『愛を売る女、孤独を買う男』
安っぽい遮光カーテンの隙間から、濁った午後の光が差し込んでいた。
ワンルームの狭い部屋には、甘ったるいバニラの香水と、脱ぎ散らかされた服の埃っぽい匂いが混ざり合って充満している。ベッドの上に置かれたスマートフォンが、短く震えた。
ブブッ。
画面に表示された通知を見る。
『よしこちゃん、今日も仕事かな? 無理しないでね。体調崩してないか心配です』
送り主は、アプリで知り合って三ヶ月になる会社役員の男――登録名は「ケンジ(54)」。
高松よしこ(36)は、薄く開いた唇からふうっとため息を吐き出すと、乱れた髪をかき上げた。鏡に映る自分の顔を見る。目元には隠しきれない小じわ、重く垂れ下がった頬。加工アプリを通せば「守ってあげたい儚げな20代半ば」に化けられるが、現実の顔面はくたびれた中年のそれだ。
だが、そんなことはどうでもよかった。
彼女の指先は、すでに液晶画面の上を滑っている。
開いたのは、ネットの闇ルートで手に入れたPDFファイル。
タイトルは――『頂き女子のバイブル・絶対におぢを落とす魔法のステップ』。
世間を騒がせ、今は塀の中にいるあの女が残した、欲望と欺瞞の結晶だった。
「……まずは『共感と孤立』。あたしにはケンジさんしかいないって、信じ込ませる」
よしこは画面の文言をなぞりながら、自分に言い聞かせるように呟いた。声はひどく低く、冷たい。だが、スマホに向き直った瞬間、その表情は一変した。まるで見えない観客の前に立つ女優のように、眉をハの字に曲げ、あどけない哀愁を顔いっぱいに貼り付ける。
『ケンジさん……LINEありがとう。ケンジさんからのメッセージ見たら、なんだか急に涙が出ちゃった』
送信。
わずか数十秒で既読がつく。
『えっ、どうしたの!? 何かあった? 俺でよければ話してごらん』
よしこはフッと口角を歪めた。
(よし、釣れた)
マニュアルの教えが頭の中で再生される。
《おぢはね、頼られたいの。“自分だけがこの可哀想な子を救える”っていうヒーロー願望を刺激してあげるの。弱みを見せる時は、絶対に一回拒むこと。「迷惑かけたくない」って言うの。それが最大のフックになるんだよ》
よしこは両手で器用にフリック入力を続けた。
『ううん、なんでもないの。ケンジさんに心配かけたくないもん。私、一人で頑張るって決めたから……迷惑かけられないよ』
『迷惑なわけないだろう! 水臭いな。よしこちゃんが困ってるなら、俺はいつだって力になりたいんだよ。電話できる?』
着信画面が光る。
よしこは一つ深呼吸をし、喉の奥を鳴らしてトーンをワントーン上げた。鼻をすする音をわざとマイクに拾わせる。
「……もしもし、ケンジさん?」
「よしこちゃん!? 大丈夫か? 声が震えてるよ」
受話器の向こうから聞こえるのは、絵に描いたような焦燥と、優越感が微かに混ざった中年男性の声だ。自分を頼りにして泣いている若い女。男にとって、これほど自尊心を満たすシチュエーションはない。
「ケンジさん……声聞いたら、本当にダメになっちゃいそうで……ごめんなさい、私、情けないよね」
「そんなことないよ。何があったの? ちゃんと話してごらん」
「あのね……歯が、ずっと痛くて。歯医者さんに行ったら、奥の骨まで炎症が進んでて、すぐに大がかりな手術とインプラント治療をしなきゃいけないって言われちゃって……」
「えっ、歯の? それは痛むだろう。早く治療しないと」
「うん……でもね、保険がきかない特殊な治療らしくて……全部で、270万円かかるって言われちゃって……」
よしこは言葉を詰まらせ、嗚咽を漏らした。
「私……親にも頼れないし、貯金も全然足りなくて……先生には『早くしないと顔の神経が麻痺するかもしれない』って脅されて……怖くて、痛くて、どうしたらいいか分かんなくて……っ」
