誇る。資料集めいたものが多くを占めるものの、和は特別不満はない。一日の大多数をここで過ごしたい、と思う程度には、この空間が気に入っていた。
大学生活が始まってからというもの、特別、友人めいたものを作る気にはなれずに、入学ガイダンスで頑張って声をかけている人間などを横目で見、和は頭の中で取得単位を計算しつつ、淡々とはじめの一週間を過ごした。講義が始まれば、もうほとんどがグループ化され、いよいよそこに割って入る事も出来なくなる。というか、和にとってこれは望んだ結果だった。
高校時代も、特別親しい友人を作ろうとは思っていなかった。そもそもがひとりの時間を大切にする彼女は、集団行動というものを得意としていない。けれどもクラスメイトとはそれなりに会話をしつつ、しかし休日に時間を共にするような人間は作らない。それが彼女の中でいちばん素晴らしい高校生活だったのだ。しかし遥と出会い、ある種強制的に友が出来、その友人もまたべったりするような性質ではなかった為、今現在も友人関係が続けられていた。
和は、大学でもそれを変えるつもりもなかった。今の少ない人間関係で、じゅうぶん彼女は満たされているからだ。サークル活動に精を出し、やれ飲み会だと騒ぐ輩を特別蔑視するわけではないが、自分にはそういったものが向いていないことぐらいわかっているのだ。
講義と講義のあいだにこうして図書室に赴き、今日も今日とてどこで昼食をとろうか心の中であれこれと場所を思い描きつつ、和は並ぶ本の背表紙へと視線をさまよわせる。
ひとつ、興味深いものを発見し、和はぴたり、と手を止める。背表紙のタイトルを確認して手を伸ばすと、何故か同じようにどこからか手が伸びた。
あれ、と心の中で首を傾げつつ、同時にかけたひとさし指から視線を向けると、そこには和と同じく不思議そうな顔をして彼女を見つめる男の姿があった。
お互いに数秒沈黙すれば、やがて短く声を上げたのは男のほうだった。あ、と言う言葉にならないそれと同時にひとさし指を後退させる。
考えてみれば、ある程度の時間他人と触れ合っていたのだ。その事実に気付けば、特に他意がなくともどこか気まずさがあった。和は同じく本にかけていた手を下ろすと、特別何か言葉をかわす必要もなかろうと小さく会釈をしてその場を去ろうと踵を返す。
瞬間、和の手首は何者かによってつかまれた。それが目の前に立つ男だと認識するまで、それなりの時間を要したが、和がきちんと頭の中でそれらを理解する前に、男から口を開いた。
「本、いいの」
「え?あ、あー……と」
真っ直ぐと射抜くように見つめられ、和はどこか縮こまる思いがする。
なんとも率直な物言いと、問うような視線は、年頃よりも幼さが見える。純粋という言葉が脳裏に浮かび、次いで赤子のような瞳だ、という発想が和の思考で展開される。なぜだか、彼にはすべてを見透かす能力があるのではないか、と思えてならない。それは、田舎に暮らす不可思議な祖母達と相対している時と感覚が似ていた。彼女達もまた、真理をわかっていつつも赤子のような純粋さがある。もっとも、彼からこの世のありとあらゆる摂理をわかっているかのような深みを感じられたわけではなかったが。
和は言葉を中途半端なところで切ってしまったことを思い出せば、つかまれていた手首をゆっくりとした動作で外し、無表情で相手を見やる。愛想笑いを浮かべようかとも思ったが、彼には必要ないだろう、と和は判断した。
「資料として何かに使います?」
「使わない。読みたかっただけ」
首を振る彼に、和はふむ、と首を傾げた。
「私を呼び止めたのは、本を譲ろうと思ったからですか?」
「不公平だと思っただけ。何も言わず譲られる義理が自分にはないから」
「なるほど。……じゃあ、じゃんけんでもします?」
この場をおさめる為には、公平さが必要なのだ、と和は理解した。となれば、お互いにどうぞ、と言うのでは堂々巡りになってしまう。そんな思いから提案したのだが、和の言葉を受けて、目の前の男は目を丸くした。
「変わっているって言われない?」
「……至極公平な提案であると考えますが」
「そうだね。悪くない」
変わっている、と言った次にそんな風にうなずく彼こそ、不可思議だと和は思った。手を拳骨の形にすると、お互いに勝負の姿勢に入る。
