第9話 氷の鉄槌
「誤解ですわ! わたくしはただ、娘に会いに来ただけで……!」
みっともない悲鳴が、広間に響き渡った。
後ろ手に縛られ、床に正座させられた継母マリアは、髪を振り乱しながら必死に訴えている。
その隣には、先ほどまで威勢の良かった男たちが、青あざだらけの顔で震えていた。
カイド様の一撃と、駆けつけた警備兵たちによって、彼らは瞬く間に制圧されたのだ。
「誤解、か」
カイド様は革張りのソファに深く腰掛け、冷ややかな視線を投げかけた。
その手にはグラスが握られているが、中身は酒ではなく水だ。
氷がカラン、と音を立てるたびに、室内の温度が下がるような錯覚を覚える。
「俺の留守を狙い、門番を襲撃し、屋敷に不法侵入した。挙句、俺の妻と子供たちに暴力を振るった。……これのどこが誤解だというのだ?」
「そ、それは……! 門番が失礼な態度を取るものですから、少し教育を……」
「我が領の兵士に対する暴行は、領主である俺への反逆と同義だ」
カイド様の声は低く、抑揚がない。
怒鳴り散らすよりも遥かに恐ろしい、絶対零度の静けさだった。
私はカイド様の隣で、メイド長に頬を冷やしてもらいながらその様子を見ていた。
子供たちはセバスチャンが別室へ連れて行ってくれた。
あの子たちに、これ以上醜いものを見せる必要はない。
「それに、わたくしは娘を心配していたのです! エレナが虐待されていると聞いて、母親として居ても立っても居られず……」
マリアはまだ言い訳を続けている。
その厚顔無恥さには呆れるばかりだ。
彼女はチラリと私を見て、猫なで声を出した。
「ねえ、エレナ? あなたからも言ってちょうだい。お母様はあなたを助けに来たのよね? 可哀想に、こんな暴力を振るわれて……ああっ、その頬! きっと辺境伯に打たれたのね!」
彼女は私の腫れ上がった頬を指差し、白々しく涙を拭うふりをした。
自分たちが雇った男に殴らせておいて、それをカイド様のせいにするつもりなのだ。
どこまでも腐っている。
私は氷嚢を外し、静かに口を開いた。
「いいえ。私を殴ったのは、お義母様が連れてきた男たちです」
「なっ……何を言うの、エレナ! 脅されているのね!?」
「脅されてなどいません。この頬の痛みは、あなたが私から奪おうとしたものの代償です。……子供たちを誘拐して、身代金を請求しようとしましたね」
私が事実を告げると、マリアの顔が引きつった。
「人聞きの悪い! 保護よ、保護! 虐待されている子供たちを救おうとしただけ……」
「黙れ」
カイド様の一言が、マリアの弁明を断ち切った。
彼はグラスをテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がった。
その長身が、マリアの上に影を落とす。
「虐待の事実などない。医師の診断書も、使用人たちの証言もすべて揃っている。……それに」
カイド様は私の方へ歩み寄り、そっと私の顎に触れた。
その指先はひどく冷たかったけれど、触れ方は壊れ物を扱うように優しかった。
彼は私の腫れた頬を見て、痛ましげに目を細めた。
「俺が妻に手を上げることはない。だが、俺の大切なものを傷つけた者には、相応の報いを受けてもらう」
彼はマリアに向き直った。
その瞳に宿るのは、明確な殺意だった。
「ひっ……!」
マリアが喉を鳴らして後ずさる。
「さて、法的手続きの話をしようか」
カイド様は懐から一枚の書類を取り出した。
「これは君たちが持参していた『借用書』の写しだな。フォレス男爵家の借金を、我が家が肩代わりしたという証明だ」
「そ、そうよ! まだ全額返済されていませんわ! 娘を嫁がせたからといって、借金が消えるわけでは……」
「契約書をよく読むんだな。『娘の婚姻をもって、債務の一部を相殺する』とはあるが、残りの返済を免除するとは書いていない」
カイド様は薄い唇を歪めた。
「本来なら、エレナの持参金代わりとして目を瞑るつもりだった。だが、君たちがこうして契約を破り、我が家に損害を与えた以上、慈悲をかける必要はなくなった」
「え……?」
「不法侵入、傷害、誘拐未遂。これらに対する慰謝料と、屋敷の修繕費、治療費。そして男爵家の残債務。……すべて合わせると、金貨二千枚ほどになるな」
二千枚。
マリアが要求してきた金額の倍だ。
男爵家の全財産を売っても払える額ではない。
「そ、そんな……払えるわけがありません! 横暴ですわ!」
「払えないなら、体で払ってもらうしかない」
カイド様は淡々と告げた。
「北の鉱山では、常に人手が不足している。男爵と君、そして義妹君も揃って働けば、五十年ほどで返せるかもしれん」
「こ、鉱山……!? 嫌よ! わたくしは貴族よ! そんな下賤な真似ができるもんですか!」
マリアが半狂乱になって叫ぶ。