「270万……」
ケンジの声が一瞬、躊躇するように沈んだ。さすがにポンと出せる端金ではないのだろう。よしこの背中に冷たい汗が流れる。だが、ここで引いてはいけない。マニュアルのページが脳裏をめくる。
《おぢが躊躇したら、お金をくれなんて絶対に言っちゃダメ! 「諦める」「身を削る」って言って罪悪感を植え付けるの!》
「ごめんねケンジさん! 変な話しちゃって! 忘れ、忘れてください! 私、夜のバイト増やすか……最悪、体売る仕事でも探して、なんとかお金作るから! ケンジさんには関係ないことなのに、本当にごめんなさいっ……!」
泣きじゃくりながら、よしこはあえて通話を切った。
ツーツーと無機質な電子音が響く。
部屋の中は静まり返っていた。よしこはベッドに身を投げ出し、爪を噛みながらスマホを見つめた。
心臓が早鐘を打つ。
(どう来る……? 逃げる気? それとも――)
一分、二分。
沈黙が部屋の空気を重く湿らせていく。窓の外で、カラスが濁った声で鳴いた。
そして、三分後。
スマホが激しく鳴り響いた。
「はい……ケンジさん……?」
「よしこちゃん! 勝手に電話切るなよ! 体を売るだなんて、そんな馬鹿なこと絶対に許さないからな!」
電話越しのケンジは、息を荒らげていた。まるで悲劇のヒロインを救い出す白馬の騎士になりきっているかのような、熱を帯びた声。
「でも、私にはそれしか……」
「俺が出す」
よしこの胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
「え……? で、でも、そんな大金……ケンジさんに甘えられません……!」
「いいんだ。よしこちゃんが痛みに耐えて、危ない仕事に身を投げるなんて考えたら、俺は気が狂いそうだよ。明日、銀行が開いたらすぐにおろして渡すから。だから、もう泣かないで」
「ケンジさん……っ、ありがとう……! 私、私、ケンジさんのこと……一生大切にする……!」
よしこはボロボロと嘘の涙を流しながら、何度も何度も感謝の言葉を重ねた。電話口の向こうで、ケンジが満足そうに「よしよし、大丈夫だからね」と繰り返している。
通話が終わり、画面が暗転した。
よしこはスマートフォンの画面を拭うと、ベッドから起き上がった。
先ほどまでの震える声も、涙に濡れた表情も、霧のように消え去っていた。口元には、冷徹で下卑た笑みが浮かんでいる。
「……チョロい。ほんと、バカばっかり」
ドレッサーの引き出しを開けると、そこには別の男たちから引き出した数百万円の札束が、雑に輪ゴムで束ねられて詰め込まれていた。
すでに総額は一億円を超えている。だが、いくら集めても心の渇きは癒えなかった。歌舞伎町のホストクラブに消えていく泡のような金。自分をチヤホヤしてくれる若い男たちの笑顔を買うためだけに、この泥水を啜るような嘘を重ねている。
ふと、画面のPDFマニュアルに目をやる。
《頂きはね、恋じゃない。相手の人生の隙間に入り込んで、心を奪うビジネスなんだよ》
「ビジネス、ね……」
よしこは小さく呟き、赤く濁ったルージュを唇に引いた。
鏡の中に映る自分は、誰かの心を食い物にして生きる化け物のようだった。
その時、玄関のドアが「ドンドン!」と激しく叩かれた。
「高松美子さんですね! 警視庁です、開けなさい!」
金属的な怒号が、薄暗い部屋の空気を切り裂いた。
よしこの手から、紅色のリップスティックが滑り落ち、安物の絨毯の上を転がっていった。
ドアの向こうでは、誰かが彼女の名前を呼び続けていた。金を要求しない男たちに名前を呼ばれたのは、ずいぶん久しぶりだった。




