月の森の夢還り
夢幻
――それが、私の愛猫の名前だった。
虹色の美しいオパールのような瞳を持ち、喉を鳴らす音に奇妙な心地よさを感じていた。
口を閉じ気味にして「むー」と鳴く愛らしい声は、私をいつでも笑顔にさせてくれた。
あの子を失った私の部屋には、もう騒がしくも愛おしかった走り回る足音すら響かない。
ただ、時間の果てで 冷めゆく温度だけが、その名の通り、泡沫の幻の如く残されていた。
庭の奥、古い桜の根元に、小さく盛られた土と、少し大きな石がある。
墓と呼ぶにはささやかすぎるが、今、夢幻が眠っている場所だ。
夢幻が亡くなる前、ブラッシングで取れた毛玉を洗い、虫よけをして、小さなロケットへ納めておいた。
それを墓石の上に置き、夢幻が使っていたエサ皿に水をたたえて、月を見上げる。
土はもう落ち着き、白い花も枯れたのに、空気だけが微かに温かい。
――まだ、夢幻がそこにいるかのような……。
ある日の事。
その夜の月は、妙に大きかった。
夢幻の墓の前で水を替え、ぼんやりと月を見上げていると、不意に胸の奥で何かが疼く。
「おいで」
そんな言葉を聞いたわけではない。
けれど足は、私の意思とは無関係に歩き始めていた。
ロケットと、えさ皿を抱えたまま、私は庭を出る。
いつも見慣れた街灯の灯りが、水に溶けた絵の具のように滲んでいく。
アスファルトを蹴る自分の靴音が聞こえない。
まるで、分厚い綿の上を歩いているかのように、あるいは浅い水底を揺られながら進んでいるかのように、現実感が少しずつ削ぎ落とされていく。
寒さも、夜風の匂いすら感じない。ただ胸の奥の疼きだけが、磁石のように私を引っ張っていた。
夜道を歩いているという感覚も曖昧で、気付けば、誰も近寄らない古い森の入口へ立っていた。
ああ、そうだ。
この森には、言い伝えがあった。
奥深くには――失ったペットを蘇らせる湖がある、と。
信じたわけではないが、足は勝手に森の奥へと向かう。
木々の隙間から月光がこぼれる。
小道を歩いた記憶は曖昧だった。
景色は少しも変わらないようで、それでも気付けば目の前に湖があった。
……奇妙にひっそりとした、恐ろしいほど澄んだ湖だった。
その周囲に乱立する無数の小さな墓標。
かつて主たちに愛され、そして散っていった獣たちの墓標だろう…。
私は震える手で地面を掘り、ロケットから夢幻の毛を取り出し、そこに埋める。
土をそっとかけ終え、持ってきたえさ皿に湖の水を汲み、そこにそえた時。
木々の葉から冷たい夜露が、ぽつり、またぽつりと滴り落ちてくる。
静寂を破り、湖の水面がぶくぶくと泡立った。
埋めたばかりの土が、内側から激しく盛り上がる。
匂い。
濡れた土と、微かに甘い、あの子の毛並みの匂い。
風が鳴る。
いや、鳴いている。
水面に映っていた月が歪み、土の中からは、虹色の美しいオパールのような瞳がひとつ、ふたつ。
土を掻き分けて現れたのは、夢幻であった。……いや、夢幻であるはずの「何か」だった。
月明かりの下でも、その毛だけは光を拒むように黒かった。
震える手を伸ばすと、夢幻は喉の奥から音を響かせた。
それはかつての愛らしいゴロゴロという音ではない。
まるで、哀しみで人の心を染めゆくような、低く、おぞましい、地獄の底からの響き。
気がつけば、周囲の墓標からも、無数の「かつて愛されていたものたち」が這い出し、狂ったように啼いている。
生きている者の温もりを妬む声……
夢幻であるはずの生き物が音もなく私の胸元へと跳びかかってくる。
その鋭い爪が、私の肌を裂こうとしていた。
夢幻……どうして……
その疑問は瞬時に奇妙な安堵感に変わる。
もう一度、この子に触れることができるなら……ここで、この子と共に在れるなら……
しかし。
地獄からの狂ったような鳴き声を切り裂く、甲高い「むー!」という猫の声。
「夢幻!」
間違えるはずがない。
叫ぶ時ですら、口を閉じ気味にしていたあの声。
月影が裂け、黒い影も崩れた。
響き渡っていた低い声は、夜へと消えていく。
そして、すたり、と私の足元に降り立つ小さな影。
半透明で、輪郭が月明かりに滲んでいる。
それでも、間違えようがない。
嗚呼……
この子が私を地獄へ連れていくわけがない。
なのに、どうして私は…
――おかえり。
声は出なかったが、影はそれに応えるように尻尾を揺らした。
永遠に続く愛を謡うように、喉を鳴らす。
私が伸ばした手は、影をすり抜ける。
それでも、確かに触れた気がした。
月のしずくが、指先を濡らす。
夢幻の毛の入ったロケットはそこに置いてきた。
エサ皿だけを持って帰る。
空が白み始め、ようやく我が家へ帰り着くと、庭の桜の木の根元――あのささやかな石碑のまわりを、濡れた小さな肉球の跡が、愛おしそうにぐるりと一周して消えていた。
――月は、もう沈んでいた。
ー了ー




