第8話 誘拐未遂
私は洗濯物を入れた籠を放り出し、子供たちの前へと飛び出した。
西棟の裏庭。
昼下がりの穏やかな日差しは、突如として黒い影に遮られた。
「まあ、なんてひどい格好なの。可哀想なエレナ!」
甲高い、耳障りな声が響く。
そこに立っていたのは、派手なドレスに身を包んだ継母、マリアだった。
背後には、いかにも柄の悪そうな男たちを二人引き連れている。
「……どうして、ここに」
私の声は震えていた。
カイド様は今朝から領内の視察に出かけていて不在だ。
屋敷の警備は強化されていたはずなのに。
「どうしても何も、娘を助けに来た母親に対して、門番が失礼な態度を取るものですから。少しばかり『教育』して通らせていただきましたわ」
マリアは扇子で口元を隠し、おほほ、と笑った。
門番がどうなったのか想像するだけで血の気が引く。
この人は目的のためなら、平気で他人を傷つける。
背後のルカとリナが、私のスカートを強く握りしめた。
二人は本能的に感じ取っているのだ。
目の前の女が放つ、ドス黒い悪意を。
「帰ってください。私は助けなんて求めていません」
私は両手を広げ、子供たちを背中に隠した。
「あら、強がりを。そんな粗末な服を着て、使用人のような真似事をさせられているのでしょう? 痩せこけて、顔色も悪いわ」
彼女は勝手に決めつけ、同情するふりをして近づいてくる。
今日の私は動きやすいようにシンプルなワンピースを着ているだけだし、健康そのものだ。
彼女の目には、私が「虐げられている被害者」に見えていないと困るのだろう。
「さあ、帰りましょう。お父様も待っていますよ。……もちろん、辺境伯様には後ほど、たっぷりと慰謝料を請求させていただきますけれど」
「嫌です! 私はここが家です!」
私が叫ぶと、マリアの目が冷たく細められた。
「……聞き分けのない子ね。昔からそう。可愛げがないのよ」
彼女が合図を送ると、控えていた男たちが一歩前に出た。
強硬手段に出るつもりだ。
「連れてお行き。抵抗するようなら、多少手荒にしても構わないわ。どうせ『辺境伯に暴力を振るわれた傷』として診断書を書かせるのですから」
「ひっ……!」
男の一人がニヤリと笑い、太い腕を伸ばしてきた。
私は恐怖で足がすくみそうになるのを必死で堪えた。
逃げなければ。
でも、背後には子供たちがいる。
私が逃げれば、この子たちが危ない。
「やめて! あっちいけ!」
ルカが私の横から飛び出し、男の足にしがみついて噛みついた。
「痛ってぇ!」
男が悲鳴を上げ、反射的に足を振り払う。
小さな体が宙を舞い、地面に叩きつけられた。
「ルカ様!」
私は悲鳴を上げ、ルカに駆け寄った。
幸い、芝生の上だったため大きな怪我はなさそうだが、彼は痛みに顔を歪めている。
リナが泣きながら兄に抱きついた。
「あらあら、躾のなっていない子供だこと。……待ちなさい」
マリアが興味深そうに目を輝かせた。
その視線が、ルカとリナの整った顔立ち、そして上質な衣服に注がれる。
「その子たち、辺境伯の子供ね? 双子だとは聞いていたけれど」
「……関係ありません。手を出さないで!」
「ふふっ、いいわね。エレナだけじゃ慰謝料が足りないと思っていたところよ。その子たちも一緒に『保護』してあげましょう」
「な……っ」
「辺境伯に虐待されている子供たちを、心優しい夫人が保護した。素晴らしい美談じゃない? 身代金……いえ、養育費もたっぷりと請求できるわ」
正気じゃない。
この女は、狂っている。
お金のためなら、誘拐すら正当化するというのか。
「やらせない……!」
私は立ち上がり、再び男たちの前に立ちはだかった。
武力なんてない。
魔法だって、お掃除くらいしかできない。
それでも、絶対に渡すわけにはいかない。
「邪魔だ、女」
男が鬱陶しそうに私の肩を掴んだ。
強い力で締め上げられ、骨が軋む。
「離して! 誰か! 誰か来てください!」
私は喉が裂けんばかりに叫んだ。
屋敷の使用人たちは、マリアたちが連れてきた他の荒くれ者たちに足止めされているのだろうか。
誰も助けに来ない。
セバスチャンも、警備兵も、どこにいるの?
「うるさい!」
バチンッ!
乾いた音が響き、視界が明滅した。
頬に走る熱い痛み。
叩かれたのだと理解するのに、数秒かかった。
口の中に鉄の味が広がる。
「エレナ!」
ルカとリナの泣き叫ぶ声が聞こえる。
私は地面に這いつくばりながらも、男の足首を掴んだ。
「だめ……あの子たちには、指一本、触れさせない……」
「しぶといアマだな」
男が苛立ち、私を蹴り飛ばそうと足を上げた。
マリアが高笑いしている。
ああ、終わる。
痛みが来る。
ごめんなさい、カイド様。
私、守れなかった。
私はギュッと目を閉じた。
――ドォォォン!!
次の瞬間。
雷が落ちたような轟音が響き渡り、空気がビリビリと震えた。
「うわぁっ!?」
男の悲鳴と共に、目の前にあった圧力が消え失せた。
何かが、凄まじい勢いで吹き飛んでいった気配。
私は恐る恐る目を開けた。
そこには、誰もいなかった。
正確には、私を蹴ろうとしていた男が、庭の遥か彼方、石塀にめり込んでぐったりとしていた。
そして。
私と子供たちの前に、一人の男が立っていた。
漆黒の軍服。
なびく黒髪。
背中から立ち上る、青白い冷気のような魔力。
「カ……イド、様……?」
彼はゆっくりと振り返った。
その顔を見て、私は息を飲んだ。
怒り。
そう表現するには生ぬるい。
それは絶対零度の殺意だった。
美しい顔は能面のように無表情だが、蒼い瞳は激情で渦を巻き、周囲の空気さえも凍らせていた。
「……遅くなった」
低く、地を這うような声。
彼は私の腫れ上がった頬を見て、ギリリと奥歯を噛み締めた。
「パパ!」
ルカとリナが、泣きじゃくりながらカイド様の足元に縋り付いた。
カイド様は一瞬だけ表情を緩め、二人の頭を撫でたが、すぐに視線を前方へと戻した。
そこには、腰を抜かして震えるマリアと、残りの男がいた。
「へ、辺境伯……! これは誤解で……わたくしはただ、娘を……」
マリアが青ざめた顔で弁解しようとする。
しかし、カイド様は何も言わなかった。
ただ静かに、腰の剣に手をかけただけだ。
チャキ、と鍔鳴りの音が響く。
それだけで、場の空気が完全に支配された。
「俺の領地で」
カイド様が一歩踏み出す。
芝生がバリバリと音を立てて凍りついていく。
「俺の屋敷で」
もう一歩。
マリアたちが悲鳴を上げて後ずさる。
「俺の家族に手を出して、生きて帰れると思うなよ」
放たれた言葉は、死刑宣告そのものだった。
私は痛む頬を押さえながら、涙が溢れてくるのを止められなかった。
安堵と、そして彼が「家族」と言ってくれたことへの喜びで。
屋敷の奥から、ようやく解放されたセバスチャンと警備兵たちが駆けつけてくるのが見えた。
しかし、もう手遅れだ。
氷の辺境伯の逆鱗に触れた愚か者たちに、慈悲が与えられるはずもなかった。