いざ、という瞬間だった。男が急に手を下ろす。
「やっぱり、譲る。面白いやりとりが出来たから」
小さく微笑む彼に、和はえ、と短く声を上げる。
「……いいんですか?」
「次に会ったら、敬語いらない。俺一年だから」
「は……」
「自己紹介は、そのときいっしょに」
先ほどよりも深く笑みを浮かべて、男は和のもとを去っていった。
どこか狐につままれたような感覚でしばし呆然とする和であったが、我に返って目当ての本を取り出した時には、すっかり本を読む気分でもなくなっていた。それでも、このまま移動するのは悔しい思いがあり、半ば意地で読書を続けようと席を探すはめになった。
次の日は、昼食時だった。暖かい日和の、食堂やその周辺のテラスが賑わいを見せるなか、まわりにベンチなどもない非常階段が伸びる一応は建物の外で、和はごはんを食べていた。
『人気のないところ探すの案外面倒だし、次は普通に食堂とかでとろうかなあ』
別に賑わいの中で食べるのが苦痛なわけではない。和が心のなかでそんな事を考えつつ弁当のおかずを咀嚼していると、重い扉を開け放つ音が彼女の耳に届いた。どうやら、誰かが非常階段に続く扉を建物内から開けたようだ。
和は構う事無く昼食を堪能していると、上から声がかけられた。
「おいしそうだね」
「……あげないよ?」
「いや、別に催促はしていないけれど」
「あそう」
会うのは二度目になる図書室で出会った男は、和が持つ弁当からやがて彼女自身に視線をやり、やがて微笑んだ。それなりに表情を出す人間らしく、和にはそれが多少意外でもあった。
弁当を譲らないという宣言をしたからなのかはわからないが、少し羨ましそうにもう一度和のお昼を眺めつつ、彼はコンビニかなにかで買ってきたらしい大きなパンをひとつ取り出せば、袋を開けてそれを齧った。
「夏目薫」
「え?」
「俺の名前」
「ああ、自己紹介ね。あんたとことんマイペースだな」
苦笑を浮かべて応える自身を、和はどこか意外だと客観的に考えていた。別に他人を拒絶するような性質ではないが、かといって積極的に関係を求める癖もない。だというのに、この男とのやり取りは至極自然に思えて、話しかけられるのも不快ではなかった。本来ならば、こういったひとりの時間に踏み込まれるのは、あまり得意ではないというのに。
和は、嫌ではないと思えている自分が今度こそ心底意外であった。
そんな風にひとり思考に耽っていると、物言いたげな顔で夏目が彼女を見つめてくる。和はどうしたのかと首を傾げれば、夏目は短く名前、と呟いた。それに和はああ、と返事をする。
「笹森和」
「ささもりなぎ、ってどう書くの」
「笹と森は普通に笹の葉と森林の笹森で、和はなごむとか調和のわ」
「和か。綺麗な名前だね」
「綺麗……?あんまり綺麗っていうのを連想させるような名前だとも思わないけど」
「風がなくなって、波立たない、柔らかな、穏やかな様子。でしょ」
「はあ、まあ。両親は、そういう意味とあらゆる物事を客観的に見れるようにって意味でも付けてくれたらしいけど」
「それで平和とか調和のわ?」
「まあ、そういうこと」
「やっぱり綺麗だと思う」
「そう?どうもありがとう」
まじまじと和を見つめて真顔で話す男に、和はなんともいえない気分になった。ここまで名前を褒められるような事は人生において初めてだったのだ。
「なつめ君は、一文字?それとも季節の夏のほう?」
「季節のほう。かおるは風薫るの薫」
「なるほど。某剣士のほうか……」
「え?」
「いや、なんでも」
『どちらかといえば映画版に出てきたあれのがイメージが……ってでもあれは片仮名だしそもそもカオルじゃないし』
ぶつぶつと呟く和に首を傾げる夏目であったが、和はもう一度なんでもない、と首を振った。
「夏目君のが字面は綺麗じゃない」
「……自分では、それなりに気に入っているかもしれない」
「それはよかった」
「……やっぱりちょっとほしい」
「え?」
ずい、と目の前に持ってこられたのは先ほど夏目が一口齧ったパンだった。彼が見つめる先には和がこしらえたお弁当。等価交換ということらしいが、微妙に割りに合わないのでは、と思いつつ、和は結局、彼の純粋な瞳に勝つ事が出来なかった。