しかしカイド様は眉一つ動かさない。
「貴族としての特権は、義務を果たしてこそ得られるものだ。罪を犯し、借金を踏み倒すような輩に名乗る資格はない。……すでに王都への報告は済ませた。明日には爵位剥奪の沙汰が下るだろう」
「う、嘘よ……」
マリアの顔から血の気が失せた。
カイド様は口先だけで脅しているのではない。
彼は本気だ。
有言実行。それが「氷の辺境伯」のやり方だ。
「連れて行け。地下牢で頭を冷やさせろ」
カイド様が合図すると、警備兵たちがマリアと男たちを乱暴に立たせた。
「待って! エレナ! 助けて! お母様よ!? 今まで育ててあげたじゃない!」
マリアが私に向かって泣き叫ぶ。
その見苦しい姿を見ても、私の心は凪のように静かだった。
同情など欠片も湧いてこない。
彼女は「育ててあげた」と言ったけれど、私に与えられたのは古着と残飯、そして罵倒だけだった。
「さようなら、お義母様」
私は静かに告げた。
「どうか、鉱山では真面目に働いてくださいね。健康には良いそうですから」
「この恩知らず! 悪女! 呪ってやる……!」
罵詈雑言は、重い扉が閉まると同時に断ち切られた。
静寂が戻る。
嵐が過ぎ去った後のような、深い静けさだ。
私は大きく息を吐き、ソファに崩れ落ちそうになった。
緊張の糸が切れたのだ。
「エレナ」
すぐにカイド様が支えてくれた。
逞しい腕に抱き留められ、ふわりと男性的な香りが鼻をかすめる。
「……怖かったか」
耳元で問われ、私は首を横に振った。
「いいえ。あなたが来てくれると、信じていましたから」
これは本心だった。
あの絶望的な状況で、私の脳裏に浮かんだのはカイド様の顔だけだった。
いつの間にか、私は彼をこれほどまでに信頼していたのだ。
「……すまなかった」
カイド様は私の頭を胸に押し付け、苦しげに言った。
「俺の警備が甘かった。二度と、こんな目には遭わせない。……約束する」
その言葉には、契約以上の重みがあった。
彼の手が私の背中を優しく撫でる。
その不器用な温もりに、私の目頭が熱くなった。
「カイド様……」
「なんだ」
「ありがとう、ございます。……私の、家族を守ってくれて」
私がそう言うと、彼の体がピクリと震えた。
彼は少しの間沈黙し、それから低く呟いた。
「……俺の、家族でもある」
その一言で、私の頬を伝って涙がこぼれ落ちた。
痛みからではない。
嬉しさからだ。
彼はついに認めたのだ。私と、そして子供たちを、守るべき「家族」として。
「エレナ! エレナ!」
別室の扉が開き、ルカとリナが飛び出してきた。
セバスチャンが止めるのも聞かず、二人は私たちのもとへ駆け寄ってくる。
「大丈夫!? 痛くない!?」
「悪いおばさん、いなくなった?」
涙目で尋ねる二人に、私はしゃがみ込んで微笑んだ。
頬の痛みなんて、もうどうでもいい。
「ええ、大丈夫よ。パパが追い払ってくれたわ」
私がカイド様を見上げると、彼は少し照れくさそうに視線を逸らした。
ルカがカイド様の前に立ち、じっと見上げた。
「……パパ」
「……なんだ」
「強かった。……かっこよかった」
ルカの直球な称賛に、カイド様の耳が赤くなる。
彼は咳払いを一つして、ルカの頭にポンと手を置いた。
「お前もだ。……エレナを守ろうとしたんだろう? 立派だったぞ」
褒められたルカは、驚いたように目を見開き、それからへへっと鼻をこすった。
その顔は、年相応の少年のものだった。
「リナも! リナも泣かなかったよ!」
「ああ、リナも偉かった」
カイド様はリナも抱き上げ、その高い視界にリナが歓声を上げる。
広間には、穏やかな空気が満ちていた。
かつて「氷の辺境伯」と呼ばれ、孤独に生きてきた男と、売られてきた悪役令嬢、そして心を閉ざしていた双子。
不揃いな欠片たちが集まって、今ようやく、一つの「家族」の形になろうとしていた。
私は立ち上がり、その光景を眺めた。
窓の外では、冬の終わりを告げるような柔らかな日差しが降り注いでいる。
長く厳しかった冬が、ようやく明けようとしていた。
実家との縁は切れ、脅威は去った。
あとは、私たちが本当の幸せを掴むだけ。
契約という薄氷の上ではなく、確かな絆という大地の上で。
カイド様と目が合った。
彼はリナを下ろし、私に向かって手を差し出した。
「部屋に戻ろう。……手当てをし直さなければ」
「はい」
私はその手に自分の手を重ねた。
温かかった。
もう、離したくないと思うほどに。
これが恋なのかどうか、私にはまだ分からない。
けれど、この人の隣が私の居場所であることは、確信していた。
いよいよ物語は結末へと向かう。
契約書の期限など、もう誰の頭にもないだろうけれど。
私たちは最後に、一つだけ確認しなければならないことがある。
それは、この関係にどんな名前をつけるかということだ。




