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【第2章追加】「愛はない」と言われた契約妻ですが、子供たちを愛でるのに忙しいので旦那様は空気として扱います  作者: 月雅
第1章

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第9話 氷の鉄槌


「誤解ですわ! わたくしはただ、娘に会いに来ただけで……!」


 みっともない悲鳴が、広間に響き渡った。


 後ろ手に縛られ、床に正座させられた継母マリアは、髪を振り乱しながら必死に訴えている。

 その隣には、先ほどまで威勢の良かった男たちが、青あざだらけの顔で震えていた。

 カイド様の一撃と、駆けつけた警備兵たちによって、彼らは瞬く間に制圧されたのだ。


「誤解、か」


 カイド様は革張りのソファに深く腰掛け、冷ややかな視線を投げかけた。

 その手にはグラスが握られているが、中身は酒ではなく水だ。

 氷がカラン、と音を立てるたびに、室内の温度が下がるような錯覚を覚える。


「俺の留守を狙い、門番を襲撃し、屋敷に不法侵入した。挙句、俺の妻と子供たちに暴力を振るった。……これのどこが誤解だというのだ?」


「そ、それは……! 門番が失礼な態度を取るものですから、少し教育を……」


「我が領の兵士に対する暴行は、領主である俺への反逆と同義だ」


 カイド様の声は低く、抑揚がない。

 怒鳴り散らすよりも遥かに恐ろしい、絶対零度の静けさだった。


 私はカイド様の隣で、メイド長に頬を冷やしてもらいながらその様子を見ていた。

 子供たちはセバスチャンが別室へ連れて行ってくれた。

 あの子たちに、これ以上醜いものを見せる必要はない。


「それに、わたくしは娘を心配していたのです! エレナが虐待されていると聞いて、母親として居ても立っても居られず……」


 マリアはまだ言い訳を続けている。

 その厚顔無恥さには呆れるばかりだ。

 彼女はチラリと私を見て、猫なで声を出した。


「ねえ、エレナ? あなたからも言ってちょうだい。お母様はあなたを助けに来たのよね? 可哀想に、こんな暴力を振るわれて……ああっ、その頬! きっと辺境伯に打たれたのね!」


 彼女は私の腫れ上がった頬を指差し、白々しく涙を拭うふりをした。

 自分たちが雇った男に殴らせておいて、それをカイド様のせいにするつもりなのだ。

 どこまでも腐っている。


 私は氷嚢を外し、静かに口を開いた。


「いいえ。私を殴ったのは、お義母様が連れてきた男たちです」


「なっ……何を言うの、エレナ! 脅されているのね!?」


「脅されてなどいません。この頬の痛みは、あなたが私から奪おうとしたものの代償です。……子供たちを誘拐して、身代金を請求しようとしましたね」


 私が事実を告げると、マリアの顔が引きつった。


「人聞きの悪い! 保護よ、保護! 虐待されている子供たちを救おうとしただけ……」


「黙れ」


 カイド様の一言が、マリアの弁明を断ち切った。

 彼はグラスをテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がった。

 その長身が、マリアの上に影を落とす。


「虐待の事実などない。医師の診断書も、使用人たちの証言もすべて揃っている。……それに」


 カイド様は私の方へ歩み寄り、そっと私の顎に触れた。

 その指先はひどく冷たかったけれど、触れ方は壊れ物を扱うように優しかった。

 彼は私の腫れた頬を見て、痛ましげに目を細めた。


「俺が妻に手を上げることはない。だが、俺の大切なものを傷つけた者には、相応の報いを受けてもらう」


 彼はマリアに向き直った。

 その瞳に宿るのは、明確な殺意だった。


「ひっ……!」


 マリアが喉を鳴らして後ずさる。


「さて、法的手続きの話をしようか」


 カイド様は懐から一枚の書類を取り出した。


「これは君たちが持参していた『借用書』の写しだな。フォレス男爵家の借金を、我が家が肩代わりしたという証明だ」


「そ、そうよ! まだ全額返済されていませんわ! 娘を嫁がせたからといって、借金が消えるわけでは……」


「契約書をよく読むんだな。『娘の婚姻をもって、債務の一部を相殺する』とはあるが、残りの返済を免除するとは書いていない」


 カイド様は薄い唇を歪めた。


「本来なら、エレナの持参金代わりとして目を瞑るつもりだった。だが、君たちがこうして契約を破り、我が家に損害を与えた以上、慈悲をかける必要はなくなった」


「え……?」


「不法侵入、傷害、誘拐未遂。これらに対する慰謝料と、屋敷の修繕費、治療費。そして男爵家の残債務。……すべて合わせると、金貨二千枚ほどになるな」


 二千枚。

 マリアが要求してきた金額の倍だ。

 男爵家の全財産を売っても払える額ではない。


「そ、そんな……払えるわけがありません! 横暴ですわ!」


「払えないなら、体で払ってもらうしかない」


 カイド様は淡々と告げた。


「北の鉱山では、常に人手が不足している。男爵と君、そして義妹君も揃って働けば、五十年ほどで返せるかもしれん」


「こ、鉱山……!? 嫌よ! わたくしは貴族よ! そんな下賤な真似ができるもんですか!」


 マリアが半狂乱になって叫ぶ。

 しかしカイド様は眉一つ動かさない。


「貴族としての特権は、義務を果たしてこそ得られるものだ。罪を犯し、借金を踏み倒すような輩に名乗る資格はない。……すでに王都への報告は済ませた。明日には爵位剥奪の沙汰が下るだろう」


「う、嘘よ……」


 マリアの顔から血の気が失せた。

 カイド様は口先だけで脅しているのではない。

 彼は本気だ。

 有言実行。それが「氷の辺境伯」のやり方だ。


「連れて行け。地下牢で頭を冷やさせろ」


 カイド様が合図すると、警備兵たちがマリアと男たちを乱暴に立たせた。


「待って! エレナ! 助けて! お母様よ!? 今まで育ててあげたじゃない!」


 マリアが私に向かって泣き叫ぶ。

 その見苦しい姿を見ても、私の心は凪のように静かだった。

 同情など欠片も湧いてこない。

 彼女は「育ててあげた」と言ったけれど、私に与えられたのは古着と残飯、そして罵倒だけだった。


「さようなら、お義母様」


 私は静かに告げた。


「どうか、鉱山では真面目に働いてくださいね。健康には良いそうですから」


「この恩知らず! 悪女! 呪ってやる……!」


 罵詈雑言は、重い扉が閉まると同時に断ち切られた。

 静寂が戻る。

 嵐が過ぎ去った後のような、深い静けさだ。


 私は大きく息を吐き、ソファに崩れ落ちそうになった。

 緊張の糸が切れたのだ。


「エレナ」


 すぐにカイド様が支えてくれた。

 逞しい腕に抱き留められ、ふわりと男性的な香りが鼻をかすめる。


「……怖かったか」


 耳元で問われ、私は首を横に振った。


「いいえ。あなたが来てくれると、信じていましたから」


 これは本心だった。

 あの絶望的な状況で、私の脳裏に浮かんだのはカイド様の顔だけだった。

 いつの間にか、私は彼をこれほどまでに信頼していたのだ。


「……すまなかった」


 カイド様は私の頭を胸に押し付け、苦しげに言った。


「俺の警備が甘かった。二度と、こんな目には遭わせない。……約束する」


 その言葉には、契約以上の重みがあった。

 彼の手が私の背中を優しく撫でる。

 その不器用な温もりに、私の目頭が熱くなった。


「カイド様……」


「なんだ」


「ありがとう、ございます。……私の、家族を守ってくれて」


 私がそう言うと、彼の体がピクリと震えた。

 彼は少しの間沈黙し、それから低く呟いた。


「……俺の、家族でもある」


 その一言で、私の頬を伝って涙がこぼれ落ちた。

 痛みからではない。

 嬉しさからだ。

 彼はついに認めたのだ。私と、そして子供たちを、守るべき「家族」として。


「エレナ! エレナ!」


 別室の扉が開き、ルカとリナが飛び出してきた。

 セバスチャンが止めるのも聞かず、二人は私たちのもとへ駆け寄ってくる。


「大丈夫!? 痛くない!?」

「悪いおばさん、いなくなった?」


 涙目で尋ねる二人に、私はしゃがみ込んで微笑んだ。

 頬の痛みなんて、もうどうでもいい。


「ええ、大丈夫よ。パパが追い払ってくれたわ」


 私がカイド様を見上げると、彼は少し照れくさそうに視線を逸らした。

 ルカがカイド様の前に立ち、じっと見上げた。


「……パパ」


「……なんだ」


「強かった。……かっこよかった」


 ルカの直球な称賛に、カイド様の耳が赤くなる。

 彼は咳払いを一つして、ルカの頭にポンと手を置いた。


「お前もだ。……エレナを守ろうとしたんだろう? 立派だったぞ」


 褒められたルカは、驚いたように目を見開き、それからへへっと鼻をこすった。

 その顔は、年相応の少年のものだった。


「リナも! リナも泣かなかったよ!」


「ああ、リナも偉かった」


 カイド様はリナも抱き上げ、その高い視界にリナが歓声を上げる。

 

 広間には、穏やかな空気が満ちていた。

 かつて「氷の辺境伯」と呼ばれ、孤独に生きてきた男と、売られてきた悪役令嬢、そして心を閉ざしていた双子。

 不揃いな欠片たちが集まって、今ようやく、一つの「家族」の形になろうとしていた。


 私は立ち上がり、その光景を眺めた。

 窓の外では、冬の終わりを告げるような柔らかな日差しが降り注いでいる。

 長く厳しかった冬が、ようやく明けようとしていた。


 実家との縁は切れ、脅威は去った。

 あとは、私たちが本当の幸せを掴むだけ。

 契約という薄氷の上ではなく、確かな絆という大地の上で。


 カイド様と目が合った。

 彼はリナを下ろし、私に向かって手を差し出した。


「部屋に戻ろう。……手当てをし直さなければ」


「はい」


 私はその手に自分の手を重ねた。

 温かかった。

 もう、離したくないと思うほどに。


 これが恋なのかどうか、私にはまだ分からない。

 けれど、この人の隣が私の居場所であることは、確信していた。

 

 いよいよ物語は結末へと向かう。

 契約書の期限など、もう誰の頭にもないだろうけれど。

 私たちは最後に、一つだけ確認しなければならないことがある。

 それは、この関係にどんな名前をつけるかということだ。


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